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闇夜に奏でるノクターン  作者: 槙村まき
第四曲 幻想祭一日目
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(15) かけがえのないもの・上

 自分のことだけで周りが見えていない。

 優真は静かに拳を開くと歩き始めた。

 袋小路はとっくに気づいているだろう。匂いで分かる。

 だけどその隣にいる英は、自分のことに精一杯で優真の接近に気づく様子が無い。

 情報屋の喜多野千里から言われて半ば半信半疑だったものの、今の英の言葉と行動で、それが真実だと教えられてしまった。

 優真が九歳の頃、英の妻――夏穂が亡くなった。

 それから英が変わったということに、優真は気づいていた。

 匂いの変わった英は、自分の本心を隠すためだけに温厚な笑みを浮かべていたのだろう。その笑みなんて、優真からするとただの道化で、本物だとは思えなかった。

 変わったのは確実だ。だけど何が変わったのか分からなかった。

 それを、いま優真は確信した。

 夏穂が亡くなる前――買い物に行く前に、何気なく優真に言った言葉があった。

「彼のこと、見てあげてね。彼の力は人を操ることで、それ以外で人と会話をするということがどうしても苦手なの。彼は、それをいつも悲しんでいる。自分を視てくれる人なんて誰もいないんだって、私だけなんだって。そんなことないっていっても無駄なのね。彼はね、今まで一人だったから、とても寂しかっただけなの。やっと心を視てくれる私を見つけて、それだけが唯一だけだとか勘違いしちゃっている。優真、何かあったらね、そんなことないんだよって、彼に教えてあげてね。約束」

 薬指を交わしたことは、今でも覚えている。

 それを英は知らないのだ。

 あの男は、亡き妻の影ばかり追っていて、それが唯一だと、勘違いして絶望しているだけ。

 前を向いていない。

 いくら異能を持つ人間がいたとしても、亡くなった人間が生き返ることなんてないというのに。

 拳を握りしめた。

 異能は使わない。

 拳でこちらを向かせる。

 傍にいる優真を――いや、英を心から思っている娘のことを、思い出させてやる。

 喜多野風羽と目が合った。

 彼はどこか苦しそうで、だけど静かに場を見守っている。

 袋小路の視線がこちらを向く。

 それより早く、優真は呼びかけた。

「英」

「……あれ? ゆうっ」

 振り返った英の頬に拳を放った。

 異能を使っていない、優真が本来持っている力の拳だ。

 赤く腫れた頬を押さえ、驚いたように英がこちらを向く。

 その眼は確かに優真を見ていた。信じられないというように。

「ゆう、どうしてッ」

 その頬にもう一撃。

 拳が痛みを訴えるが関係ない。

 もう一撃。

 英の口から血が出る。口の中を切ったのだろう。

 優真は静かに怒りを湛えた強い瞳で、英を睨みつけた。

「どうしてお前は、誰も視ようとしないんだ」

 他人に視てもらうことばかり考えている奴が、はなから他人を視ようとしていない奴が、他人から視てもらうことなんてできないんだ。

「おか……夏穂さんが亡くなったのは、俺も辛かった」

 優しかったから。赤の他人の優真を向かい入れてくれて、家族だと、お母さんって呼んでねと、そう優しく微笑んだあの人は、誰にでも優しい人だった。

 目を合わせた人の心を読む異能を持っていたあの人は、そのせいで今まで散々傷ついてきたはずなのに、それをおくびに出すことなく、赤の他人にさえも優しさを振りまく人だった。

 英は、そんな彼女のことを好きになったんじゃなかったのか。あの人は、英に幸せになってもらうために、一緒になったと言っていた。

「だけどあの時一番辛かったのはお前の筈なのに……どうして、泣かないんだ。夏穂さんを病院で看取った時も、葬儀の時も、お前は一滴も涙を零さなかったっ。笑顔の仮面が気色悪かったんだよ!」

 愛する人が亡くなったというのに、英はあれから笑顔だけを浮かべている。

 一見温厚そうな仮面の裏に隠されていたのは、さっきの昏い憂いの表情だけなのか。

 英が左の頬を押さえている。

 拳を変えると、左手で優真は空いている右の頬に向かって、一撃。

「ゆう、ま」

「泣けよッ! 辛く苦しくってどうしようもない時は、泣いていいんだよ! それは赤ん坊だけじゃなくって、大人にも許されていることなんだ! むしゃくしゃしたら怒ってもいいし、もし自分が間違ったことをしたら、周りの人が止めてくれるだろ! そういう人を作れば、そうすれば、お前だって……俺だって……。ああ、どうでもいいから泣け!」

「それは脅迫かな」

 もう一度振り上げた拳を、英が優しく受け止める。

 その眼には意思が戻っている気がした。

 苦笑した英は、ゆっくりと優真の拳を降ろした。

「でも、そうだね」

 英の拳が優真の頬を優しく打ちつける。

「これでお合いこだ」

「……なんだよ」

「そんな怒らないでよ、優真。僕は……全く気づいていなかったわけじゃないんだよ。ただ、認めたくなかった。だから、全てから逃げていた。夏穂だけが全てだったんだって、愛する人を良いわけに使っていただけなんだって……今、気づいたよ」

 やっと、気づいたよ。

「でもね、優真。僕はもうあとに戻れないんだよ。契約しちゃったからね」

「え?」

「僕の心臓は、彼女に掴まれているんだ」

「正確にはワタクシではなく、別の人間ですが」

「細かいことはいいんだよ。いくら僕が心変わりをしても、こればかりはどうしようもないんだ。あの二人組を捕まえて、そうしたら妻が生き返るのだから……だったら、そっちの方がいいと僕は考えている」

「もし夏穂さんが生き返ったとしても、お前がいなかった意味ないだろ!」

「そうかもしれないね」

 英はそう言って微笑んだ。

「でもさ、愛情をあげることのできない僕がいるよりも、夏穂がいる方が、優真も――楓花も幸せだろ」

 その笑みは、数年ぶりに見る、彼の本当の笑みのようで。

 優真は唇を噛み締めた。

(そんなことないっ)


 袋小路が静かな目で状況を眺めている。


 小さな足音が聞こえてきた。

 屋上の開いた扉を越えて、その足音は英のもとにやってくる。

「おとうさん……? ゆうまおにいちゃん……?」

 青い瞳が瞬いた。

「どうして、泣いているの?」


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