CASE4:宮本美名子 その4
静也が目を覚ますと、視界一面に見慣れぬ柄の壁紙の天井とオレンジ色の照明が広がっていた。
静也はよろよろと毛布を剥いで身を起こす。どうやら布団の上に寝かされていたらしい。
「よかった……目が覚めたか!」
横合いから美名子が近づいてくる。身体を無遠慮に触ってきた。
「どこも痛く――異変はないか?」
全身を這いまわる感触。薄着越しに大きな谷間が顔をのぞかせており、静也はたまらず目を背ける。
「だ、大丈夫……だっての! ベタベタすん……じゃ、ねー!」
声を情けなく震わせてしまった。
「あっ……す、すまない!」
美名子が今更、距離の近さに気付いたらしい。そそくさと身を引く。その頬がほんの少し赤らんでいた。
「…………」
「…………」
静也は気まずい雰囲気を払拭せんと口を開く。
「オレはどのくらい眠っていたんだ?」
「うん、その……十分も経ってはいないと、思う。あの後、倒れた君を背負って我が家に運び込ませてもらった」
美名子が俯きがちに答えた。
「……吉岡が犯人だったのだな?」
静也は頷く。
「動機とか、そこらへんは知らんがな。オレは決定的なシーンを撮影しようと吉岡の下へ忍び寄って――あのザマに陥った訳だ」
自嘲気味に言った。
美名子が顔をしかめる。
「笑いごとではないぞ! なぜ一人で勝手に動いた!? 無理はしないでくれ、と言ったろう!? 定期報告のメールがこないから心配になり電話しても梨のつぶて! その後すぐに外で警報が鳴ったから、急いで探し回ってみれば……」
己の不覚を悔いるように強く目をつぶった。
静也は不思議そうに美名子を見つめる。こんな姿を以前にも目撃した事があった。
(――「そうしてくれと、私と夏希が頼んだか!? 一人で背負い込んだ挙げ句、君自身を傷付けて! 勝手に置いていかれたこちらの身にもなってみろ! 自分の為に動いてくれた人の役に立てない……どころか、傷付いた姿を眺める事しかできない――それがどれほど辛いか、君にわかるか!?」――)
あれは安富と騒動を起こした後の事だったか。
「なあ……テメーはどうしてオレの事なんか心配するんだ? なんかワケでもあるのか?」
前にこの部屋を訪れた時にも発した問い。しかし今回は異なる意味を孕んでいた。
美名子が驚きに満ちた表情で静也と向かい合う。
その視線を受けて、静也はたじろいだ。
「話したくないなら、聞かねーけど……」
「いや、そうだな……巻き込んでしまった君には知る権利がある。つまらない昔話だが、よければ聞いてくれ」
美名子がとつとつと語り出す。
「私が一人暮らしをしているのは知っているな。かつて私の一家は理不尽に踏み躙られ、離散の憂き目に遭った」
その内容は予想以上に重い。
「父がとある容疑をかけられ、逮捕されたのだ。私は冤罪だと信じているが、他の者達はそうではない。警察は父が犯人であると、ハナから決めてかかった。親族や父の職場の同僚達、近隣住民達――それら周囲の人間達は掌を返したように冷たくなり、マスコミは格好の標的とばかり私達の私生活を暴き立てた。そのせいで母は心を病んでしまったよ……父は未だ塀の中。母は精神病院へ。現在、親権の行使が困難な状況の為、両親の親権は停止している。ゆえに私は後見人を立てて一人暮らしをしている」
話を聞いている限り、美名子は純然たる被害者である。だというのに、なぜか自分を責めるような口ぶりだった。
「以上が私達の身に起こった悲劇だ……いったい、誰が悪かったのだろうか? 両親か? 周囲の人間達か? マスコミか? ――いいや、それらの誰でもない。一番の罪人は母の後ろに隠れて、誹謗中傷に怯えていた無力な小娘だよ……私はなにもできなかった! 父の無実を証明する事も! 世間の悪意から母を守る事も!」
美名子が潤んだ瞳で話を続ける。
「だから……誰よりも正しく強く在る事を渇望する! 理不尽に立ち向かい、周囲の人間を救う勇気と知恵、そして力が欲しい! その一環として武道を学んでいる――が、相変わらずダメなままだ! どうしようもなく弱い! 君を守る事ができなかった……」
