CASE2:初見夏希 その4
静也は校内道場脇の物陰に身を潜ませている。どこか気の抜けた表情だった。もはや日課となりつつあるストーキングにもイマイチ身が入らない。
理由は明白だ。脳裏に悲しそうな夏希の顔が過ぎる。
「……今日は帰るか」
静也は身をひるがえす。
それと同時、スマホが着信を告げていた。
誰かから電話があるなど珍しい。静也は画面に目を移し、
「――ッ!?」
声を詰まらせた。
相手は――夏希。そういえば、この前、連絡先を交換していた。作戦の都合上。
静也は通話をオンにしてスマホを耳に当てる。
「……どうした?」
硬い声で尋ねた。あんな事があった後なので気まずくてしょうがない。
「助けて!」
しかし、電話の向こうにいる夏希はそんな静也の様子に構う余裕もないようだった。声が切羽詰まっている。
「い、今……追われて――いやぁッ!」
そこで通話が途切れた。
たちまち、静也は顔を強張らせる。状況の深刻さを瞬時に理解していた。夏希は最後に「追われている」と口にしていた。その相手には想像がつく。動機も同じく。
静也の予想通りならば、このままではマズい。一刻も早く夏希を見つけ出さねば。
幸い、居場所を探る方法が一つだけあった。もし夏希が今もアレを肌身離さず身につけているならば、希望は残されている。
問題は、静也が一人駆けつけたところでなんの役にも立たないということ。ならば――
「アイツに頼るしか、ない……なッ!」
いささか以上に不本意だが、手段を選んでいる時間はない。静也は腹をくくって道場に駆け込んだ。
■ ■ ■
「気がある素振りで俺の純情を弄びやがって――ッ! この腐れビッチが!」
とある廃ビルのオフィス内に安富の怒鳴り声が響き渡った。
取り巻き達が夏希を奥へと追い立てる。
夏希は突き飛ばされた拍子に床へと倒れ込んだ。
「く、あぁッ――!」
苦鳴を漏らす。
女の足では複数の男の魔の手から逃れる事などできない。必死の抵抗も虚しく拉致され、ここまで連れてこられた。捕まる前にできた事といえば、静也に渡されたモノ――返しそびれていた――を懐に忍ばせ、静也に連絡を取るぐらい。
スマホも鞄も取り上げられた上で、ここにくる途中の路地に放棄されている。後は、静也が全てを察して、然るべき対処を行ってくれるのを期待するしかなかった。
夏希が立ち上がる間に、安富達が周囲を取り囲んでいた。
「ひ、ヒヒ――ッ! アバズレの服と本性をひん剥いてやるよォ!」
安富の号令の下、男達が夏希へにじり寄る。一様に下卑た笑みを浮かべていた。
夏希は顔を大きく引きつらせる。心臓がドクドクと脈打つのを感じていた。
「こ、来ないで……ッ!」
自分の胸を庇う。
安富が満足げに口の端を吊り上げた。
「いい気味だな! 怯えて同情を買おうとしても無駄だぜ?」
夏希にビシッと指を突きつける。
「優しくしてりゃあ、つけ上がりやがって……てめえは俺の無様な姿を見て、心の中で嘲笑ってやがった!」
「ウチにそんなつもりは――」
「黙れ! てめえの言葉にはもう惑わされねえ騙されねえッ! 後は身体に聞いてやるよ」
安富が一方的にまくしたてた。それきり口をつぐむ。
夏希は周囲を見渡した。
「皆、落ち着いてよッ!」
必死で呼びかけるが、誰も聞く耳を持たない。つい最近まで楽しく雑談していた間柄だというのに、こうも容易く掌を返されてしまう。そんな現実が悲しかった。
安富達が一斉に夏希へ飛びかかる。
「シズヤ……」
絶望を刹那の後に待ち受けて、夏希は片思いの相手の名を呼んだ。
安富達の手が夏希に届く、
「――な、なんだよ……コレ」
寸前、その足元にピンポン玉サイズの丸い物体が複数、転がってきた。男の一人が間抜けな声を上げる。
安富達が突然の事に戸惑いを見せた。
