序
衣川が燃えている。
生い茂る緑も、突き抜けるような空の蒼も、澄んだ河の銀色も、全てが紅蓮に包まれている。
ほんの僅かな時間であったとはいえ、俺を匿い、心の支えとなってくれていた、北の最果て、奥州平泉の地。
「平家の野郎共を追い詰めたのは、南の最果ての壇ノ浦だったか。奴らを追い詰めた張本人のこの俺が、北の最果てで死ぬことになろうとは、何とも皮肉なもんだ――そうは思わねえか。なあ、弁慶よ」
聞こえているか、弁慶?
それとも、もうくたばっちまったか?
大丈夫だ、俺もそう長くここには居られない。
「郷、茜は?」
「御館様――茜は、もう」
郷の腕に抱かれた幼子は、既にぐったりと動かなくなっている。
首筋から溢れる赤い鮮血は、父である俺自身が刻み込んだ刀傷だ。
館に火を放った兄の差し金にこの子を渡してしまったら、生きたまま皮を剥がれるよりも酷い目に遭わされるに違いない――だから俺は迷わず、子殺しの罪を背負った。
そして、ぽろぽろと涙を零しながら、冷たくなった愛娘をぎゅっと抱き締めた母親も、数刻の後には同じ運命を辿ることになる。
――どうして、こうなっちまったんだろう。
俺はただ、兄の悦ぶ顔が見たかった。
やんちゃ盛りだった幼い頃、迷惑ばかり掛けていた兄に、ただ恩返しがしたかった。
だが、全てはもう、後の祭りだ。
『真の兵たるものは、ただ強くあれば良いというものではない。そして、如何なる事もただ義を以って当たれば成就すると考えているだけでは、真の平和は訪れぬ』
いつかの兄の言葉が、ちくちくと心の奥で燻ぶっていた。
今この胸の中に逆巻いている気持ちは、おそらく憎悪と、嫌悪と、復讐心。
なあ、兄上。俺には結局最期まで、あんたの言う“真の平和”が何なのか、分からなかったみたいだぜ。
「郷、今までよく俺を支えてくれた――感謝してるぜ」
「勿体無きお言葉――郷は、来世でも貴方様をお支えすると誓います。黄泉路でお逢いしましょう――義経様」
涙のきらめく妻の顔には、笑顔が浮かんでいた。
その笑顔は美しく儚げで。
けれど、揺るぎない強さを秘めているように思われた。
それでこそ、俺の認めた妻だ。
これ以上長引かせようものなら、手元が狂っちまう。
体の中心が締め付けられるような息苦しさを覚えていた。
冷たく輝く宝刀――薄緑を握り締めた俺は、刃を高く掲げ上げ、ゆっくりと瞳を閉じていた。
「ああ、俺もすぐ逝く。また逢おうぜ、郷」
束の間の暇を言い渡すと、俺は鈍色の刀身を翻していた。