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「連載版」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第3章 49冊目の返還命令

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第8話 閉じたままにしたのは誰

  王都へ戻るのなら、行くと決めるしかなかった。


  辺境伯家の執務室で、マティアスは机の上に3枚の書類を並べた。出頭命令状、同行責任札、帰還期限書。どれも濃紺の封蝋で閉じられ、王璽の銀粉が未だ湿り気を持っていた。


「出頭日は10日後。同行責任者の記名が必須です」


 マティアスの声は変わらず平坦だった。王宮監査室の臨時監査官という肩書きの男は、初めて会ったときと同じ距離を保ったままリゼットを見ていた。悪意のない、完全に公的な圧。


「身分確認のため、出頭者の護衛者は誰が担当いたしますか」


 その質問に、オリヴィエが返事をする代わりに、机の上に羽ペンを置いた。黒いインク。公的書類用。


「わたしが同行します」


 声は低く、切った。返事をするというより、判定を下しているようだった。マティアスは眉をひとつ動かさず、責任札をオリヴィエの前へ滑らせた。


「ご芳名をいただきます」


 リゼットは机に向かうオリヴィエの手を見た。左手が羽ペンを持ち、右手で責任札を軽く押さえている。その手が、いつもより静かに、しかし迷わず動いた。


 欄に自分の名前を書く。オリヴィエ・モンフォール。辺境伯。


 その下に、続く欄があった。


 リゼットは息を呑んだ。


  書かれるべき欄は、もう1つあったはずだ。それは「同行責任対象」。つまり、彼女の名前が入る欄。


 だが、オリヴィエはそこに何も書かなかった。代わりに、右隣の欄に、小さく文字を足した。


「申請責任者」


 その字を見たマティアスは、一瞬だけ、机の上の書類を見直した。その仕草はほんの一瞬だったが、見守っていたオリヴィエには充分だった。


「——名義が曖昧では、門衛記録が立ちません」


 マティアスは静かに言った。


「わかっております。この身は監査対象保護の名義で、同行いたします。記録上は保護対象ですが、実権は申請責任者ですから、門衛への報告は『監査対象者の自発的出頭』としていただきたい」


 オリヴィエの台詞は、官僚のそれだった。私情は一切含まない。だが、その「自発的」という言葉に、リゼットは何かが引っかかるのを感じた。


  自分で行く。そう決めたはずだった。だが、この男の書類の書き方を見ていると、自分で行くことすら、彼が準備した型の中に先に入っているのではないかという気がしてしまう。


  マティアスは書類を横へずらした。刻印台。銀色に輝く、王宮監査室の紋刻。


「では、確認をいたします」


  オリヴィエは羽ペンを置き、左手を右手に重ねた。そして静かに刻印台へ親指を置いた。古い傷が幾つも走る、働いた手。皮が少し厚く、爪の周りが日焼けしている辺境伯の手。


  刻印が押された。銀粉が爪を汚した。


 マティアスはその書類を確認し、次の責任札へと移った。出頭命令状。これは、直接リゼットへ向かう。


「貴女は、王都監査室からの出頭命令に同意されますか」


 その質問の仕方が、選択肢があるように聞こえたのは、おそらく意図的だったと思う。だが実際には、逆らう権利などない。王宮監査室からの命令は、下級貴族の立場では、願いと変わらない。


 リゼットは、「同意いたします」と答えた。


 その言葉の直後、彼女の手が机の上でほんの少し揺れた。マティアスはそれを見逃さなかった。


「恐怖心ですか。それとも、別の理由ですか」


 その質問に、オリヴィエは間髪入れず答えた。


「制度上の不安です。未婚女性の王都出頭は、護衛が必須な案件。にも関わらず、帰還期限内での帰路保障がない。これは行政の瑕疵ではないですか」


 その質問は、鋭かった。


 マティアスはペンを置き、机に向かい直った。その表情は変わらなかったが、返答を選び直しているのが伝わった。


「帰路保障は出頭完了時点で成立します。調査に時間を要する場合は」


「その間の護衛責任はどなたが」


「同行責任者です」


「つまり、わたしですね」


「はい。その通りです」


 オリヴィエはその返答に満足したのか、身を引いた。その一連の応答は、権力ではなく、記録に基づいた論理だった。王宮監査室の臨時監査官が、それに応じることしかできないほどに、その論理は正確だった。


