CASE1:磯優美 その5
放課後の教室に複数の女子生徒達がすすり泣く声が響いていた。
磯優美は彼女らの対面に立っている。
その横で生活指導の屈強な体育教師が彼女達を怒鳴りつけていた。
優美は静也達のアドバイスを受けて、イジメを教師に告発していた。実はこっそりとイジメの証拠を確保しておいたのだ。
大の男の激しい剣幕に圧倒され、イジメっ子達が目元を赤く腫らしていた。教師の前だから殊勝な態度を取っているという感じではない。優美の目には彼女達が本気で怯えているように見えた。攻めるのは得意でも、攻められ慣れていない。この程度の連中を恐れていたのかと思うと、自分が滑稽だった。
とどのつまり、優美はイジメっ子達を過大評価していたのだろう。
イジメられている間、自分がどうしようもなくダメな人間だと思い込まされていた。イジメっ子達が絶対者に見えた。
だが、違うのだ。彼女達もまた、些細な事で傷付く同じ人間。
やがて、教師がお説教を終える。先に優美を送り出した。イジメっ子達はしばらくしてから解放されるのだろう。当事者同士のトラブルを避ける為だ。
さあ、本番はこれから。優美は静也の指示通り、わざとゆっくり支度を済ませる。
「――待てよ!」
帰宅の途についた優美は校門の前で背後から声をかけられた――予想通り。振り向くと、イジメっ子達が勢揃いしていた。報復の為、追いかけてきたのだろう。
「ちょっと付き合いなよ」
優美は彼女らに取り囲まれ、連行される。辿り着いたのは人気のない校舎の裏側。
「きゃあっ……!」
強く押されて地面に尻餅をついた。無様な悲鳴を上げてしまった自分を内心で恥じる。
「アンタ、やってくれたね……!」
「アタシらに恥かかせてタダで済むと思ってんの!?」
「このブス!」
イジメっ子達が口々に優美を罵倒した。
優美は彼女達を睨み上げる。今まで一度だって反抗的な素振りを見せず、愛想笑いで誤魔化してきた優美の精一杯の抵抗。
「なによ、なんか文句あんの?」
イジメっ子達の間で動揺が広がっていた。
昨日までの優美ならば、土下座して許しを請うていただろう。正直、今でも少し怖い。刻み込まれた格差、染みついた習性はそう簡単に拭い去れないのだ。
どうか自分に勇気を与えてほしい。優美は昨日知り合った二人との特訓を回想する。
壮絶だった。一人が肉体的に、もう一人が精神的に、それぞれ優美を追い詰めた。
我が校において、美名子はその勇ましい活躍ぶりから表の勇者と称賛されている。
一方で静也は裏の魔王と揶揄されていた。噂によると、ガラの悪い先輩達に校舎裏へと呼び出され、逆に罠にかけて退学に追い込んだらしい。静也に関するその手の黒い噂は枚挙に暇がなかった。
学校で一、二を争う有名人たる彼らに比べれば、目の前のイジメっ子達など烏合の衆に過ぎない。優美は大きく息を吸い、
「――ブスにブスって言われたくない」
会戦の口火を切った。
一瞬、場が凍る。
「……アンタ、今なんて言った?」
「く……くそ、クソブス共は黙れ……って、言った……のよ!」
優美はたどたどしくも、ハッキリと声を発した。
イジメっ子達が一斉に殺気立つ。優美を包囲する輪が狭まった。
優美は怯みそうになる自分を鼓舞する。鋭く起き上がった。
美名子になったつもりでピンと背筋を伸ばし、シャンと胸を張る。意図的にシニカルな笑みを浮かべた。参考にしたのは静也。
「鏡見てみれば? 涙で化粧が剥がれて、ブスがさらにブスになってるから!」
「コ、イツ――ッ! 調子に乗ってんじゃねえよ!」
イジメっ子達の一人が優美の下へ飛び出す。優美の髪を掴み、ブンブン振り回した。
「く、あ……あああぁっ――!」
優美は地面に叩きつけられ、たまらず苦鳴を漏らした。
続いて、他のイジメっ子達が優美に更なる暴行を加えんと動き出す、
「――はい、そこまで」
直前、明後日の方向から声が放たれた。
たちまち、イジメっ子達がピタリと硬直する。
物陰から姿を現した声の主は静也だった。優美達へ向けて悠々と歩を進める。
「名和、静也――ッ!」
イジメっ子達が静也の名を呼ばう。