力なく肩を落とした。
そんな姿を見たくない。静也は率直にそう思った。
「……見くびるんじゃねー。オレはテメーに守られるほど弱くねーぞ」
自然とそんな事を口にしてしまう。
「不覚を取った身で言うのもなんだけどな……テメーの周囲の人間はテメーが思ってるほどヤワじゃねー。ヤワじゃないようにソイツ自身が強くならなきゃいけねーんだ!」
ようやく、美名子の強さの源がなんなのかを理解できた。かつてと同じ目には二度と遭いたくない――その思いは疑いなく尊いだろう。しかし拘泥するあまり、かえって周囲を疎かにしている点は断じて看過できなかった。
「一人で抱え込むんじゃねーよ。身の丈に合ってねーんだ……誰かの事を背負うなんざ、誰にもできやしねーぞ。できるのは誰かが転んだ時、ソイツが再び自分の足で立って歩けるように助け起こす事くらいだ。最終的に、人は自分の事を自分で守らなきゃならねー」
「名和……」
美名子が瞠目している。
「少しは周囲の人間の事を信じてみろ! ……オレなんかでよければ、話ぐらいは聞いてやる」
自分はいったいなにを言っているのだろう? 美名子にあれだけ自分に関わるなと言っておきながら、自分から働きかける姿勢を見せている。
真顔で語っているのが恥ずかしくなり、静也はそっぽを向いた。
美名子がそんな静也を目にして吹き出す。
「ふふ……そうだな。『誰かの事を背負うなど、誰にもできはしない』か。確かに、私ごときが君を守るなどとはおこがましかったな。君には学ばされてばかりだ。それに、私の力になってくれると言ったが……既に色々と助けられているぞ?」
静也は答えない。その横顔を朱に染めていた。
「さて、吉岡の件だが……警察に通報するか?」
「止めとけ。オレに暴行した証拠は一つも残ってねーから無駄に時間を取られるだけだし……下手すりゃ藪蛇になる――それより、ストーキング現場を押さえた写真をうちの学校に提出するぞ。学校側から一乗高校に抗議してもらい、後は相手の出方待ちだな」
夜遅く一人で出歩かないように注意してから、静也は美名子に別れを告げる。
「あまり長い間、恋人でもない男を家に置いておくのも体裁が悪いだろーしな」
「そんな事を気にする必要はないのだが……」
「オレが気にするんだよ」
「もう動いて大丈夫か? よければ、病院に連れていくぞ?」
「要らん、明日一人で行く」
静也はぞんざいに手を振り、美名子の部屋を後にした。
■ ■ ■
学校越しに吉岡へと抗議を入れてから数日が経過した。相手方は事実関係を慎重に確認すると釈明したきり、音沙汰がない。静也はひとまず二重尾行作戦を中止している。
「わあ……懐かしいね。ウチら三人でここに来るのは七年ぶりだし」
静也の前を歩く夏希が感慨深げに言った。
「うん、こんな日は二度と来ないと思っていたわ」
その隣で薫が頷いている。
静也は眩しそうに目を細めた。眼前の風景をずいぶんと久しく見ていなかった気がする。つい二週間ほど前、ネットカフェからの帰りに訪れてはいたのだが。あの時は薫と二人きりだった。
平日の放課後、静也達は色々と因縁のある公園に足を運んでいた。ここで旧交を温めたいと、誰からともなく言い出したのだ。
薫が周囲を見渡す。自分達以外の人影はない。静也に向き直った。
「ここなら落ち着いて話ができるわね……ねえ、教えてくれる? あなたが――シズ君があたし達と距離を置いた理由を」
神妙な面持ちで夏希を一瞥した。
「事情を知っていそうなナッちゃんに聞こうとしたの……でも本人に尋ねてくれと言われたわ」
夏希が申し訳なさそうに眉をひそめる。
「ごめんね、ウチの口から話せる事じゃないと思ったんだ」
静也は夏希とアイコンタクトを交わす。一つ頷き合うと、薫にもろもろの事情を説明していった。事故の後遺症で痛みを感じなくなった事、疎外感を覚え一人でいようと決意した事。
「昔のオレには覚悟が足りなかったんだ。こんな身体になっちまった事を飲み込んだ上で、オマエ達と向き合えなかった。情けねー臆病者だ――けど、今はそうじゃない」
