君が消えた春に、ピンク色の雪が舞った
いわゆる春一番ってやつが吹く。
ピンク色の雪がぶわっと舞ってあいつを隠した。俺は目を細める。あいつは笑っている。
「今の風、すごかったな」そう言いかけて息を呑んだ。あいつはいなくなっていた。確かに目の前にいたはずなのに。
あいつがいなくなってから日が暮れるまで俺はその場に立ちすくんでいた。
最初はすぐに戻ってくると思っていたんだ。
でも夜まで待ってもあいつは帰ってこなくて。
そのままあいつの家に行く。親御さんにことの成り行きを説明すると母親が手を口に当てて座り込んでしまった。父親は無言で警察に電話をかけている。
俺の頭にはあのピンク色が舞ったままだった。
次の日いつもの待ち合わせの場所にもあいつは来なかった。電話をかけても出ない。LINEも既読にならない。
そのまま学校に行くと同期が「なんだ、お前ら喧嘩か?」とにやにやしながら近づいてきたけれど、状況を説明したら口をつぐんで俺から離れていった。
あいつがいない左側はひどく冷えてる気がして思わず身震いをする。
初めて触れた日のことを思い出した。あの時のあいつの体温、あたたかかったな。
授業は頭に入らなくて。あのピンク色でいっぱいで。
窓の外を眺めると青い空に飛行機雲が浮かんでいた。白い線はなかなか消えなくて。
雨が降りそうな予感がした。
その日の夜に降り出した雨は朝になってもやむことはなかった。
傘をさして学校へ向かう。
道端にはあのピンク色が落ちている。
あんなに鮮やかにあいつを奪ったそれは茶色くなりかけて静かに佇んでいた。
それを踏みつけてもあいつが戻ってくるはずもない。靴の中に雨が染み込んで重くなるだけだった。
あいつ、前原光希と出会ったのは三年前、高校の入学式だった。
桜の木の下。
白い肌が日に透けて、色素の薄い髪がサラサラと流れていて。
思わず「きれいだ」と呟いてしまった。
光希はそれが聞こえたのか振り返ってこちらを見た。柔らかな表情をしている。
「あ、ごめん、変な意味で言ったわけじゃないんだ。」
「大丈夫、そういうの俺わかるから。」
そう言って光希は笑った。また同じ言葉が口から出そうになって下を向く。
それを見て今度は声をあげて笑われた。
「同じクラスだね、よろしく前田くん。」
「なんで俺の名前‥。」
「俺、前原。入学式隣にいたの気づかなかった?」
「‥ごめん。」
「いいよ、その代わり覚えて?前原光希、光希って呼んでくれると嬉しいな。」
「わかった、よろしく光希。俺の下の名前は‥。」
「知ってる、よろしくね圭。」
俺の名前を呼ぶ声はなぜか懐かしい響きを持っていた。
出席番号順に並べられた机たち。
それぞれの椅子に座った。
「前、見えなかったら遠慮なく言えよ。」
小声で話しかける。中学時代は身長のせいでいつも俺は一番後ろの席だった。
せっかくできた友人にいらない不便をかけたくはない。
「大丈夫、たぶんこの後席替えあると思う。」
「なんでわかるんだよ?」
「なんとなく、かな。あと俺と圭隣同士になると思うよ。」
驚いたことに全ては光希の言った通りになった。担任の声掛けで順番にくじを引く。
俺の番号は7番だった。
結果俺は一番後ろの窓側の席。一列挟んで隣の席には光希が座った。
「ね、言った通りでしょ?」
「なんでわかったんだ?」
「ただの勘だよ。でもよかった、俺、圭と離れたくなかったから。」
「俺も良かったよ。」
そう言ったら光希は首を傾げた。
「俺が言ってることと圭の言ってること、違うと思うよ。」
「それどういう‥。」
「おい、前田、前原いい加減黙っとけー。」
光希の言葉の真意は担任の注意にかき消されてしまった。
昼休み、光希が机をこちらに寄せてくる。
「圭、昼ごはん一緒に食べよ。」
「いいけど俺購買行くぞ。」
「うん、わかってるよ。ついてく。」
購買は思っていたよりも混んでいて、お目当てのパンを手にするまでに時間がかかってしまった。
なんとか手に入れたそれは少し形を変えていた。
「人すごかったね。俺びっくりしちゃった。」
「光希は昼メシ弁当か。」
「そう、母さんが作ってくれた。」
綺麗に巻かれた厚焼き卵、唐揚げにいんげんの胡麻和え。
「お前、愛されてるな。大事に食えよ。」
「そうだね。」
弁当を前に光希が手を合わせる。
俺もつられて手を合わせた。
育ち、いいんだろうな光希の箸の持ち方を見ながらそう思う。
「ねぇ圭、あんまり見られてると食べづらいんだけど?」
「あ、悪い。」
