003 ようこそ…ここは何処?
「あ〜さ〜!!朝だぞ〜!!貴方のための〜!朝だぁ〜!!」
何だか良く解らない叫び声に起こされた。
(…何だ?…騒々しい…)
ほんのり目を覚ましたが、心地よい眠気に自然と瞼が重くなる。漆黒は半覚醒の状態のまま、ユラユラとした時間を過ごしていた。
(…まだ…寝ていたいが…そろそろ…)
ぼんやりとした意識の中で、もう起きなければと思っていた。重い瞼を強引にこじ開け、無理矢理にでも意識を覚醒させようとしたが、穏やかな春の日を思わせる心地よさに、意識は薄れて瞼は静かに閉じて行く。
「朝だから〜あぁ〜朝だから、朝だからぁ〜。」
何処からともなく聞こえてくる叫び声が延々と続く。当然、心地よい眠気も醒めてしまい、次第に不快なオーラに包まれる。執拗に繰り返される叫び声に、漆黒は堪らず文句を言っていた。
「あぅあぅあ〜(うるさいな〜)。」
(……は?……)
すぐ側で聞こえた赤ん坊の声。驚いて目を見開き周囲を見た漆黒は、初めて自分の状況を目にした。
(……!!!……なんだ!これは……。)
自分が巨大な天蓋付きベッドに横たわっていた。全く持ち上がらない重い頭。ムチムチの手足。ベッドに横たわる姿は、まるでボンレスハムのようだ。
(なぜ自分が赤ちゃんになっている!…クッ!…しかも、体が…)
漆黒は必死に体を動かそうとしたが、手足が連動して奇妙に動くだけで、上手くコントロールができない。ただ、ジタバタするだけで寝返りすら打てない。
さらに話す言葉は“アゥアゥ”と吐き出され、試しに叫んでみたが“あぁ〜”とか“おぁ〜”としか発することができなかった。それでも何か方法がないかと試してみたが、全て無駄に終わってしまった。たぶん口の筋肉を複雑に動かすことが出来ないのだろう。これでは話すこともままならない。
暫しの放心状態を経て何とか再起動を果たしたが、考えをまとめるのに、それなりの時間を必要とした。“まずは自分の置かれた状況を理解する。”その為に周囲に目を向け情報を集めた。
(ここはベルサイユ宮殿か?いや、そんなことはないだろう。この部屋を見る限り、非常に豪華な造りだ。天蓋付きベッドもそうだが、壁や窓の装飾は手間がかかっている。芸術品を思わせるほどの美しい文様と洗練された彫刻。ベッドやカーテン等に使われている生地。その総べてが高級感のある素材で造られている。ここは何処かの国の貴族か、王族の屋敷か。)
そこまで考えた漆黒は、フラッシュバックのように一連の出来事を思い出した。超が付くほどの金持ちと令嬢のこと。あの屋敷に招かれ、そこで意識が途切れ、それ以降の記憶が一切ないこと。それら全てが走馬灯にように思い出され、漆黒は無意識の内に叫んでいた。
「いぃ〜お〜い〜(伊音!!)。」
「はい、漆黒お嬢様。お呼びございますか?」
(…いっ!!…いつの間に…)
驚いたことに自分が横たわるベッドの脇に、年老いた女性が立っていた。しかも、反対側には好々爺然とした老人までいる。
(…先程まで、誰もいなかったが。…瞬きをする間に現れた?…)
突然、現れた二人に驚いて目を見張る。そんな漆黒を構うことなく、老婆はごく自然な動作で窓辺へ行き窓を開けた。すると、開け放たれた窓から外の叫び声がより鮮明に聞こえて来た。正直うんざりするほど大きく聞こえる。
「貴方だけの〜〜〜〜!!!!!朝だぁ〜〜〜〜!!!!!」
漆黒は聞こえてくる大声に思わず顔を顰め、成り行きを眺めていた。老婆は窓辺に置かれた燭台を握ると、渾身の力でそれを投げつける。
「貴方のための〜!朝だから〜『ガン!』……『ドサっ』…。」
それまで弾けた調子で叫んでいた声が急に途切れ、その後は耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
「やっと静かになったわい。」
両手をパンパンと打ち鳴らし、一仕事を終えた老婆は満面の笑みで歩いてくる。漆黒は恐怖あまり身動きが取れない。
「漆黒お嬢様。バカ狼は黙らせました。漆黒お嬢様?」
(…えっ?まさか…。私のことを“漆黒お嬢様”と呼ぶのは伊音だけだ。以前アイツは、自分のことは婆やと呼んでくれと言っていたが。…えぇ!まさか、目の前の老婆が………そうなのか?)
「いぃ〜お〜ぉ。な〜お〜ぁ。(伊音なのか?)」
「えぇ、イオンですよ。私の本来の姿がこの姿なのです。」
(なんと!伊音だったか。あの可憐で美しい少女は何だったのだ。)
「ちなみに地球にいた時の姿は、私の若い時の姿です。オホホ。」
(…なんだと!あの美少女が…あの、我侭ボディーが…。)
伊音の言葉に世の不公平と、創造主に対する若干の憤りを感じつつ、ベッドの反対側に居る老人に目を向ける。
「二度目でございます。閣下。」
(あぁ、あの時の執事か?)
