CASE4:宮本美名子 その2
静也は開場したのを見計らい、体育館に足を踏み入れる。玄関ホールの受付ブースに置かれたパンフレットを手に取り、案内図に従って進んだ。
広大な敷地内の剣道場区画、二階のアリーナ席に腰を落ち着ける。床板張りの一階は吹き抜けになっており、静也の席から全体を見渡せた。
パンフレットを流し読みしながら開会式を待つ。我らが二天高校から出場するのは支部予選を勝ち抜いた四名。その中には当然、美名子も含まれる。
本日は個人の部。団体戦は来週開催らしい。
組み合わせ表によると、美名子と吉岡は別ブロックに配置されていた。両者が順調に勝ち抜いていけば、決勝での対決となる。
数十分後、選手達が剣道袴に着替えて一階に整列した。主催者の挨拶や開会の宣言、その他諸々が終われば、いよいよ戦いの火ぶたが切って落とされる。
始まってすぐに、一階のあちこちから威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
「オラアアアアアアァァァッ――!」
「ヒョオオオオオオォォォッ――!」
「キエエエエエエエェェェッ――!」
ここ第一剣道場では女子の試合が行われているのだが、なんとも勇ましい。各人、心技体を尽くしてしのぎを削っていた。対敵の身体に竹刀を押しつけるわ、至近距離で鍔迫って揉み合うわ、泥臭いことこの上ない。
ルールによると、対戦する二人はそれぞれ赤組と白組に分かれて試合に臨み、三本勝負を原則として試合時間内にニ本先取した者を勝ちとする。
判定を行うのは主審一人と副審ニ人の計三人。この三人の内、二人以上が旗を揚げた場合に有効打突、すなわち一本となる。
それでは有効打突とはどのようなものか――充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの。
充実した気勢とは気合のこもった発声を指す。
残心とは対敵を斬った後も油断を見せない身構えと気構えを意味する。これは武士達が実際に刀で殺し合いをしていた大昔の名残で、対敵を仕留め損ねた際の危険性を考慮――要は、対敵が反撃してきても対応できるようにしなければならないのだ。
各選手達は対敵にプレッシャーをかけ、隙を見計らい、打突を繰り出していく。また打突後、即座に間合いを取り対敵に向き直っていた。
彼らの中でも一際目立つ選手がいる。美名子だった。
「ウオオオオォォォオオオ――ッ!」
美名子の気炎に圧倒されたか、対敵が剣先を上げてしまう。
それを見逃す美名子ではない。ほんの一拍で対敵の手元に竹刀を忍び込ませた。
「テエエエエエエイイイィィィッ――!」
振り下ろしが対敵の小手を打ち抜く。
審判が全員、美名子の一本を認めた。
それからも美名子は圧倒的だった。対敵の果敢な攻めを巧みにさばき、返す刀で討ち取る。電撃的な強襲で対敵に反応する暇すら与えず終わらせた。防御を固めて迎え撃つ対敵の周囲を嵐のごとく跳ね回って翻弄しアッサリ崩してみせる。
美名子は鍔迫り合いにすら持ち込ませない。勝利を重ねる度、観客達から万雷のような拍手と喝采を浴びせられる。
「さすがの貫禄」
「今年も優勝は宮本で決まりだな!」
「はは……間違っても吉岡なんかに勝ってほしくはないね」
「マジで全国制覇も狙えるんじゃない!?」
このブロックの勝者が誰になるか、火を見るよりも明らかだった。
■ ■ ■
静也は飲食禁止の体育館から出て水分補給を行う。季節はもう初夏。体温調節のできない静也が熱気のこもりやすい屋内に留まっていると、すぐのぼせてしまう。
館内に戻ると、トイレにこもって冷却パックの張り替えを行った。
トイレを出て、第一剣道場へと進む途中で向きを変えた。他のブロックの様子も見てみようと思い立ったのだ。第二剣道場に足を踏み入れた途端、異様な雰囲気を察する。