「先輩に対して呼び捨てしてんじゃねーよ。躾のなってないメスガキ共だな」
静也に一睨みされると、イジメっ子達が気圧されたように一歩後ずさった。
「なんで、アンタがここに……?」
「ンなの、どうでもいいだろ? ――それより、テメーら面白い事してんじゃねーか。寄って集って一人をボコってんのか」
「あ、あんたには関係ないじゃん」
「引っ込んでろよ!」
イジメっ子達の言い返す声に覇気が感じられない。先程までの勢いが失せている。
「へえ……これを見ても、まだそんな事が言えるか?」
静也がスマホを取り出した。
再生される動画を見て、イジメっ子達が蒼褪める。そこには一連の暴行シーンがあますところなく映し出されていた。
「これを教師に提出すれば、停学か……最悪、退学もあり得るかもな」
一回目は厳重注意で済んだ。だが二回目ともなれば学校側も相応の処罰を下すだろう。
「あたしらの事、ずっと監視してたってコト!?」「覗き魔じゃん! キモいんだよ!」
この期に及んでなお、イジメっ子達が反抗的な態度を取り続ける。虚勢を張っている事は優美の目から見ても瞭然だった。
当然、そんな事で揺らぐ静也ではない。
「まーだ、自分達の立場がわかってねーようだな。いいか、ここはテメーら全員、跪いて許しを乞う場面なんだぞ?」
「だ、誰がアンタなんかに……!」
「ウザ也の分際でナニ言っちゃんてんの!?」
「そうか……なら、オレにも考えがある」
躊躇なく踵を返した。背後へとぞんざいに手を振る。
「もう二度と会う事もないだろーが、達者でな」
イジメっ子達が慌てて静也の背を追った。
「ま、待てよ!」
「その動画、どうするつもり!?」
全員で静也を取り囲む。相手が男子とはいえ、束になってかかれば、なんとかなるとでも思っているのかもしれない。
その勘違いを打ち砕くかのように、新たな人影が物陰から飛び出した。
「み、宮本先輩……!」
「嘆かわしい事だ。若い力を、一度しかない青春を、イジメなどに消費しているとはな」
竹刀を構えた人影、美名子がイジメっ子達の様子を隙なくうかがっている。
もはや自分達に勝ち目などないと悟ったか、イジメっ子達が俯いて立ち尽くした。泣き出す者までいる。
静也がイジメっ子達を見渡す。
「テメーら、磯に二度とちょっかいをかけるんじゃねーぞ。当然、他のヤツをイジメるのもナシだ。もし今度、似たような真似をしてみろ――まともな人生送れなくしてやるよ」
ドスの利いた低い声が周囲に浸透していった。
どちらが悪者かわからなくなるような『お仕置き』を済ませ、静也がイジメっ子達を解放する。
三人だけがその場に残された。優美は静也の前に進み出る。
「本当にありがとうございました!」
静也が気まずげに頬を掻いた。
「その、なんだ……すまなかったな。怪我はないか?」
気遣わしげに優美の全身を観察する。
「いくら決定的な暴行のシーンを動画に収める必要があったとはいえ、女が傷付けられるのを黙って見過ごすのは……さすがのオレも抵抗があるわ」
優美が学校にイジメをチクれば、イジメっ子達は必ず優美に報復しようとする。それを逆手にとって罠にかければいい。静也に提案された作戦だった。
優美は力こぶを作ってみせる。
「この作戦は私自身がやると決めたんです。名和先輩が気にされる必要はありません……それに、あのくらいヘッチャラです!」
「素晴らしい!」
突如として、美名子が優美に飛び付いた。腕の中で強く抱きしめる。
「え……ちょ、きゃっ!?」
「一晩で見違えたぞ! よくぞ逞しく成長してくれた!」
優美は美名子の豊かな胸の谷間に顔をうずめる。甘く芳しい香りにクラクラした。そういう趣味はないのだが。
噂によると、美名子は複数の女生徒から告白を受けているらしいが、それも頷けた。
静也が密着する二人を目にして舌打ちする。
「いちいち暑苦しいんだよ、テメーは! うぜぇ……」
「フフ……羨ましいのか、名和? 生憎だが、君に磯を抱きしめさせる訳にはいかんぞ。これは同性同士の特権だ」
「そういうつもりで言ったんじゃね――はあ……もういい。テメーが相手だと調子狂うわ」
