002 プロローグ[後編]
放課後になると黒塗りのリムジンが校門前に横付けされ、漆黒は抵抗する間もなく車に押し込められた。リムジンはセレブ仕様の長い車体で、普通の女子高生なら飛び上がって喜んでいただろう。
そんな状況に『ちょっと、ちょっと。』と戸惑っている間も、伊音は構わず漆黒を車に押し込み、あれよあれよと思う間に車は音も無く走り出した。その光景を目撃した他の生徒たちは、誘拐ではないのかと一時騒然とした。
(これじゃ拉致じゃねぇ。今頃、大騒ぎの警察沙汰だよ。その場に居た他の生徒と目が合ってしまったが、何だかギョっとしていたし。)
車は今も環状線を都心方面に向かって移動中だ。
(本当に伊音の強引さにも困ったものだ。それよりも、今日は沖縄の海を堪能したかったな。グレートバリアリーフも捨て難いが。)
漆黒は誰にも言っていないが、大好きな趣味が一つだけあった。それはバーチャル世界で様々なスポーツ体験をすること。スキューバダイビングにスカイダイビング、スキーにスノーボードやサーフィンなど。中にはXゲームのようなモノまである。
初めてVRゴーグルを装着して挑んだ体験が、沖縄でのスキューバダイビングだった。もちろんリアルの体験には遠く及ばないが、それでも美しい海と珊瑚礁、南国独特の魚達に心を奪われていた。360度の視界。美しい海の中を堪能する。途中マンタの群や楽しそうに近付いてくるイルカ達と戯れたり、巨大なジンベイザメが手の届くところを泳いで行くシーンは、バーチャルだと分っていても緊張した。
その後、各地の美しい海を制覇した漆黒は、新たなステージを求めて空へと飛び出した。空も文句無く素晴らしかった。こちらも海と同様で、プロのダイバー達が撮影した空の映像が元となっている。多くの仲間と共に空へダイブする体験なのだが、こちらも素敵な体験だった。それは小型の飛行機に乗り込むところから始まる。装備を背負ったまま飛行場を歩く場面では徐々に緊張感が高まり、飛行機に乗り込む他のダイバー達のテンションが見るからに高まっていく様子が分かる。飛行機が降下ポイントに達するまでの僅かな時間で、ダイバー達のテンションはMAXに近付く。最初はこちらが引いてしまう程のハイテンションだったが、慣れてしまうと一緒になって騒いでいた。
高度一万二千フィート。飛行機の後部ハッチが解放され、次々と溢れ出すダイバー達。その流れに身を任せ大空へ飛び出せば、体の中の細胞が一気に活性化され、この上もない悦びと開放感に包まれる。わずか三分間。正確にはパラシュートを開くまでの一分程度と、開いてから着地まで二分弱の時間しかないが、多くのダイバー達と空を堪能することはとても素晴らしい体験だった。
漆黒は飽きる事も無く何度も同じ空を堪能した。まぁ、難点と言えば時間が極めて短いことだろうか。しかし、その短さを考慮に入れても、余り有る空の世界の素晴らしさ。漆黒は心に誓っていた。いつか必ず、リアル世界でスカイダイビングとスキューバダイビングを堪能すると。そして、出来る事なら世界中の海と空を制覇したいと考えていた。
車窓を眺めながら趣味の事を考えていたら、車は丘の上にある森のような場所へ侵入していた。この辺りは各国大使館が立ち並び、一つ一つの敷地が非常に広くゆったりとしている。それぞれの敷地には大きめの樹木が植えられ、各敷地ごとに独自の世界を形成していた。
(まぁ、それぞれの敷地内は治外法権が適用されていると思うが、もしかして、伊音はどこぞの国の大使の娘か?この立地と様々な要素を鑑みれば、それしか考えられないが。)
その区画内にある一つの大きな門の前へ車が差し掛かる。前方の門が音も無く開き、車は鬱蒼とした森の中へと侵入した。車一台が辛うじで通行できる道。その両側に驚くほど巨大な樹木が林立していた。