夏希と薫を交互に見返す。
「一度切り捨てたオマエ達にみっともなくすがりついて、虫のいい事を言ってる自覚はある……それでも! オレはまたオマエ達と一緒にツルんでいきたい! くだらねー事で笑い合って、辛い事が早く過ぎるように助け合いてーんだ!」
静也は心の奥底に潜んでいた本音を吐露した。気付かされるまでに七年もかかったが、手遅れではないと信じたい。
黙って聞いていた薫が肩を震わせる。
「そんな、事が……あったのね。あたしはシズ君の気持ちも知らず、のうのうと被害者面をしていた――それに! ナッちゃんにもひどい事を言った!」
徐々に感情が高ぶり、声を荒げていった。
「あたしに二人と一緒にいる資格は、ないわ……」
やがて身体をしぼませ、声を殺して泣き始める。
夏希が薫へと寄り添った。
「アンタ、そんなコト気にしてたの? バカだなあ……」
優しく抱きしめる。
「ところでさ……なんかひどいコト言われたっけ? 覚えてないんだよね」
「でも――」
夏希が口元に人差し指を立てて、なにか言おうとした薫の口を塞ぐ。
「それに、カオルにだったらなにを言われたとしても平気だよ! ケンカしてもすぐに仲直りできるっしょ?」
「……ナッちゃん」
静也は互いを慈しむように顔を近づける二人の姿を眺めていた。『ひどい事』とやらがどんな内容であるかは知らない。しかし、二人の間を隔てるわだかまりとなりえない事だけは確かなようだった。
「実際、オマエは被害者だろ。『オレの気持ちも知らない』と言ったが、オレ自身がなにも語らなかったのがそもそもの原因。オマエは悪くねーよ」
いつしか三人は輪になって自然と笑みを浮かべていた。
「二人に渡したい物があるの」
薫が鞄から複数の木彫り細工を取り出す。
静也は瞠目した。
「これは……」
「わー、カワイイ!」
夏希が目を輝かせる。
差し出されたのは、静也が薫に返却した作品――目つきの悪い狼を模した木彫り人形だった。それとは別に、クリッとした真ん丸目玉で好奇心の強そうな羊の木彫り人形が薫の掌の上に置かれている。
「二人をそれぞれイメージしたキャラクターよ」
薫が照れくさそうに狼を指差した。
「どこかの動物占いによると狼は個人主義な性格らしいわ。シズ君にピッタリじゃない?」
「アハハ……似てる! チョー似てるんですけど!? 意地悪そうな目とか、アンタにソックリじゃん!」
「うるせーな」
静也は揶揄してきた夏希を睨みつける。
薫が次に羊を指差した。
「こっちの羊は快活で社交的、姉御肌なナッちゃん」
「コイツの場合、口やかましくてデリカシーがないだけじゃねーの?」
「アンタねえ……!」
夏希が余計な一言を呟いた静也に喰ってかかる。
「当時、あたし達の絆を象徴するようなアイテムを作って渡そうと考えていた。ようやく今……」
静也と夏希はそれぞれ木彫り人形を受け取った。
「そうか、オレはてっきり自分の為に作っているモンだと思ってたぞ……ありがとな」
「ありがと! 大事にするね♪」
薫が満足そうに微笑む。鞄から新たな木彫り人形を取り出した。垂れ目の上目遣いが気弱な印象を与える小鹿の木彫り人形である。
「そして、これがあたしをイメージして作った人形よ。二人に守られてばかりでなにもできなかったあたしには臆病な性格の小鹿がふさわしいと思ったから」
夏希が自嘲を含んだ薫の発言に首を傾げた。
「そうかなあ? アンタ、昔からここぞという時には譲らないというか……ウチらの中で一番頑固だったと思うけど?」
静也は夏希の後に続いて口を開く。
「動物占いによると、実はキレると怖いのも小鹿の特徴だよな」
薫がふてくされたように口を尖らせた。
「……あなた達、あたしの事をそんな風に見ていたの?」
狼と羊と小鹿――いささか奇妙な取り合わせの三体を囲んで、三人は雑談に興じる。そこには、かつて失われたはずの空気が確かに流れていた。
ふと話題が途切れた際、薫がおもむろに切り出す。
「もっと早く向き合っていれば、また楽しく過ごせたというのに……どうして今まですれ違っていたんだろう? あたし達、自分が思っている以上に不器用で素直じゃなかったみたいね」