彼らが拾い上げるより速く、丸い物体から煙が噴き出した。最初こそ小さなモノだったが、またたく間に彼らを包み込む規模へと達する。
色とりどりの煙が夏希の視界を埋め尽くした。安富達が咳き込む音が聞こえる。
不意に、夏希は何者かに手を引かれた。
「――目をつぶって息を塞げ!」
その声を耳にして、正体を悟る。素直に『彼』の指示に従った。
夏希は彼と共に煙の中を突っ切り、男達の間をすり抜ける。
しばらくしてから目を開けると、手を繋いだ先に彼、名和静也の姿が映った。
「間一髪って、ところか」
「シズヤ……シズヤシズヤシズヤ、シズヤッ!」
夏希は何度も彼の名を呼んだ。掌中の温もりを確かめるように強く握りしめる。
■ ■ ■
静也は夏希を背に庇い、安富達と対峙する。
ようやく煙が晴れ、安富達が静也の存在に気付きつつあった。
安富が唸る。
「ウザ也……てめえ!」
静也は廃ビル内に先行、夏希の窮地を知った。そこで花火用の煙玉を安富達の間に投げ込んだ。自衛の為、この手の防犯グッズを無数に持ち歩いている。
「よお、レイパー集団。まだ日暮れにもなってねーのに、雁首揃えてサカりやがって……精が出るな、オイ」
この場所に辿りつけたのには理由がある。昨日、夏希に渡したまま回収し忘れていた発信器。そのGPS位置情報を頼りに探り当てたのだ。
安富が烈火の視線を静也に浴びせる。
「またてめえか! 今日の朝も夏希と絡んでやがったよな? ――おい、夏希ィ! てめえはこんな奴がいいのか? 俺よりこんな奴を選ぶのかよ!?」
安富に呼びかけられ、夏希がビクッと身を竦ませた。
震えが繋いだ手越しに伝わってくる。静也は安心させようと夏希の手を強く握る。
夏希が握り返してきた。震えが少しずつ収まっていく。
「テメーがなにを勘違いしてるか知らねーが、オレの方がマシだってのは確かだろうさ」
「こ、ンの野郎ォ――! どいつもこいつも……俺の事をバカにしやがって!」
安富が切りつけるように咆えた。
「……それで? てめえ一人でなにができんだよ?」
静也は周囲を隙なく見渡す。安富達が包囲を狭めつつあった。逃げ道は一つ。背後の通路。だが長時間、激しい運動のできない静也と女の夏希では逃げ切れまい。
明らかに不利な状況だというのに、静也は落ち着き払っていた。
ここに潜入したのは二人。静也はあくまで斥候に過ぎない。
「また一つ、勘違いしてるみてーだな。オレは一人で来たなんて、言ってねーぞ」
満を持して本隊、いや真打の登場だった。
通路から進み出るは一人の剣客。宮本美名子が向かい合う両陣の間に颯爽と割って入る。
「頼むぞ、用心棒」
静也は軽口を叩く。
「そこは『先生、お願いします!』と言うのがお約束だろう?」
美名子がそれに乗った。安富達に竹刀を突きつける。
「ことこの期に及んで問答は不要。仕置きをくれてやる――かかってこいッ!」
堂々たる見栄切りに圧倒されたか、安富の取り巻き達がジリジリと後退していく。
「てめえら、女一人にビビってんじゃねえぞ!」
安富の叱咤を受けて、取り巻き達が動きを止める。慌てて美名子へと突撃した。
静也は夏希と共に後ろへ避難する。人質に取られ美名子の足を引っ張る訳にはいかない。
ほどなく、戦端が開かれた。美名子が男達の下へと走り寄る。
男達が束になって美名子を抑え込もうとした。デカい図体が並ぶとそれだけで壁になる。
しかし美名子を捕える事はできなかった。跳ねるような足さばき、緩急やフェイントを交えた身のこなしであっさり躱されてしまう。
「セイヤアアアアアアアァァァッ――!」
美名子が隙を晒した男達に竹刀を打ち込んでいった。腹を突かれてうずくまる者、膝を痛打されて倒れ込む者――犠牲者が一人また一人と続出する。