「えぇ、ようこそお出で下さいました閣下。私の事は爺やとお呼び下さい。」
満面の笑みで語りかけてくる。
「そぉ〜お〜い、いぃ〜お〜い〜(それより、伊音)。」
「分かっております。説明ですね。その前に、漆黒お嬢様、こちらを装着して下さい。」
伊音におしゃぶりを咥えさせられる。
「何だ〜。これは。」
(ハッ!ちゃんと喋れた。)
「こちらは、言葉を明瞭にする魔道具となっております。」
伊音が頭を下げ、反対側の執事が説明を始めた。
「こちらの魔道具は、その性能も然ることながら、形状にも拘った一級品となっております。リアルな乳房を再現しつつ、口に含んだ時の違和感を感じさせない素材といい、私も太鼓判を押す逸品となっております。こちらの魔道具は、その筋でも著名な魔道具作家による渾身の作でございます。試作段階からの我々のこだわりは相当であり、完成に至るまでに苦難の道のりと労力は、とても一言では言い表せません。」
いきなり執事が饒舌に話し始めたと思ったら、年齢を重ねてなおギラギラする欲望を見せ付けられ閉口した。
「いや、性能が良ければリアルさは気にしない。さらに言えば、おしゃぶりにする必要もないのではないか。」
「何をおっしゃいます閣下。おしゃぶりをリアルにしないで、他の何をリアルに出来ましょう。おしゃぶりこそ……。」
(……ヒッ!……)
おしゃぶりについて熱く語る執事を、恐ろしく冷たい視線が射抜いていた。急に黙り込んでしまった執事は、伊音の視線に小さく悲鳴を上げ、自分自身の迂闊な行動を呪った。緊張して顔が引き攣る執事と、それを見詰めて静かに微笑む伊音。しかし、その瞳は全く笑っていない。
「漆黒お嬢様、この者の処分は後ほど。それよりも、まず説明させていただきます。この地は魔界でございます。そして漆黒お嬢様は、やがて魔界を統べる王となられるお方。これは決定事項です。私の目に狂いはないのです。お体の方も、まだ魂が安定しておりませんので赤ん坊の状態ですが、定着すれば魔力の安定により自由に変化させる事が可能です。もちろん、現在使われております、お体のスペックは最高レベルのものをご用意させて頂きました。あちらの世界へ持ち込んだ、龍種と龍人の細胞を使い合成されたお体は、その耐久性は勿論のこと魔力適正にも優れ、まさに傑作と呼べる完成度です。ここまでは、よろしいでしょうか?」
「いや、さっぱり分からん。龍種?合成?耐久性に魔力適正?必要なことか。」
「もちろんでございます。とにかく、明日には安定期になりますので、如何様にでもなります。先程も申しましたが、本日は、まだ魂が安定しておりません。魔界を心行くまでご堪能して頂きたいのですが、全ては明日からに致しましょう。決して後悔などさせません。」
(いっ、いや、既に後悔しているのだが。)
「ご心配には及びません。以前のお体はこちらが責任を持って保管しております。当然ですが時間の経過も無く劣化の心配の無い状態で、完全安心な保管を致しております。その気になれば、いつでも元の世界に戻る事が可能なのです。従ってここは、ある種のアトラクションとお考え下さい。そして思う存分楽しんで行って下されば幸いです。」
「なんと!いつでも戻る事ができるのか。ある種のアトラクションか。それならいいかもしれないな。魔界の魔王という設定なのだな。例えば、勇者が現れて倒されるとか、討伐される事などないのだな。」
「えぇ、もちろんでございます。勇者など、もう数百年も現れておりません。しかも、今では争い事も無く平和なものですよ。」
(へっ?勇者いるの。…でも、もう数百年も現れてないのか。争いも無く平和な世界…なのだな。)
さすがに漆黒も転生ものの話は幾つか知っている。その多くは日本に戻る事が出来ない設定や、哀しい最後を迎えるものなどだった。
(とにかく、明日になれば魔法も使えるのだ。まだ少し心配だが、同時に気持ちが昂りワクワクする。)
「えぇ、そうですとも。魔界は良いところです。魔界の住人達は穏やかで、笑いが絶えません。“住めば魔界”といいますし。」
「そうか、そうか。良いところか。でも、それを言うなら“住めば都”だろう。まあ、明日以降は凄く楽しみだ。」
漆黒と伊音が明日以降の予定を楽しく話している。二人の会話は止まることを知らず、魔法のことや魔界の観光地などの話で大いに盛り上がっていた。それこそ時間の経つのも忘れ、話に夢中になる二人。そこへ思いがけない知らせが届く。
「ゆっ、勇者が来たぞ〜!!!!!」
緊張した叫び声に、ほのぼのとした世界が一瞬で崩れ去った。