紙対応
――この絶望感を、他の何にたとえよう。
外食して、出てきた食事を全て平らげた後に、財布を忘れてきてしまったことに気づく――。
オートロックのマンションで、鍵を忘れて家を出てしまう――。
夏休み最終日にそびえ立つ、やってない宿題の山――。
九時から学校なのに、九時に起きる――。
切符を無くす――。
――。
四面楚歌――。
否。今、私を取り囲むのは敵ではない。壁だ。
後ろには、白く小さい、正方形のタイルが敷き詰められた土壁。
両サイドには、水色に塗られた木の壁。そして正面にそびえ立つのは同じ材質の、高き扉。
天井を仰げば、冬の太陽のように輝く蛍光灯の光――。
現在、私はこの個室の中から、出られない状況にあった。
しかし、この正面の扉。確かに鍵はかかっているが、外側からではない。内側から、かかっている。
つまり、この目の前の鍵。この銀色のバーをひょいと回せば、簡単に扉は開く。
――のだが。
私は今、この個室の中で、一歩も動けない状況にある。それどころか、立ち上がることすらできないのだ。
すぐ目の前にある鍵を、恨めしげに睨みつける。こんなにも近くにあるというのに――!
腿裏に感じる冷たさとは裏腹に、額にはじんわりと脂汗が浮かぶ。両脚の上に肘を乗せ、手を組んだ。私が考え事をする時に、ついやってしまういつもの癖だ。
それは傍から見れば、神に祈る姿にも見えただろう。しかし、私は無神論者。神などという存在は信じていない。どんな困難であれ、自分の力で乗り越えるしかないのだ。
組んだ親指に顎を添え、目を閉じ、唇を噛む。
(……冷静になれ……。きっと、何か手はあるはずだ……)
腕時計に目をやる。午後二時。いつも早めに行動していることが幸いした。タイムリミットは、あと一時間。
(この……“トイレ”から出る手が……。)
――そう。私は今、公園の“トイレ”の個室の中にいるのだ。
用を足した後に――気付いた。
紙が――無い――。
*
全てのきっかけは、駅に着いた時に感じた僅かな“便意”であった。
この日、私はとある企業の一次面接を受けるためにこの地、神成町にやってきたのだが、“用心深い”私は、この初めて降り立つ地に、予定よりも一時間半も早く着いてしまった。道に迷ってもいいように、早めに家を出たのだ。
そこで、先ほども述べた“便意”である。私は目的地である面接会場を探しながら、近くの公園の公衆便所で用を足そう、そう思った。
五月の暖かな一日だった。憎っくき花粉も消え去り、心地良い風がどこからともなく吹いて来る。青空と巻層雲の美しいグラデーションに、私は日常の中にある、ふとした幸せを想った。深呼吸をすると、体の中の不純物が体外に排出されていくようだ。
その日は平日ということもあり、駅前の人通りも多くなかった。いるのは、暇を持て余した主婦と、散歩をしている老人と……ティッシュ配りのお姉さんくらいである。
駅を出てすぐ目的地に向かおうと歩き出した私は、少し立ち止まり思案する。
(待てよ……。天気もいいことだし、公園で用を足した後は、ベンチにでも座りながら、面接までのんびりするのも良いだろう。履歴書にも、もう一度目を通しておきたいし)
左腕に巻いた腕時計に目をやると、午後一時半。面接の予定時刻である三時までにはまだ十分に時間がある。遅い時間に朝食をとった私はあまりお腹が空いてなかったが、緊張する面接の前に腹に何か入れておこう、と駅前のコンビニに向かった。
駅を出て歩き始めた私と、駅前正面のコンビニとの直線上に、ティッシュ配りのお姉さんが立っていた。
「新装開店でぇす。よろしくお願いしまぁす」
少し鼻にかかった高い声でそう言いながら、私にポケットティッシュを差し出してくる。
ノーサンキュー……。私は申し訳程度の笑顔で会釈をし、すぐ横を通り過ぎた。もう、花粉の季節は終わったのだ。と。ポケットティッシュなど、もう必要無いのだ! と。そう思っていた。
……今思えばッ……‼︎ あの時ティッシュをもらっておけば……こんなことにはならなかったのに……ッ‼︎
本当に、“用心深い”だなんて笑わせる……。
……。
……後悔するのは置いておいて。