観客達が静まり返っていた。固唾を飲んで見守る先――悪夢が具現している。
「ギ、ギギ……ギャハッ、ギャハハッ……ギャギャギャギャハハハアアアァ――ッ!」
先程、美名子と険悪なやり取りを演じた相手、吉岡が試合場に立っている。掛け声のつもりなのかもしれないが、対敵を嘲弄しているようにしか見えない。
挑発に乗ったか、対敵が大きく踏み込んで打突を放つ。
普通ならば竹刀でさばくか、躱すところだ――けれど、吉岡はなんと真正面から突っ込んでいった。
対敵の竹刀が無防備にその身を晒した吉岡へと鋭く当たって跳ねる。命中したのは面――ではなく角革越しの肩口。インパクトの直前、吉岡が首を横に傾けていたのだ。当然、一本にはならない。
吉岡が鍔迫り合いに持ち込む。対敵が慌てて竹刀を手元に引き寄せた。
「キヒ、キヒヒィ……ガ、アアアアアアアァァァ――ッ!」
吉岡が剛腕一閃、対敵を強く押し出す。対敵が抵抗すらできず地面に吹っ飛ばされた。
さらに、吉岡が倒れた対敵を容赦なく追撃する。突き垂めがけて竹刀を突き下ろした。
「ギィイイイイイイイオオオオオォォォ――!」
「く、ああアッ!」
吉岡の竹刀が深くめり込み、対敵がうめきを漏らした。
直後、審判達が吉岡の一本を認定する。
「えー、倒れた相手を攻撃したのに!? 卑怯じゃない?」
「いや、審判に止められる前なら一本だけ打てるルールだよ。連打したら反則だけど」
周囲の者達が囁き合う声が静也の耳に届いた。
これで仕切り直し。吉岡と対敵が開始線に戻って再び対峙する。
そこからはひどいものだった。吉岡がすっかり委縮してしまった対敵をボコボコに打ち据えていく。一本を取られないように、わざと手抜きの打突を放っているように見えた。
やがて、勝敗が決する。対敵がその場にくずおれた。罪人のように首を前に垂らして肩を震わせている。面越しには窺えないが、泣き出してしまったのかもしれない。
勝者たる吉岡はその姿を静かに見下ろしていた。憎々しげな嘲笑を浮かべているのが目に浮かぶよう。
観客達は一様に眉をひそめている。
「あの女、ヒデーな……」
「オイ、いいのかよ? アレ、完全に対戦相手をバカにしてんじゃん。剣道は礼儀を重んじる武道だから侮辱するような行為は反則を取られるって聞いてるぞ?」
「噂によると、吉岡はアレを気合の表れという名目で押し通しているらしい。真偽は明白なのにな……」
吉岡が順調に勝ち上がっていった。対敵の打突をまったく恐れず、被打しながらも攻めて攻めて攻めまくる。対敵の攻撃を見切り、身体をずらす事で打突部位に命中させない反射神経と技量は大したもの。しかし称賛する者は誰もいない。
審判に会場の脇へと引っ張っていかれ説教を受けていたが、吉岡が堪えた様子はない。控えで面を外し悠然とスポーツドリンクを嚥下している。館内では飲食禁止のはずなのだが、それを咎める者もいない。
誰もが吉岡に厳しい視線を注いでいる。そんな中、静也はなぜか吉岡に親近感を覚えていた。
■ ■ ■
遂に決勝戦が始まる。一辺九メートル、正方形状にラインの敷かれた試合場。勝ち抜いてきた猛者二人がその内側に立った。
背中の胴紐に赤いたすきを結んだ者、腰の垂れに刺繍された文字は『二天高校・宮本美名子』。白いたすきを結んだ者、刺繍された文字は『一乗高校・吉岡宮緒』。
提げ刀の姿勢で相互の立礼を行ってから帯刀、三歩進んで開始線で竹刀を抜き合わせつつ、蹲踞する。
静也を含む観客達の視線が一点に集中している。光と闇、あるいは正義と悪――どちらの勝利を望んでいるかは語るまでもない。
「始め!」
主審の合図で両者が一斉に立ち上がった。
声援が地鳴りのように会場を震わせる。
