雑記:人に言われるとそれしか無くなる編 的を得る
人に言われると何故かその意味しか無いと思ってしまう人が出る物事について、違うよねと言うことを書く雑記の2つめ。
今回は「的を得た答え」について書いてみる。
この成語は今一番指摘が多く来そうな"誤記"とされていて、小説内で書くと直ぐにも感想に「的を射た答え」ですよと飛んでくるのが恒例となっている。それで、これについて「的を得た答え」などと言うのは間違いなのか。
個人的な考えとしては、当然取り上げている通りNO。
これで合っていると思っている。寧ろ「的を射た答え」などの方が誤記では無いかとすら思っている。その理由について書く前に、何時から「的を射た」が主流となったのかを確認してみた。
(例の国語辞典の来歴)
では次に「的」とは何か、そして「射た」と「得た」でどう意味が変わるかを考えてみた。
先ずは的であるが、国語辞典では何故か「射的の的」としてのみ検討がされている。しかし古来より的とはそれを指すのか?というと違うだろう。的とはそのまま「標的」の事であり、打ち倒すべき相手であったり、食糧にするための動物である事の方が圧倒的に多い。この様な場合に、それら全てを狙うのに弓矢だけを使って事を進めるだろうか?
そしてこれらを手中にした場合に「射た」しか使わないものだろうか?当然違う。首級を得る、獲物を得るなどとその標的を確保した場合など普通に「得る」を使うのである。
それでは、私が「的を得た」の方が正しいと思う理由を列挙してみよう。
一つには上記の様に「的」と「射る」「得る」についての意味の捉え方である。
国語辞典の編集者の様に正鵠を射るなどの他の言葉との比較・言葉遊びでは無くて、実際に有るであろう事象を元にこの言葉を考えた場合に間違っているとは思えないからである。
二つに、その言葉の意味を辞書で引いた場合である。
そこで出てくる意味は「要領を捉えた様な答え」など、どうにも遠隔武器で的を射貫いた様な描写を想定させるものでは無い事が書かれている。私はこれを寧ろ、相手の首級を上げた事がある者から要領を聴くとか、狩りで獲物を得ている猟師から話を聴くという形の方が合っていると考えた。
三つに、国語辞典の編集者が決め手で言ったという話の否定である。
これは作り話も含まれているかもしれないが、正鵠を射るという以外にも、普通に考えれば的に当てるのは矢であり、だからこそ射るという言葉になるはずだという事だそうだ。で、それはおかしいと思ったのである。何故か?今この世界に一番多い遠隔武器は銃である。或いは結構前からそうである。それより前なら投石や投槍もある。
何故に弓矢としたのか。そしてその様に変遷するのならば、今の国語辞典には的を撃つとすべきであろうと思ったのである。そしてそれを考えた場合、的を練習用の的で、武器を弓矢で限定する様なこの表現は言葉の意味を著しく狭めると思ったのである。
無論、これらは何かの漢文古文で「古事成語」の原典があればそれに従うべきものであると思っている。だがそうで無いのであれば、上記の理由から私は「的を得る」を正しいと思い、使うものである。