コンビニでお茶とおにぎりを買った私は、スマートフォンの地図アプリ氏の案内に従って歩き出した。私はこの地図アプリ氏に、絶大な信頼を寄せている。このアプリさえあれば、道に迷うことなんて、ほぼ無い。……だから私はいつも、面接前には暇を弄ぶことになるのだが……。まぁ遅れてしまうよりは、ずっといいだろう。
十分後。優秀な地図アプリ氏は私を目的地である面接会場、もとい一棟の雑居ビルに導いた。
……問題はここからである。駅に着いた時僅かであった“便意”は、歩いているうちにすぐそこまで迫ってきていた。確実に、ひたひたと忍び寄るそれに、私は汗を滲ませる。後は、公園を探すだけ……。
地図アプリ氏の画面を、人差し指と中指でピンチアウトさせ、『公園』で検索をかける。すると、GPS機能によって表示された私の現在地のマーカーの近くに、赤いピンが刺さる。地図アプリ氏は、この場所から一番近い公園を、早くも見つけ出したのだ。画面には、『かんなり公園』とあった。
安心し、すぐにその公園に向かう。便意よりも速く、動かなくては。無意識のうちに、競歩になっていた。
公園には三分と経たずに着いた。木のたくさん生えた、緑の多い公園である。遊具の類といえば滑り台とブランコが隅の方に置いてあるくらいだが、敷地面積はかなりあって、おにごっこのような、走り回る遊びにはもってこいだろう。
園内に子どもの姿は無く、いる人といえばベンチで寝ている、ホームレス風の老人ただ一人だけであった。
公園の中に入ると、まっすぐに公衆トイレへと向かった。遠目から見てすぐにわかる、洋風の建物である。中に入ると予想していたよりは綺麗で、きちんと掃除がされている様子であった。アンモニア臭も、そこまで気にならない。さっそく、一番手前の個室に入った。
…………………………。
ふぅ……。
用を足し、さぁ出よう。そう思った、その時であった。
全身が、冷凍マンモスのように凍りついた。目をカッと見開き、一点を見つめる。
そこには、空になったステンレス製の、トイレットペーパーホルダーがあった。
*
いくら思い返してみても、後悔してみても、もう起きてしまった事なのだから、どうしようもない。しかし、後悔しても、後悔しても……! 後悔し足らないのであった。
というのも、こういった経験は初めてではなかったのだ。小学生の時、私はこれと全く同じ目にあっていた。その時のことは……。思い出したくもない。私はあの経験のせいで、軽い閉所恐怖症にすらなってしまったのだ。あの時の経験を活かせず、また同じ過ちを繰り返してしまっただなんて。なんとも情けなくて、泣けてくる。
下半身を半分さらけ出した私は、床から立ち上ってくる冷気によって蝕まれ、体を震わせていた。いかん。こんな場所にずっといたら……。風邪をひいてしまう。いや、そんなことよりも、面接に行けないではないか。
……何のためにここに来たんだ……! 私は昨日、アルバイトから帰ってきてから、徹夜で履歴書を書いていたのだ。履歴書には、その企業への“志望動機”も書かれているため、他の企業を受ける際に使い回すこともできない。……ボールペン一発書きで、修正液も使えないから、三回も書き直したんだぞッ……‼︎ 今日受ける企業は事業内容も魅力的だし、説明会で出会った人事の人当たりもよく、結構“本気”なのだ。なんとしてでも、面接を受けたい……。
時計にちらりと目をやる。二時十分。残り五十分……。なんとか、手を考えなければ。
まず、私はトイレットペーパーホルダーの中に、“芯”が残っていないかどうかを確認した。あれば、その芯をくしゃくしゃにほぐして繊維状にすれば、拭けないこともない。
しかし、その希望はすぐに打ち砕かれた。あるのは、指圧棒のような銀色の突起のみ。なるほど、ここは“コアレス・トイレットペーパー”を使っているのか……。
他に、紙の代わりになるものはないだろうか。座ったまま後ろを振り返ると、『紙を無駄遣いしないようにしましょう!』と書いてある張り紙が貼ってある! ……ラミネート加工された。つまり、そのポスターも使えない。“無駄遣い”もなにも……。紙が無いよ……。