先に仕掛けたのは吉岡。美名子の剣先が下がったのを隙と見て、一足一刀の間合い――互いの竹刀が交差して触れ合い、一歩踏み出せば対敵を打突できる間合い――から飛び出して面打ちを繰り出す。
「ケケッ……ゲエエエエェェェン――!」
しかしそれは誘いだった。美名子が正中線に竹刀を構えて踏み込み、吉岡の竹刀をすり上げた。
吉岡の打突が美名子の面の脇へと流れる。
「エエエエエェェェンゥゥゥウウウ――!」
それとほぼ同時、美名子の応じの面が吉岡へと迫った。
吉岡が美名子の動きに合わせ、とっさの足さばきで横に逃れる。
「ぐぅっ……ゴオオオオウウウゥゥッ!」
美名子の脇を走り抜けるように胴を放った。竹刀を大きく旋回させてからの横薙ぎが美名子に命中する。だが、気・剣・体の揃わぬ打突であり、一本とはならない。
交錯の瞬間、互いの積んできた研鑽の重さが花火のように咲いて散るような技の応酬であった。
両者は再び一足一刀の間合いを置いて対峙する。
今度は美名子から攻めかかった。出鼻に吉岡の竹刀を打ち払う。
吉岡の竹刀が横へと流れた隙に、美名子が面を打つような素振りを見せた。
「メェェェエエエエエエ――」
面を警戒した吉岡がとっさに竹刀を頭上へ掲げる。
美名子が防がれるのも構わずに面打ちを放つ、
「――オオオオオゥゥゥウウウウウッ!」
と見せかけて、竹刀を水平に振りかぶりガードの空いた吉岡の胴を狙った。綺麗な払い胴である。
吉岡の反応が致命的に遅れている。一本取られるのを免れ得ない。
しかし吉岡がその状況を覆してみせた。右手だけを竹刀から離して、右腕を打突の軌道上に割り込ませる。防具に守られていない吉岡の右腕に美名子の竹刀が鋭く食い込んだ。
観衆達から悲鳴が上がる。美名子の打突を腕で躊躇なく受け止めた吉岡の勝負度胸は常軌を逸していた。
懐に飛び込んだ関係上、美名子が打突の放てない近間に入ってしまっている。そこで距離を取ろうとした。
しかし吉岡がそれを許さない。怯む事なく美名子に肉薄し、鍔迫り合いを強要する。
美名子が柄を前にかざして応じた。
「ギャラララララアアアアアアア――ッ!」
吉岡が自慢の怪力を発揮して美名子を突き飛ばさんとする。
しかし美名子が猛牛をいなすように吉岡の突進をそらした。
たまらず吉岡が隙を晒す。
美名子が伸び切った吉岡の腕へ竹刀を振り下ろした。
「テエエエエェェェイヤアアアアァッ――!」
見事、後退しながらの引き小手が炸裂。審判達が揃って赤旗を揚げた。歓声がわっと湧き上がる。
美名子が油断なく剣先を突きつける先、吉岡が一度だけ床に足を叩きつけて震わせた。
両者が開始線に戻り、主審の合図を待って再度動き出す。
「ギャハッ、ギャハハハアアアアアアア――ッ!」
「ソイヤアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
お互い、気炎を吐くように咆哮した。
息つく暇も与えぬ攻防が続く。美名子が吉岡の怒涛の打突をひらりと回避し、吉岡が美名子の間隙を縫うような打突を物ともせずに攻めに徹した。スピードと技量は美名子が上、パワーと反射神経は吉岡に分がある。
美名子の剣は正統派。どれだけ激しく動こうと、背筋をピンと伸ばしたまま重心を崩さず太刀筋も乱さない。
対して吉岡の剣は邪道。打突部位にさえ当てられなければ一本取られない事を逆手に取った被打覚悟の戦法で対敵に喰らいつく。
一分にも及んだ膠着状態の最中、吉岡の身に異変が起こる。力強かった足取りがフラフラと覚束なくなり、しまいには膝に手をついてしまった。
弱った隙に攻撃するような美名子ではない。竹刀を下ろし、審判に呼びかけようとする。
主審が試合の中断を言い渡す直前、静也は面越しに吉岡の目が不気味に輝くのを見た気がした。