四方八方から押し寄せる男達の間隙を縫って縦横無尽に駆け回った。一対多数の状況に決して持ち込ませない。
「クソ、がァッ!」
男の一人が拳を振り上げて美名子に迫る。
美名子はその殴打を避けざま、身体ごとぶつかっていく勢いで竹刀を振り下ろした。
「メェェェエエエエエエンッ!」
「がァ、あ……あああアアアァッ!」
面を打たれた男の額がパックリと割れ、血が噴き出す。
攻撃直後の隙を狙い、別の男が横合いから美名子に突進した。そのまま抱きつこうとして――美名子の姿がフッと掻き消える。
「……ッ! どこに消えやがった!」
滑らかな運足で男の背後に回り込んでいた。大きく両腕を広げた男の脇の下を逆袈裟に切り上げる。
男が声もなく前のめりに倒れた。
美名子が首を巡らし、ある一点へと視線を定める。
「後は君だけか、安富」
安富以外の男達が全員、床に転がって呻き声を漏らしていた。
「使えねえ奴らだ……!」
安富が毒づく。ポケットからバタフライナイフを取り出して構えた。
美名子が目を険しく細める。
「遂に凶器を手にしたか……悪いが、手加減はできんぞ」
「抜かせやァ!」
安富が美名子へと駆け寄った。ナイフを前に突き出さんとする。
しかしナイフが届くより速く、美名子が一陣の風と化し、安富を打突の間合いに捉えていた。床を踏み抜く勢いで右足を一歩前に出す。硬質な床が鋭く乾いた音を発した。
「コテェェェエエエエエエッ!」
掛け声を上げながら小手を打ち込む。たまらず、安富がナイフを取り落とした。
続いて、美名子が流れるように動作を繋いで突きを放つ。
「ツキィィィイイイイイイッ!」
竹刀が安富の鳩尾に深々とめり込んだ。
「ぎィ……エエェッ――!」
安富が蛙の潰れたような声を出した。膝をついて身をかがめ、嘔吐を始める。その姿は美名子に跪いているかのようだった。
誰かが起き上がる気配はない。それを確認してから、美名子がフッと肩の力を抜く。わずか五分足らずで、安富達を制圧してみせた。
雄々しく勇ましい大立ち回りである。美名子は戦いの型をいささか崩していた。打突部位が限定される剣道の試合において実践できるようなものではない。おそらく、不良達との喧嘩用にアレンジしたのだろう。
安富達は終始、翻弄されていた。誰一人として美名子の懐に飛び込めた者もいない。
「美名子……ッ!」
夏希が美名子のそばへと走った。
「大丈夫!? 怪我はない!?」
心配げに美名子の全身をくまなく観察する。
「ああ、問題ない。指一本、触れさせてはいないさ」
「ごめん……ごめんなさい! ウチがヘマしなければ、こんな危ない橋を渡らせずに済んだのに……!」
美名子が夏希を抱き締めた。
「そう自分を責めるな。悪いのはあくまで安富達だろう?」
夏希が美名子の胸に顔を預け、抱きしめ返す。
「うん……助けに来てくれて、ありがとう!」
静也は二人の様子を脇から眺め、安堵の吐息を漏らした。
「――これで終わりだと、思うなよ?」
不意に不吉な響きが静也の耳朶を震わせる。声の方へ振り向いた。
「け、ケケケ……仲良くハッピーエンドなんかにはさせねえぞ!」
安富が地面に手をついたまま静也達を睨み上げている。
美名子がすぐさま顔を引き締めた。
「まだ続ける気か? そんな余力があるように見えんが……」
「くく、クハハ! 確かに、てめえとやり合うだけの余裕はねえよ。ボコりてえならボコれ、警察を呼びたきゃ呼べ。これだけの事をしたんだ……俺は退学になるかもなァ? ――けど、それがどうした?」
安富が白痴のように唾を飛ばして喚く。
「てめえらだけは許さねえ。道連れにしてやる! どこまでも付き纏って……人生、滅茶苦茶にしてやるよォ!」
失う物などなにもないと言わんばかり目を血走らせた。完全に自暴自棄に陥っている。