私は次にカバンの中を探った。使えそうなものは……先ほどコンビニでもらったレシート。縦七センチ、横五センチほどの、紙である。……いや……あまりに小さすぎるだろう。
あとは……。
目の前には、昨日徹夜で書いた履歴書。
…………イヤイヤ‼︎ 本末転倒ではないか! この履歴書で拭いてしまったら、元も子もない。面接が受けられないではないか。それでは、出ても意味がない。
履歴書には、無表情の私の写真が貼られている。あぁ……この写真の中の、半年くらい前の俺に言ってやりたい。ポケットティッシュは、いつ何時でも、花粉の季節が終わっても持ち歩いておきなさい、と……。
私は履歴書を見つめ、うなだれた。
……。
――カツンッ、カツンッ、カツンッ
……えっ……?
この音はもしや……。
その音は紛れもなく、靴底が床を蹴る、足音だった。その音がすぐ外で鳴っており、公衆便所内に響き渡っている。
ちょうど私が入っている個室の真正面で、音は鳴り止んだ。ジィィィィ、とジッパーを開く音が聞こえ、次いで控えめな飛沫音が聞こえてくる。
まさか、こんな閑散とした公園に、この時間帯に人が来るだなんて、思ってもみなかった……! あぁ……助かった……! 私は信じてもいない神に感謝をした。『神は私を見捨てなかった……!』というセリフは、こんな時に使うのだろう。
恥を感じている暇などない。意を決し、外にいる人に声をかけた。
「……あのぉーぅ、すみません」
「へっ⁉︎ なっ、なんすか?」
外にいる人(以下、外人とする)は甲高い、驚きの声を上げた。
その高めの声色や言葉遣いから想像するに、外人は自分と同じかちょっと年下くらいの、若い人物であろうことが予想できた。
「あっ、あのぉーぅですね……なんというか……紙がなくてですね。出られなくなっちゃって、困ってるんですよぉ」
扉の向こう側の外人に、呼びかけるように言う。声は思ったより、公衆便所内に反響した。
「あぁ〜……。なるほど。それは大変っすね」
外人はまるで人ごとのように(人ごとなのだが)、軽い調子で言った。
まずい。こいつはあまり、協力的な人物では無いのかもしれない。
「はい。それでですね、他のとこ、トイレットペーパー入ってないですか?」
「他のとこ? あぁ、ちょっと待ってください」
ジィィィィ――。ジッパーを閉める音がする。
カツンッ、カツンッ――。外人の歩く音がする。私は空いた個室を覗き込む、若い男を想像した。頼む……あってくれ……!
「やー、無いっすね」
希望は、あっさりと打ち砕かれる。そんな――! 全ての個室、この公衆便所には三つの個室があったが、どこにも、一つも残っていないだなんて! 盗まれたり、イタズラにあったりしたのだろうか……。
「えぇっと……じゃあなんか、紙的なモノ、持ってないですか?」
「紙的なモノォ? いやぁ……持ってないっすねぇ……」
まずい、まずいぞ。これで助かったと思ったのに。一転、大ピンチだ。
私は焦りを隠せないまま、懇願するように言う。
「あぁっ、あのっ、ちょっと紙的なモノが無いと、ここ出られないんですよぉ……! ちょっと、もう時間もなくって……紙的なモノ、探してきてもらえないですか?」
少し、間が空く。
待ってくれ……! 行かないでくれッ……‼︎
「あー……わかりました。ちょっと、探してみますよ」
……ぃよっしゃぁーー‼︎
個室の中で、小さくガッツポーズをする。自然と、顔がほころんだ。
「お願いしますっ!」
カツンッ、カツンッと踵を鳴らす音がして、だんだんと小さくなる。……紙的なモノを探してくれと勢いで言ってみたものの、そんなものが公園内に落ちているのだろうか……? まだ、事態は解決したわけではないのだ。まだ油断してはならない。私は組んだ両手にぎゅっと力を込め、外人が帰って来るのを待った。
………………。
時計を見れば、二時四十分。残りは二十分しかない。
身体の冷えも、耐えがたくなってきた。お腹を下してしまいそうだ。トイレにいるのが幸い……いや、幸いじゃない。
――カツンッ、カツンッ、カツンッ
外人が、帰ってきたっ! なにか、紙的なモノを探してきてくれたのだろうか……?