「まったくだ」
「アンタはとくにそうじゃない? 全部一人で抱え込んじゃってさあ……話してくれなきゃ、わかんないんだよ? マジでメンドくさいんだけど!」
静也は夏希の指摘を受け、バツが悪そうに頭を掻く。
「……悪かったよ」
つい最近、静也自身がどこかの誰かに似たような事を言っている。特大のブーメランが返ってきた。
なおも、夏希の追求は止まない。
「それだけじゃない! 結局、アンタはなんで美名子の事ストーキングしてたのよ? この前で全部、片がついたとでも思ってんじゃないでしょうね? ひとまず保留にしてやっただけだから! やっぱり美名子の事が好きなの? どうなの!?」
「ナッちゃんの言う通りね。この際だからハッキリ聞かせてもらいましょう――とくに、宮本さんへの好意の有無について個人的にすごく興味があるわ」
「し、質問の意図が変わってきてんじゃねーか!」
二人に詰め寄られ、静也は声を詰まらせた。どう返答すべきか、必死で頭を巡らせる。
「――見ぃつけたあ♪」
そんな時、不安をかき立てられるような声が静也の耳朶を震わせた。
三人は一斉に横合いへと振り返る。
そこに一人の少女が立っていた。相も変わらず亡霊のような佇まいで。
「吉岡……!」
予想外の登場に、静也は険しく目を細めた。とっさに夏希達を背に庇う。
吉岡が薄気味悪い笑みを浮かべた。
「やあ、以前は世話になったねえ」
「え、えーと……お、お知り合い?」
夏希が困惑気味な声で静也の背に呼びかける。
薫が震える手で静也の袖を掴んだ。
吉岡が女子達の反応など気にも留めず、粘つくような視線で静也を射抜く。
「いけないんだあ。カノジョがいるのに、別の女の子達と密会してるなんて……キミ、三股もかけてるのぉ? 宮本が悲しむよ?」
「テメー、いったいなんの用だ?」
静也は吉岡の質問に取り合わず、硬い声で尋ねた。
「いや、なに……責め方を変えようと思ってねえ」
なにやら要領を得ない事を告げると、吉岡が一歩一歩地面を踏みしめて静也達に近づく。
「名前も知らない宮本のカレシさん。ちょっとボクに付き合ってくれないかなあ?」
静也はジリジリと後退しながら背後へ振り返った。
「オマエら、逃げろ!」
すぐに前を向く。
「ど、どういうコト!? あの子、ヤバい人なの?」
状況を理解できないのだろう。夏希が静也と吉岡の間で視線をさまよわせた。
「逃げろって……シズ君はどうするつもり?」
「この状況を招いたのはオレの不手際だ。オマエらを巻き添えにする訳にはいかねー」
静也は意を決し、一歩前に踏み出す。
「あなた一人で、なんて……そんなのダメよ!」
「事情はよくわかんないけど、逃げるならシズヤも一緒じゃないと!」
二人が渋っている間に、吉岡が駆け出していた。またたく間に静也へと肉薄し、その首を両手で掴んで持ち上げた。
「っぐ、ううぅ――!」
静也は喉を詰まらせながら吉岡の腹を何度も蹴りつける。まるで硬質なゴム板にでも当たったかのような感触が爪先に残った。
吉岡が静也の蹴りを物ともせず、その首筋に指を埋めていく。
「シズ君を、離して――!」
薫が横合いから吉岡にタックルを喰らわせた。
しかし吉岡は地面に深く根を張った大木のように揺るがない。わずらわしげに薫の顔を一瞥し――食い入るように見つめ始めた。
「わあ……キミ、ものすごい美人さんだ。醜いボクとは大違い。その綺麗な顔に傷をつけられたくないよねえ?」
「ひっ――!」
吉岡の恫喝を受けた薫が思わずといった感じで身を引く。
次いで、吉岡が背後へと振り向く。
夏希が手近に落ちていた木の棒を拾って構え、忍び寄っていた。ビクンと身を竦ませる。
「キヒヒ……そっちの派手な子もおとなしくしていてね」
吉岡が子供に言い聞かせるような口調で警告した。
静也は必死で声を絞り出し、夏希と薫に呼びかける。
「いい……それで、いい。下がって、ろ……!」
急速に視界がぼやけていく。最後に見た光景は、夏希と薫の蒼褪めた表情と嘲り笑う吉岡の姿だった。