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短編集

酒を飲む、今日この頃

 妻が注いでくれる酒が、世界で一番うまい。

 あの時の俺は、かなり単純な男だった。

 仕事から疲れて家に帰ると、妻が『お帰りなさい』と迎えてくれる。

 温かい飯と熱い風呂が用意されていて、結婚当初は本当に幸せすぎて怖かったものだ。

 そのなかでも一番楽しみだったのは、酒だ。

 夏は冷えたビールを、冬は日本酒を熱かんにして飲んでいた。

 それもただの酒ではない、妻の酌で飲む酒が最高だったのだ。

 独身の時は、付き合いでしか飲んでいなかった酒。

 しかし今では、晩酌を飲むことが当り前になってしまった。


 結婚してから五年、とうとう娘が生まれた。

 実は最初、俺は男の子が欲しかった。

 虫取りやキャッチボールを、一緒にやりたかったからだ。

 しかし、いざ娘が生まれるとそんな思いは吹き飛んでしまった。

 初めてはいはいをした時、初めて立って歩いた時、初めて言葉を喋った時。

 妻からその話を聞くたびに、俺は頬を緩ませずにはいられなかった。

 

 子供の成長というのは、本当に早い。

 この前まで赤ん坊だったのが、今度は小学生だ。

 俺は嬉しい反面、一抹の寂しさを感じていた。

 前までは妻から聞いていた話を、今では娘が自分で答えてくれる。

「今日はどんなことがあったんだ?」

 気づけばそれが、お決まりの台詞になっていた。


「お父さん、お酒ってそんなに美味しいの?」

 ある日、娘がそんな質問をしてきた。

 とにかく好奇心が旺盛で、最近は酒のことが気になるらしい。

 俺は少し迷ってから、こう答えた。

「いや、酒がうまいんじゃない。女房が注いでくれる酒が一番うまいんだ。」

 娘は首を傾げて、不思議そうに俺を見ていた。


 妻や娘との会話が、めっきり減った。

 小学校の卒業式にも、中学校の入学式にも行ってない。

 仕事場の方が落ち着くようになり、俺は進んで働いた。

 残業が増え、妻との衝突が増えた。

 いや、俺が一方的に当たっていただけだ。

 それに気づいていたのか、ただの反抗期か。

 娘は俺に冷たくなった、残業だけが増える。

 

 高校生になった娘に、きちんとおめでとうも言ってない。

 娘との距離が離れていく、仕事場だけが憩いの場になる。

「あの子、東京の大学に行きたいって」

 妻が突然、そんなことを言い出した。

 俺はすぐさま娘を呼んで、三人で話し合った。

 もちろん俺は反対した、娘はそれに対抗して、妻はあくまで中立だった。

「進路のこと相談したかったのに、父さん、全然家にいなかったじゃん!」

 反論はできなかった、する気もなかった。

 俺は娘の東京行きを許した、辛くなってすぐ帰るだろうと思ったからだ。

 しかし予想に反して、娘はうまくやっているようだ。

 妻の話を、俺は他人事のように聞いていた。

 再び二人きりの生活に戻り、俺は妻との溝を少しずつ埋めた。

「別に気にしてませんよ、あなたは私たちのために頑張ってくれてたんですもの」

 俺の妻は、やはり彼女だけだと実感した。

 

 娘が正月に帰ってきた、おそらくは四年ぶりだ。

 複雑な心境で、俺は娘と再会した。

 喋り方も服装も垢抜けた娘は、いきなり俺に謝ってきた。

 進路のこと、冷たい態度を取っていたこと、全然帰ってこなかったこと。

 おかげで俺も、ようやく謝ることができた。

 寂しい思いをさせてたこと、相談に乗れなかったこと。

 お互いすっきりした後は、他愛のない話ばかりした。

「あ、そうだ。私ね、お父さんに紹介したい人がいるの。明日には来るから」

 和やかな雰囲気に紛れこませるように、娘がとんでもない発言をした。

 

 本当はすぐにでも、その男を追い出すつもりだった。

 難癖をつけて嫌味も言って、二度と我が家の敷居を跨がせないようにする気だった。

 しかし娘が連れてきたのは、揚げ足のとりようがない男だった。

 将来性も社交性も十分で、酒も強い。

 何よりも諦めが悪い、しつこく俺をお義父さんと呼んでくる。

 最後に根負けしたのは、俺だったのだ。


 結婚後、娘夫婦は休みが入る度にやってきた。

 孫はまだか孫はまだか、俺は二人が来るごとにそう言った。

「お父さん、お酌してあげる」

 すると娘ははぐらかすように、毎回その文句を返してくる。

 しかしその日は違った、娘も婿も俯いたままだ。

 俺と妻は万歳三唱をした、娘夫婦の顔は真っ赤だ。

 妻と娘が洗い物をしている時、俺は婿と二人になった。

 俺は人生の先輩として、娘の父親として彼にひとつアドバイスをした。

「子供はな、女の子がいいぞ。可愛くて手放したくなくなるからな」


「おじいちゃん、おさけっておいしいの?」

 俺の膝の上に乗った孫が、そんなことを聞いてきた。

 俺は少し迷ってから、こう言った。

「いや、酒がうまいんじゃない。娘が注いでくれる酒が一番うまいんだ」

 じゃあ二番は?なるほど、母親以上に好奇心旺盛な子に育っている。

「二番は女房が注いでくれる酒さ」

 俺と孫の会話を聞いて、婿と妻が笑った。

 もうすぐ娘が酒を持ってきて、酌をしてくれる。

 その幸せを噛みしめながら、俺はある未来を想像した。

 娘の酌した酒のうまさが、二番目になる日のことを。

「じいちゃん頑張って生きるから、今度はお前がお酌するんだぞ」

 孫の頭を撫でながら、俺は幸せすぎて怖くなった。

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