「あっ、何か、ありました?」
たまらず、私が聞いた。
「うん、色々ありましたよ! まずはですねぇ……」
まず? ……色々⁉︎ なんだか、急に嫌な予感がした。
次の瞬間、目の前の扉の上部から――
――バッサァ
黒く、長い、髪の毛の束だった。もう何年洗われていないのだろう、と思わせる、水分の欠片もない乾いた髪。それは理由もない、生理的な恐怖を与える代物だった。
それが目の前の扉に張り付き、広がった。一本一本の毛が、まるで生きているかのようにモゾモゾ動く。
「ぅあぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁああああぁぁぁあぁあ‼︎」
無意識のうちに絶叫し、失禁していた。トイレであったことが、幸いした。
「あっはっはっはっはっはっは! 冗談っすよ! “カミ”的なモノってことでね。お約束ですよ。そこに落ちてたんすよ。カツラ」
……冗談じゃないよ……。
外人の言葉を聞いた後も、心臓は普段の二倍近いスピードで鼓動し続けた。
「いや……あの…………そうゆうのもう……いいから……」
絞り出すようにして出した私の声は、かすれていた。
外人がカツラをゆっくり引っ込める。ズルズルと、引きずられていくようにして動くその姿は、カツラだとわかっていても、異様である。
「じゃあ次は、これっす!」
扉の上部から投げ込まれたそれは、ハラハラと落ちた。
またもや私は、先ほどとは違う意味で、絶叫することになる。
大量の紙幣。全てが、一万円札であった。
「っえぇぇえええぇぇぇええぇえぇええぇぇぇええぇええぇえぇえええ‼︎」
いや、確かに紙っちゃあ紙だが!
「やー、なんか、落ちてたんっすよね」
一枚を拾い上げ、頭の上で光る白熱灯に透かして見る。……本物だ。
公園に、こんな大量の金が落ちているだなんて……テレビニュース沙汰の出来事だろう。それをしかも自分のモノにせず、交番に届けるわけでもなく……私にこれで、拭けと……?