(あれ?さっき見たときは、こんなに巨大な木は無かったはずだが?それに、この違和感。これは記憶にあるものだ。)
漆黒は訝しく思いながらも、あえて何も聞かなかった。やがて森を抜けると、目の前に三階建ての古い洋館が姿を見せた。見た感じは古い洋館だが、至る所に監視カメラやセンサーらしき物が設置され、かつて財閥が所有していたクラブハウスに驚くほど酷似している。建物の反対側には広大な庭らしき物が見え、都心にこれほどの敷地を持っているのであれば相当の資産家だろう。いや、国家単位かも。
(おかしいな、都心部でこれ程広い敷地が存在していただろうか?下手をすると皇居より広く感じる。そんな敷地は記憶にない。)
車が屋敷の正面に差し掛かると、建物の中から執事と数名のメイドが姿を見せる。停車した車の運転手が、素早い動作で車のドアを開け車外へと誘っている。伊音と共にリムジンから降り立つと、一斉に頭を下げる使用人達。彼等の一糸乱れぬその動きが、教養と格式の高さを感じさせた。
「お帰りなさいませお嬢様。そして、ようこそお出で下さいました、閣下。」
(…ん?…いま奇妙な単語が聞こえたが?…聞き間違えか?…)
老齢の執事が言葉を発したが、一部おかしな単語が含まれていた。漆黒は無意識の内に周囲を見渡した。しかし、その言葉にツッコミを入れる者等なく、当然のように頭を下げる執事とメイド達。
(この場合、お嬢様は伊音のことだが……閣下って何だ……やはり私の事か。誰か執事の渾身のボケにツッコミを入れてやれ!全員スルーしている場合じゃないぞ!ボケには容赦ないツッコミが不可欠なのだ。『誰か〜』)
そう思い、再び周囲を窺ってみる。しかし、誰もツッコミどころか、ボケにすら気付いていないようすだ。
(厳しいな。放置、シカト、華麗にスルーの三拍子が揃っている。本当に残酷な世界が拡がっている。この状況がボケ担当には一番辛いよな。目の前にいる執事の渾身のギャグが。…これでは生殺しではないか。…)
この切ない状況に、漆黒は顔を上げた執事に『私だけはお前の生き様を理解しているぞ』と静かに頷いて見せた。そんな執事は心なしか嬉しそうに見えた。
伊音と共に屋敷の中に足を踏み入れた漆黒は僅かな違和感が確信へと変わった。やはり、この古い洋館は自分の知っている旧財閥のクラブハウスと全く同じだ。エントランスや小ホール等、建物内の調度品に至るまで酷似していた。
“つまり、これはコピーだ。”
(同じ時期に全く同じ屋敷を建てた訳ではない。そんな話は聞いたことがない。しかも、都心にこんなに広い敷地を持った大使館など存在しない。つまり、この空間はバーチャル空間だ。)
視線だけを周囲に走らせていた漆黒。その前を歩いていた伊音が振り返る。薄らとした微笑みを湛え、真っ直ぐに漆黒の瞳を見詰めてくる。
「やはり、私の目に狂いはないのです。さすがは漆黒お嬢様。この敷地に入った段階で、直ぐに気付かれましたね。普通の人間であれば誤摩化すことも可能ですが、お嬢様を騙すことなど出来ませんね。」
「それは褒められているのか。まぁ、いいか。それで、伊音の本当の目的は何だ。遊びに来てくれと言っていたが、このバーチャル空間を見せたかったのか。」
「いいえ、私達は漆黒お嬢様をお迎えに上がりました。私達の世界。魔界の王として君臨して頂く為に。」
(…魔界?…王?…伊音は家族までも巻き込んで何を……。)
その時、漆黒の見る世界がグニャリと歪んだ。突然の変化に驚いて言葉すら出てこない。やがて歪んだ空間の中心に黒い渦が現れ、周囲の空間ごと飲み込みはじめる。
(これは……ブラックホールか?……。)
漆黒の目の前に現れた黒い渦は、彼女を意識ごと飲み込んでいた。