言葉遣いそのものは粗野だが、静也はずいぶん美名子と仲がよさそうである。
優美は美名子の事を少しだけ羨ましいと思った。
「私は別に構いませんけど」
だから、意識せずそんな一言が口から飛び出す。
「「え」」
静也と美名子の声が重なった。視線が優美に集中する。
優美は遅まきながら失言を悟り、アタフタと両手を振った。
「い、いいい……いえいえっ、なんでもないですっ!」
二人――とくに静也を誤魔化す事に成功する。安堵したような、残念なような……相反する感情が胸中を激しくざわめかせる。
静也が改まって優美と向かい合った。
優美は緊張の面持ちで静也の出方をうかがう。喉がゴクリと鳴った。
「大事なのはこれからだ。卑屈で気弱なままだと、オマエまた別の連中にイジメられるぞ」
「はい!」
元気よく返事をする。
静也は――もちろん、美名子もだが――優美に道を示してくれた。
お前は悪くないと言われた時、どれだけ心が救われた事か。おかげで優美は前に進める。後は自分の力でなんとかしてみよう。
「私……名和先輩の事、誤解してました。もっと怖い人、なのかと……」
「別に誤解じゃねーよ。オレがタチ悪いのは事実だしな」
「違いますっ!」
静也が急に叫んだ優美に面食らっていた。
優美は静也の顔を隅から隅までくまなく観察していく。目つきの悪さはともかく、意外と穏やかな造形をしていた。心臓が早鐘を打ち始める。
「少なくとも、私はそう思わないです。先輩は見ず知らずの私なんかの為に尽力して下さいました。今日の事を知ったら、先輩を悪く言う人は絶対少なくなりますよっ!」
優美は声を弾ませていた。
静也が後頭部を掻き上げながらそっぽを向いた。優美が出過ぎた事を言ったせいで、気分を害してしまったのだろうか。
優美の胸が鉛でも詰め込まれたように重くなる。
「ご、ごめんなさい! 私、失礼なこと言っちゃいました!?」
「いや、まあ……オマエがそう思うのは……自由、だな」
よかった。不機嫌になった訳ではないらしい。優美は笑顔を取り戻した。
静也が未だ渋い顔をしている事には気付かない。
「そうだ! 私に恩返しをさせてください。微力ながら先輩のイメージ向上に努めます!」
「いやいやいや……要らん事すんじゃねー!」
「そこで、なんですけど……もしよかったら、私と連絡先を交換してくれませんか?」
「……オマエ、人の話聞いてるか?」
「先輩の事、もっと知りたいです! 私は読書が好きなんですけど、先輩のご趣味はなんですか?」
「オイ」
「特技はありますか? ちなみに私はピアノを少々嗜んでいました。今はもう、ほとんど弾けないんですけどね」
「おーい」
「あと、食べ物の好き嫌いとかってあります? ……いえ、別に他意はないんですけど、今後の参考に――って、私ったらナニ言ってるんだろう!? 恥ずかしいなあ、もう♪」
「ダメだ、こりゃ……」
「私は梅干しが苦手なんですよぉ。梅ジュースとかはイケるんですけど、乾燥後のあの食感と酸味が――」
■ ■ ■
静也は連絡先を交換してやり、優美を送り出した。
優美がこちらに何度もペコペコお辞儀しながらこの場を立ち去る。
余談だが、静也が誰かと連絡先を交換したのは高校に入って以来、初である。『記念すべき』という形容詞はつかないが。
どうやらすっかり懐かれてしまったらしく、優美は食い気味に絡んできた。こちらの様子などお構いなしである。他人との距離感の詰め方が下手なのだろう。
オドオドした態度が改善されたのはいいが、別ベクトルで鬱陶しいキャラになってしまった。優美がこれから上手くやっていけるのか、甚だ心配である。
「……ったく! 好き勝手なこと言いやがって!」
静也は嘆息した。どうして周囲の女達はどいつもこいつも自分の事を誤解するのだろう。しょせん風評通りの人間でしかないというのに。周囲に溶け込む日など永遠に来ない。
「そんな言い方するなよ。可愛い後輩じゃないか」
美名子が竹刀袋に愛剣をしまいながら静也に話しかけた。
「下手に構うと後々メンドくさそーなヤツだけどな」
「まったく、君は素直じゃないな」