「圭はこれからも購買?」
「うち片親だからな。多分そうだと思う。」
「そうなんだ、唐揚げ一個食べる?」
「悪ぃからいいよ。」
「遠慮しないで、ほら。」
光希が唐揚げを俺の口へ運ぶ。
思わず口に入れてしまった。口の中に、にんにくと生姜の香りがふんわりとただよう。
「うま‥。」
「そうでしょ?母さんの唐揚げ、絶品なんだ。」
軽やかに笑う光希。なぜか心拍数が上がる。
「というかさ。」
「なに?」
「お前距離近くない?」
「嫌だった?」
「嫌じゃねぇけど‥恥ずい。」
「圭は素直だね。そういうところ好きだよ。」
好き。それは友人としてなんだろうけれど妙に耳に残った。
俺たち今日初めて出会ったんだぞ。そう自分に突っ込みながら自分のパンをかじった。
光希は不思議なやつだった。
例えば俺が教科書を忘れた時何も言わなくても机を寄せてきたり、鮮やかな青い空を見上げながら「この後雨振るよ」と言ってみたり。
実際に雨は降ってきて俺たちは土砂降りの中走る羽目になった。
途中の高架の下で雨宿りをしていると光希が体を寄せてきた。
「圭、だいぶ濡れちゃったね。」
「お前もだろ。」
体に張り付いた制服を剥がしながら答える。
思っていたよりも近い光希の顔に呼吸が荒くなった。
こんな気持ち知らない。いや、知ってるけれど光希に抱いていいものじゃない。
「待った、光希、お前距離近い。ちょっと離れて。」
そう言うと光希は珍しく動揺したそぶりを見せた。
「‥ここじゃなかった‥?」
「何がだよ。」
「俺、圭から見て魅力ない?」
「魅力ってお前‥。」
「ごめん、‥離れる。」
光希と出会ってから初めて空気が軋んだ気がした。
小雨になった頃、光希はそのまま高架から出て行った。
次の日から光希との距離が変わった気がした。
露骨にではないけれど、わずかなズレを感じる。
ズレは確かな違和感に変わって行った。
いつもの帰り道、意を決して俺は口を開いた。
人通りのない交差点は夕日に照らされていた。
「光希。」
「圭、どうしたの?」
「お前、なんか黙ってることない?この前の土砂降りの日からなんか感じが変わったって言うか‥。」
「圭はさ。」
光希が俺の袖を引っ張る。振り返ると泣きそうな光希と視線が合った。泣きそうな目をしている。
「圭は、俺とキスできる?」
「は?」
真剣な声と視線。逸らすことはできなかった。
「‥俺たち男同士だぞ。」
「わかってるよ‥でも、本当はあの日に‥。」
光希が口をつぐむ。目から透明な涙が溢れた。
綺麗だ、と思った。
そうだ、光希はいつでも綺麗だった。
一歩前に出た。
光希の顎に手をかける。
息が止まる。心臓の音がうるさい。
それでも。
そのまま唇を重ね合わせた。海の味がした。
そっと離れると光希は目を伏せて涙を流していた。
「よかった、変わってなかった。俺、不安で"違ってたらどうしよう"って思ってて‥。」
「よくわかんねーけど、‥キス、できたな。」
光希が俺の方を見て。静かに笑った。
「うん、そうだね‥圭は俺のこと好き?」
「‥好きだよ。」
「俺の好きと、圭の好き、同じ意味だと思う?」
食い下がる光希の唇にもう一度体温を落とす。
光希が息を呑んだのがわかった。
「一緒だと思う、多分だけどな。」
なぜか脳裏にはピンク色の雪が舞っていた。
季節が巡って制服のブレザーに手を通す頃には一緒にいるのが当たり前になっていた。
ふとした時のキスも。
光希に触れる熱い体温も全てが俺たちの日常だった。
ただ、初めて光希に触れた日。光希が「ここでだっけ‥。」と不思議そうに言った言葉が胸に引っかかった。それでも俺たちは互いの熱を確かめ合うことに夢中になっていた。まるでひっかかりを取り払うかのように。
「光希は進路どうするつもり?」
「俺は圭と同じところ行くよ。」
「そんな当たり前みたいに言うなよ。」
「だって圭と離れたくないから。」
離れたくない、嬉しい言葉なのに心がざわついた。俺だって光希と離れるのは嫌だ。
「じゃあお互い勉強頑張らねーとだな。」
「だね。」
光希も俺も部活に入っていなかったから放課後はお互いの家で勉強するのが自然になった。
肩がつくか付かないかの距離、時々重なる唇、優しく触れ合う体温。光希が愛おしくて、しょうがなくて。それが俺の全てになっていた。
光希と出会ってから三度目の春が来た。
合格者の張り出しがされる。俺たちは同じ未来を勝ち取ることができた。
すぐにでも光希を抱き寄せたかったけれど、代わりに握手をした。
