第9話 宝物庫の記録が噛み合わない
宝物庫の前に立った瞬間、棚札の位置がおかしいことに気づいた。
第7棚と第12棚の磨耗度が逆だ。
馬車の中で気づいた42冊目の違和感から、ここまでの半日は緊張の連続だった。王都の門で同行責任札を押されて、重い意識のまま監査室へ呼ばれて、マティアスの目で照合灯の使い方まで確認された。全ては公的な手順だった。
けれど棚札は、手順では説明できない。
「まず棚番号の確認をします」
私は声を低く保ったまま、門番に向き直った。
「第7棚と第12棚の使用頻度が記録と逆になっているようですが」
門番は眉をしかめた。むしろ眉をしかめるべき側は、彼ではなく私だったはずだ。置き忘れられた側、後任に任された側、王宮に立ち入ることさえ許可形式で確認された側。なのに――
「前任者の管理ですから、詳しくは――」
「いいえ。私が昨年新しくした札の配置です」
喉が少し乾いた。
昨年の秋。前任でなくなる直前に、第7棚と第12棚を新しい位置へ入れ替えた。同じサイズの二棚を年1度のメンテナンスで磨き直すため、新しい札は表面が白く、その配置を逆にするだけで管理の半減を見通していた。
今その札が、古い方が第7棚に当たっていた。新しい札が第12棚に。
つまり、この半年で、棚の位置が戻された。
後任の3人が。あるいは他の誰かが。
「宝物庫内部への立ち入りを許可していただきたいのですが」
マティアスが背後から1歩前へ出た。
「照合をお願いします」
鍵が開く音。冷たい石床の底冷えがまた足首に纏わりついた。
中へ入った瞬間、棚を数える指が止まった。
異常は棚札だけではなかった。
「現在記録帳の第7棚の13番。銀製の燭台、王紋入り、5個1組。所在、第12棚」
私が呼び出すと、ノエルが走り書きをした。
「旧記録帳ではどこですか」
「第7棚の別の頁に、3個1組で第7棚に所在と記されています」
「謝罪品帳では」
「――の所在が、神殿への寄贈品として第12棚に」
同じ品が、3冊の帳簿で3つの所在を持っていた。
完全に異なる場所に。まるで意図して、誰かが記録を噛み合わせなかったように。
「これは」
マティアスが背後から身を乗り出した。
「帳簿ミスでは説明がつきません」
私は答える代わりに、別の棚へ目を走らせた。
数えろ。読め。見つけろ。
それは職能であり、もう半年前から手放していたはずの行動だった。なのに、立ち入りを許された瞬間に、その感覚が爪の先から戻ってきた。
痛いほど的確に。
「第31冊。謝罪品ながら返却不可と記された品目の欄に、同じ品が3度出ます。1度は引き渡し済み。1度は返却待ち。1度は所在不明。同じ識別番号で」
呼吸が浅くなった。
これは混乱ではない。これは、混乱に見せかけるために、誰かが細かく、慎重に、入れ替えたものだ。
「ノエル。42冊」
補助室に戻ったのは、その場では言葉にならないものがあったからだ。
並んだ冊を見たノエルが、ゆっくりと付箋に指を走らせた。
「あの、第42冊の予備鍵欄だけ、ページの癖が違うようです」
私は頭の上を通り過ぎる彼の言葉を、半ば受け取りながら、自分の手で確かめた。
栞がある。後付けの栞が。
誰も、この冊を開かなかったはずだ。引き継ぎでも触れられず、王宮の誰も読まず、そのまま積まれたままだったはず。
なのに今、新しい栞が入っている。
「第42冊。予備鍵管理。この栞の――」
薄墨で誰かが名前を書きかけている。けれど書き終わらず、引き返した痕跡がある。
「何をしているのか、わかるか」
言葉が勝手に出た。
ノエルが顔を上げて、小声でつぶやいた。
「閉じたままなの。読まなかったのに。誰かが、今さら開いて、それで――」
その通りだ。
本当に読まれていなかったから、その後の出来事は記録されなかった。記録されなかったから、後から誰かが、その空白に、自分に都合のいい痕跡だけを足すことができた。
「記録します」
その言葉は、もう6ヶ月前の私を思い出させた。
泣く前に、やることがある。そう言って、48冊を置いていった時の自分。
けれどいま、その記録の空白から見えるのは、単なる無能ではなく、もっと意図的な何かだった。
「宰相のお手すきの時間はおありでしょうか」
マティアスに告げると、彼は少し目を細めた。その直後に、理屈の側へ切り替わった表情だ。
宰相執務室へ戻った時には、既に日は落ちていた。
「無能で済むなら、私も楽でした」
ベルナールは我々の報告の途中で、そう呟いた。
損害額の計算を終わらせ、議事控の端で数字を見つめながら。
オリヴィエが私の背に1度だけ呼吸を寄せた。公の場では許されない距離で、けれど誰にも見えない角度で。
「問題は混乱ではないということか」
「はい。混乱に見せるための操作です」
私の言葉に、ベルナールは少し溜め息をのんだ。
「敵が外ではなく、内にいるのか」
それは、誰も言い切らなかった。
ただ、宰相の指先が薄紙を2度叩いた。その沈黙が全てを言っていた。
宝物庫外の回廊に出た時、既にオリヴィエは夕方の石畳を見ていた。
一言も声をかけずに、私が来たことを知っていた。
「台帳だけでしたら」
言いかけた私の言葉を、彼は指先で1度だけ押さえた。
「渡さない」
声ではなく、それに近い音。
「49冊目ではなく、その側に立つお前を奪わせない」
触れない距離で、けれど全てを守るようにして。
その姿勢が、私を壊すよりも多く、復活させるのだと、その時初めて気づいた。
王都に戻ってから、私は何度も「必要とされている」ことの痛みを感じていた。
有能さは、やはり最後には、仕事の外へ出してくれない。
けれど彼が立っている場所は、その仕事の側ではなく、その仕事の向こう側だった。
記録されない彼の選択が、記録される私の全てを守っていた。
翌朝、命令書の照合が、全てを変えた。
照合灯の下で浮かぶ、2重に輝く封蝋。
再熱の痕跡。
正式命令だと言われた書簡が、正式前に、誰かにすでに読まれていたのだ。