「クケケッ……メェェェエエエエエエエン――ッ!」
一瞬だった。吉岡が倒れ込むような前傾姿勢を見せたかと思いきや、そのまま勢いよく踏み出しガラ空きの美名子の面へと竹刀を振り下ろす。パァンという甲高い音が鳴った。
改心の面を打ち込まれた美名子が呆然と立ち尽くしている。
会場から波が引くように一切の音が途絶えた。
「ふ……ふふ、ふざけんな!」
「こンの、卑怯モンがァ――!」
ほどなく、空前のブーイングが巻き起こる。今にもアリーナ席から会場へと物を投げ込みそうな雰囲気。
当然、試合は中断を余儀なくされた。審判達が集まって審議を始める。
二階までは聞こえてこないが、審判達に聴取される吉岡は平然と受け答えしていた。審判達が渋い顔になる。
やがて審議が終わった。なんと、先程の面を一本として認めるらしい。
それを伝えられた観客達が殺気立つ。
「なんで、そうなるんだよ!? 審判共の目は節穴か!?」
「えこひいきしてんじゃねーぞ!」
「宮本が可哀想じゃねえか!」
観客達の声を黙殺し、主審が試合を再開させる。
美名子が文句一つ言わずに吉岡と対峙した。吉岡が美名子を嘲笑うように肩を震わせる。
先に一本を取った者の勝ちという局面、吉岡が早々に妙な構えを見せた。柄を頭上へ掲げて、剣先を右斜め下方に向けている。
観客達がざわめいた。
「三所防御か……」
「三所防御?」
「現代の剣道界で問題視されている構えさ。胴体がガラ空きになるから実戦では使えないけど、試合では極めて有効な防御方法なんだ。この構えを取るだけで、面・小手・胴――三ヵ所の打突部位を守れてしまう。柄と刀身が対敵の打突を阻む位置に存在しているからね。左の小手――逆小手および左の胴――逆胴に打突を当てても、一本と認められにくい風潮が蔓延している以上、対敵は実質的に突き以外の選択肢を封じられてしまう。つまり、亀のように防御を固めて自分からは動かず、攻めあぐねた対敵が隙を晒すのを待つような汚い戦法ってこと。確か、中学生以下の剣道大会では『時間の空費』という理由で反則の対象になっているはずだよ」
「あの女、どこまで卑怯なんだ! ――宮本、頼む! 勝ってくれ!」
次第に、吉岡に対する反感が美名子に対する期待へと変換されていく。どこからともなく、宮本コールが発生した。
声援の後押しを受け、美名子が動く。剣先が突き進むは阻むもののない吉岡の喉元。
「ッキイイイイィィィィ――ッ!」
「ジャアアアアアアアアアアアッ――!」
しかしそれは吉岡としても想定済みらしい。美名子の動作の起こり頭に、身体を横にずらす事で突きの軌道から外れ、駆け抜けざま美名子の面を打とうとする。
それより速く、美名子が竹刀を手前に引き戻していた。吉岡の面打ちを受け止めて弾く。
剣道に造詣が深いらしい観客の一人が語っていた三所防御の体勢とやらが崩れた。
立て続けに、美名子が反発の勢いを殺さず竹刀を旋回させ、横薙ぎの体勢を作る。
「ドォォォオオオオゥゥゥゥウウウウウ――ッ!」
そのまま吉岡に返し胴を打ち込んでいた。
吉岡が竹刀を跳ね上げられた体勢のまま硬直する。
美名子が吉岡の脇を抜け、すぐに吉岡へと向き直った。
会場にひるがえるは三つの鮮やかな赤の旗。
「いよっしゃあああああああぁぁぁッ!」
「うおおおおォォォオオオオオ――ッ!」
「みィいいいやァあああもォおおおとォおおおッ!」
本日最大の歓声が波濤となって会場に押し寄せた。
鳴りやまぬ拍手の中、静也は直前の攻防を振り返る。
美名子はフェイントとして突きを放った上で、カウンターを放った吉岡へ、更にカウンターを被せたのだろう。要するに、吉岡の動きを読み切っていたのだ。
終わりの礼を済ませ、美名子が控えに戻っていく。
吉岡がその背をずっと見つめていた。