(たまにいるんだよな、こういうの……)
静也は冷めた目で安富を見下ろしていた。
この手の連中にどう対処すればいいかわからないのだろう。美名子が苦々しく歯噛みしていた。
(テメーがそんな風に動揺してんじゃねーよ)
美名子があの程度の男にやり込められている。静也にはそれが気に喰わなかった。あれだけ美名子の惑い揺れる姿を拝んでやりたいと思っていたのに、おかしな話だが。
静也は女子達を庇うように進み出る。
「名和!?」
「シズヤ!?」
美名子と夏希が静也の急な行動に目を見張った。
静也は安富の手前で立ち止まる。
「ヤンキーのくせに女々しいな、オイ。テメー、いったいどうすれば納得するんだよ?」
安富が意外そうな顔で静也を見た。すぐに意地悪く相好を崩す。
「き、キヒ……キヒヒ! ならよ、根性焼きでもしてみせろや」
懐からタバコを取り出した。未成年のくせになぜ持っているのかは、あえて問うまい。
「できねえよなァ? てめえはヘタレの卑怯モンだ。もし、やり遂げる事ができたら……その時は、おとなしく手を引く事も考えてやるよ」
静也は失笑を漏らした。
自分から条件を提示しておいて、「手を引く」と確約するのではなく、「考慮する」などと抜かす。それが安富の限界だった。鬼畜ぶっていても、肝の小ささが透けて見える。
「ああ、いいぜ」
静也はあっさりと首肯した。
「一本じゃツマんねーよな。どうせなら十本纏めていくか」
安富が呆気にとられる。
「オイ……正気か!?」
「ナニ、ビビってんの? テメーが言い出した事じゃねーか」
「ち、ちげえ! てめえ……適当なことホザいて、煙に巻こうとしてるんじゃねえだろうな? 俺は誤魔化されねえぞ!」
「ンな事するかよ。よく見とけ」
静也は安富に火をつけさせ、タバコの束を右手で受け取る。
そして、一切の躊躇なくタバコの先端を左腕へと差し向けた。やんわりと火を当てる。
タバコの火の温度は実に700度にも達するという。肉の焼ける香ばしい悪臭が周囲に広がった。常人ならばとうの昔に、熱さに耐えきれずタバコの先端を左腕に押しつける事で火を消していただろう。しかし静也は先端を軽く触れさせるだけに留めていた。要は、ライターで自分自身を炙っているような状態である。
眉一つ動かさず、自分の左腕が焦げていく様を見下ろす姿は異様の一言に尽きた。
「まだ……続ける気かよ!?」
安富が驚愕を声に表した。
「――もういい!」
あまりの惨状を見かねたのか、美名子が横合いから手を伸ばし、静也の右手からタバコの束を叩き落とす。
「君はなにを考えている!」
静也は美名子の叱責を無視して、左腕を安富に見せつけた。皮膚が円状に焼け爛れて、肉の表面が炭化している。同じような火傷の痕が十ヵ所。
安富と取り巻き達が絶句していた。顔を死人のように蒼褪めさせている。
静也は凄愴に笑ってみせた。
「これで納得できねーなら、股間にでもやってみせようか?」
「ヒッ――!」
安富が金切り声を上げる。完全に静也のペースに呑まれていた。
自分がいかに冷静でイカレてるか、相手に理解させるのが駆け引きのコツだ。静也は畳みかける。
「なあ、安富。テメーが敵に回そうとしてるのはこういうヤツなんだぜ? 確かにオレはテメーより弱いさ。けどな、喧嘩の強さがイコール脅威の度合いじゃねーだろ。これ以上、付き纏うってんなら、オレも相応の措置を取らざるを得ない――そうだ、丁度いい! テメーの目に根性焼きさせてもらってもいいか? 果たして、何本目で失明するのか? 前々から試してみたかったんだよなあ」
「や、やめろっ……やめて……勘弁、してくれ……」
静也は安富の顎を掴んで、その顔を覗き込んだ。
「これ以上、オレと関わり合いになりたくねーよな?」
安富が何度も首を縦に振った。