もうここに用はない。二人は並んで歩き出した。
「ありがとう。君のおかげで助かったよ」
「……テメーに礼を言われると、気持ち悪ィーな」
「承知の事だろうが、私は君の策を実行するのに乗り気でなかった。だが、今は違うぞ。あれでよかったのだと、素直に信じられる。なんとなれば、磯の見せた笑顔がとびきり輝いていたのだからな」
優美はイジメっ子達の仕打ちに心を折られていた。必然、了見と視野が狭くなる。
そこで、まず静也はイジメっ子達以上の恐怖を優美に叩き込んだ。
続けて、イジメっ子達の所業を学校側にリークし、教師に叱られ醜態を見せるイジメっ子達の姿を間近で観察させる形で、実は大した連中ではない事を優美に理解させた。
二段構えの策が功を奏し、優美は心を強くすると共にイジメから解放された。
「まあ、オレの手間が無駄にならずに済んでよかった――ってか、テメー……オレがアイツらに囲まれた時、なんでしゃしゃり出てきた? 黙って見ていろと、言ったろーが。オレ一人で十分対処できたぞ。おかげでオレはテメーの背に隠れるような人間だと、アイツらに思われちまったじゃねーか」
「君がそんな事を言い出すとは意外だな。他人の批判をものともせず、自衛の為には手段を選ばないのが名和静也という人間ではなかったのか?」
「確かに、相手が他のヤツだったなら気にしねーさ……だが、テメーの金魚のフンだと認識される事だけは我慢がならねー」
「ずいぶんと嫌われたものだな」
美名子が苦笑した。
「ところで、一つ問いたい。なぜ、磯を助ける気になったのだ?」
「…………」
「君は進んで他人の世話を焼くタイプではあるまい」
「別に……大した理由はねーさ。脳筋サムライ女のやり方じゃ磯を救う事なんざできやしねーと証明し、嘲笑ってやろう――そんな気まぐれを起こしただけだ」
「本当に、それだけか?」
静也は美名子の問いを黙殺しようとする。
しかし美名子は静也を凝視し続けた。答えるまで目をそらさないとばかり。
こちらを見透かすような視線に耐えかね、静也は白状する。
「ムカついたんだよ、イジメを行うヤツらに――そして磯にも」
美名子が目を見開く。
「どういう事だ? 磯は純然たる被害者だと君自身が語っていたではないか」
「それとこれとは話が別だ。この世界はクソみたいな理不尽にあふれている。そして、オレ達を踏み潰そうと、手ぐすね引いて待ってんだよ。いつも誰かが守ってくれる訳じゃねーし、人には必ず自分自身の手で理不尽と立ち向かわねばならねー時がくる。だから、生き抜く為には最低限の強さが必要不可欠だ」
昨日までの優美には覚悟が欠けていた。
「理不尽な事や人間を呪っても仕方ねー。そんな不毛な事してる暇があるなら、自分を強くする方がよほど建設的だ。どうにもオレは弱いヤツを見ていると、根性叩き直してやりたくなるんだよ。弱いヤツこそ、強くなるべきだと思わねーか?」
美名子が静也の言葉を噛み締めるように瞑目する。
「理不尽を憎むのは二の次。理不尽に傷付けられた者達に再び立ち上がる勇気を与える事こそが重要、か……まさか君に学ばされるとはな。『無駄に見過ごさないよう、しなければいけない。山川草木、ひとつとして師とならないものはない』――合気道の開祖が仰せられた通りだ」
少し間を置いてから目を開け、口元を大きく綻ばせた。
静也はその満面の笑みに不覚にも見惚れてしまう。
「とても参考になったよ――実は、君はいい人だったのだな」
美名子がそう口にした瞬間、時が止まったかのように静也の思考が停止した。
「……っ!」
エラー発生。急遽、再起動する。
いい人、だと? これまで美名子に言われてきた言葉の中でも断トツに胸糞が悪い。
静也は表情筋の動きを抑えるのに全精力を注ぎ込み、ポーカーフェイスを取り繕う。
「はァ? どこをどう見れば、そういう結論になるんだ?」
「照れなくてもいいじゃないか」
「テメーの能天気さに呆れてんだよ」
ダメだ。この女はこちらの発言を全て自分の都合のいいように解釈してしまう。
静也は口を一文字に結ぶ。
美名子が静也の事を生温かい目で見つめていた。