「あ……いや、ありがたいんだけど……。これじゃあ拭け……ないかな……」
身を屈め、手が届く限り扉の下から紙幣の山を押し戻す。少し個室内に残ってしまったが、無事外に出ることができたら、全て外人に渡そう。……決して私はネコババなどしないぞ。
「そうっすか……じゃあ、これは?」
外人は扉の向こうから――
――バサバサッ
一冊の雑誌のようなものを投げ込んだ。
「……」
「……落ちてました」
それは、大人になったら読んでもよい、雑誌だった。
そっか……。公園に落ちている紙的なモノっていったら、あとはもう……これくらいしかないか……。
おもむろに、真ん中あたりのページを開いてみる。
見開きに、裸体の女性が寝そべっていた。その下には、煽り文が。
『アタシを、汚して……?』
……。いや。なんかこれで拭くのは。なんか嫌だ……。
「……ダメっすかね」
「……あぁ、えぇっと……。申し訳ないんですけど……」
時計に目をやった。残り、十分。
もう、時間がない……。
「あと、これくらいしか、無かったすよ」
扉の向こうから、外人が何かを投げる。
――パサッ
それは、ポケットティッシュ。
しかも“鼻ゴージャス”という商品。肌触りの良い、高級ティッシュだ。
「……えぇぇえ⁉︎」
ティッシュ持ってたのかよ⁉︎ 先にそれ渡せよ‼︎
いや、どちらにせよ。
「あっ、ありがとうございます!」
ポケットティッシュの包みを真ん中から裂くようにして開け、一枚取り出す。
…………。
なんと柔らかい……。感動すら覚える。
パンツと一緒にズボンを上げ、立ち上がる。長時間座っていたからか、立ち眩みした。壁に手を突き、目を瞑った。
早く外に出て、外人に礼を言わなければ。そして、面接会場へ――。
銀色の鍵を回し、外に出た。
*
我が目を疑った。
私は、夢を見ているのだろうか。
これは、一体。どういうことなのか。
時計を見る。……八時……五十分……⁉︎
公衆便所を出た私が見たもの。それは、漆黒の闇夜だった。
墨汁をぶちまけたような黒い空の彼方には、朧月が浮かんでいる。
なんでだ……。二時五十分だったはずだ。今の今まで。
そこにあるのは、太陽のはずだった。なぜそこに月がいる――。
外人もいない。私が話していたのは、なんだったんだ――?
公衆トイレの前でぼんやり空を見上げていると、遠くの方から控えめな笑い声が聞こえてきた。老人の、しわがれた声だ。
暗闇に目を凝らすと、それは公園に入ってくる時に見た、ベンチで寝ていたホームレス風の老人だった。片手にカップ酒を持っていて、今はそのベンチに座っている。
「お前さん、トイレから出てきたら夜だった、ってヤツだぁ。そうだろ?」
私は、その老人の方へ向かった。
「……何か、知っているんですか……?」
私は、自分に何が起こったのか、知りたかった。老人に近づくと、長い間風呂に入っていない人が放つ特有の異臭が、アルコールの匂いに混じって漂ってきた。私は少し距離を置き、老人の言葉を待った。
「“神隠し”、ってヤツさぁ」
老人はそう言うと、長いげっぷをした。
「“カミカクシ”……?」
私はその言葉の意味を知らなかった訳ではない。あの某ジブリ映画だって、見たことがある。ただ、それが今現実に起こっただなんて、信じられなかったのだ。
「あれを見てみろ」
老人はベンチの正面、私から見て、右手を指差した。そちらを向くと、道路を挟んで向こう側。古びた小さな鳥居が見える。周りに木がたくさん生えているので、来る時には全く気が付かなかったのだ。
「あれは……?」
「神成神社」
老人はカップ酒を一口、ちびりと飲んだ。
「昔はここらも森でなぁ。この公園だって、その神社の敷地内だったんだ。……昔っからその森じゃあ、“神隠し”が時々起きた。つっても、戻ってこないわけじゃあないんだ。何時間かするとな、戻って来るのさ。イタズラ好きな、神様なんだなぁ」
ひっひっひ、と引き笑いをする。それはどこか、懐かしむような言い方だった。
「そこのトイレを使う奴なんざ、この地元にゃあいねぇぞ」
この人が、私をからかうために言ったのではないということはなんとなくわかっていた。本当にそんなことが起こるのか、信じられない気持ちもあったが、今はそれ以外に、納得できる理由がないのだった。
私は惚けながら、自分がカバンを持っていないことに気付いた。あの個室に、置いてきてしまっていたのだ。
その個室に戻るのは、なんだか少し怖い気持ちがしたが、そのまま帰るわけにもいかない。履歴書だって入っているし……あ。……あの履歴書、結局無駄になってしまったか……。
再び公衆トイレ内に入り、先ほどまでいた、一番手前の個室の扉を開く。
「…………‼︎」
カバンを持ち上げてすぐ、異変に気付く。
心臓を一瞬、ぐっと握られたような衝撃を受け、そこがトイレだというのにも関わらず、床にへたり込んだ。
「カミ…………カクシ……」
呟くように、そう言った。
トイレットペーパーホルダーには――綺麗に三角折りされた――