光希の手はなぜか震えていた。
桜の蕾が色を帯びてきていた。
光希がいなくなって、ピンク色が鮮やかな緑色になる頃。あいつの話題はほとんど出なくなった。まるで元からいなかったかのように。
俺だけがあの日に取り残されている気がする。
光希を求めていろんな場所に行った。
初めて出会った桜の木の下。先生に頼み込んで入れてもらった教室。
土砂降りの日の高架の下。それから、初めてキスをした交差点。
だけど光希はどこにもいなくて。
それを認めるのが怖くてあの日の公園にだけは行けないでいた。足が鉛のように重たくなるから。光希はもう戻ってこない、本当にそうなってしまいそうだったから。
光希がいなくても季節は巡った。
青空の夏、赤く色づいた秋、透明な空気の冬。
そして、もうすぐ、あの花の蕾が綻ぶ季節が来る。
頭にピンク色の雪が舞う。
あの日を取り戻したくてついに俺は歩き出した。
導かれるように俺は歩き続ける。
まるで光希に呼ばれている気がした。
公園についた。人の声は聞こえない。
やっぱり光希はいない。
絶望に似た感情が俺に降りかかる。
もうあの体温に触れることはできないんだ。
光希に会いたい。
「‥どこ行っちゃったんだよ。」
あの日と同じようにピンク色の雪が舞う。
強い風が吹いて思わず目をつぶった。
目を開けて息を呑んだ。全身が震える。
光希が立っていた。あの日と同じ笑顔で。
「圭、ただいま。」
声を聞いて確信する。目の前にいるのは確かに光希だ。
それと同時に涙が出てくる。あの日に置いてきたはずなのに。
「み、つき‥なんで‥。」
光希が困ったような表情を浮かべて俺に近づいた。ハンカチを取り出してそのまま俺の目元に当てる。
光希の香りがふんわり香った。やっと取り戻した。そう思ったら涙がさらに溢れてきた。
「圭、泣かないで。ごめん、心配かけて。」
「ごめん、じゃねーよ。おれが、どれだけ‥。」
「うん、届いてた。圭の苦しい気持ちも涙も、俺を思ってくれる心も。」
「じゃあ、なんで‥。」
滲んだ視界の向こうで困ったように笑う光希。
ーーきれいだ。
そんな場違いな思いが脳裏をかすめる。
光希の腕を握る。もうどこにも行かせない。
ピンク色の雪はやんでいた。
俺が落ち着いた後、コーヒーを買ってベンチに座った。
光希の視線は手元のカップに向けられている。
俺が口を開こうとした時、光希がポツリと喋り出した。
「俺じゃなかったら圭が攫われてた。」
「は?それどういう‥。」
「多分圭だったら戻ってこれなかったと思う。だから俺が行った。」
「意味わかんねえよ、ちゃんと説明しろよ!」
思わず声を荒げる。手元のコーヒーが揺れる。
一瞬の沈黙。
「時間が、歪んだんだ。圭、俺のこと思い出してくれてたでしょ。あの時、俺もそこにいたんだ。俺は圭の思い出の中にいた。」
「そんなこと‥。」
「あったんだよ、俺も信じられなかったけれど。正直さ、もう一度あの日々をやり直せるならそのままでもいいかって思った時もあった。すごく幸せだったし。‥でも圭、泣いてたから。」
そう言って光希は笑う。
「じゃあなんで今まで帰ってこなかったんだよ。」
「ここじゃないと戻ってこれなかった。」
光希が俺の目を見る。澄んでいて今度は俺が吸い込まれてしまいそうだった。
「俺だけじゃどうしようもできなかった。でも圭、俺のこと呼んでくれたでしょ。会いたいって声も聞こえた。そしたら戻ってこれた。」
「よくわかんねーよ。でも。」
また声が滲みそうになるのを堪える。
光希の手を握る。俺の体温を移すように。
そのまま引き寄せた。
あぁ、光希だ。本当に帰ってきた。
「圭、苦しい。」
「もうどこにも行かないって言え。じゃなきゃ離さない。」
くすくすと光希が笑う。
「じゃあ言わない。‥俺だって圭と離れたくないもん。」
「ばーか。心配させやがって。」
光希の額に俺の額をコツンと当てる。
今、キスをするのは違うと思った。
それはこれからたくさんできるから。
キスよりも何よりも愛おしくて大切な体温を感じていたかった。
「おかえり、光希。」
光希を抱く腕に力が入る。確かめるように、今度は離さないように。
「うん。ただいま。」
「心配した。」
「うん。」
「気が狂うかと思った。」
「うん。‥ごめん。」
「もうどこにも行くな。」
光希が俺の服をギュッと握る。
「うん、もう圭の側から離れないよ。」
強い風が吹いた。ピンク色の雪が舞う。
でも額に感じる体温はもうどこへも行かなかった。