 マティアスは出頭命令状をリゼットの前へ置いた。


「では、10日後の明け方。王都の荷役門へお越しください。資料は全てお手元にお持ちください。特に宝物庫関連の記録、非開封台帳、出納差分の書類が必要です」


 リゼットは頷いた。その頷きが、選択ではなく、もう逃げられない道へ足を踏み入れたことを意味しているのは、彼女自身が1番よくわかっていた。


 


 王都へ向かう馬車の中。


 窓の外は雨だった。馬車の揺れに合わせて、付箋のついた資料が膝の上で揺らいだ。リゼットの前にはノエルが座り、開いたままの台帳を見つめていた。


 ノエルは、この1週間でずいぶん変わった。辺境伯家に来たとき、彼女は物静かな見習いに過ぎなかった。だが今、彼女は台帳の頁をめくる手つきが、もう管理官のそれになっていた。


「——第31冊。これ、開いた形跡がない」


 ノエルが指差した頁は、その端が固く、折れていなかった。他の冊はどれも、管理官が何度も開いては閉じ、手垢が付き、頁の角が丸くなっていたのに。


「第42冊も」


  別の台帳を開く。ここでも、翻り癖がない。小塵が積もっているというより、積もったままの埃の向きが古い。その埃の筋が、長い時間、そのページが開かれていないことを示していた。


「ノエル。その2冊は?」


  リゼットが問うと、ノエルは眉を寄せた。


「第31冊は外交部関連の謝罪品。第42冊は予備鍵の記録」


 リゼットの手が止まった。


 謝罪品は、外部からの不手際に対して王宮が用意するもの。それはつまり、対外的な事件があったということ。そして予備鍵は、宝物庫の重要な備品。もし不一致があれば、盗難や紛失が疑われる案件だった。


 にも関わらず、その2冊だけが、開かれていない。


 リゼットは馬車の揺れの中で、その意味を反芻した。無能なら、全部が開かれていない。だが、わざわざ2冊だけ、それも重要なものだけを開かないのは。


 その判断を下した者が、知っていた。


  何を避けるべきか、知っていたということだ。


 オリヴィエは、リゼットの顔の変化に気づいたはずだった。だが、彼は何も言わず、ただその台帳の頁を自分でも見直し、その翻り癖の違いを確認していた。


 


 王都の荷役門は、思ったより圧が強かった。


  朝の光が石畳に差し込む中、門衛は出頭命令状を受け取ると、すぐに確認を始めた。王璽、日付、記名。すべて整っている。そして、同行責任札。そこに刻まれた銀粉。


 門衛は同行責任札をオリヴィエに返した。その動作は敬礼に近かった。辺境伯家の紋が刻まれた札であること、そして何より、オリヴィエの存在そのものが、警戒心をすぐに収めたのだろう。


 だが、その次の瞬間、門衛はリゼットへ目を向けた。


「出頭者は?」


 その質問に、オリヴィエが答えた。


「こちらです」


  門衛は記録簿を開き、出頭者の名を記入した。その筆の進みは早い。だが、次の瞬間、その筆が止まった。


「1人での行動が制限されます。王都内での移動は、同行責任者の同伴が必須です」


 その判定は、予告なく下された。


 リゼットは返事をしようとして、その言葉が喉で止まった。生理的なものだった。喉が乾いて、声が出ないのだ。返事をしなければいけないのに、その前に身体が反応していた。


 その無音が、オリヴィエには届いたらしい。彼は門衛に1度頷くと、リゼットの肩に軽く手を置いた。その手の温度が、氷のように冷えた王都の朝を、少しだけ溶かした。


 


  監査室の前の廊下は、意外と静かだった。


 待機椅子に腰を下ろしたとき、リゼットは自分の手がまだ震えていることに気づいた。責任札の刻印台で、オリヴィエの爪に付いた銀粉のことを思い出した。あの手が、この男の責任を示していた。


 ノエルが、積まれた台帳に膝を寄せた。第31冊。第42冊。その2冊に、さらに近づいて、頁の端を見ている。


「ノエル」


「はい」


「その2冊、確認を」


 リゼットが指示すると、ノエルは台帳を丁寧に開いた。その動作は、もう迷いがなかった。管理官になるのに、そこまで時間は要らないものなのだ。


 そして、ノエルは目を細めた。


「第31冊。頁の翻りが、装丁の糊が剥がれたような——」


 その瞬間、リゼットは理解した。


  開かれていないのではなく、開かされたのだ。だが、その開かれ方が、「読むため」ではなく「確認するため」に見えるほど雑だった。その頁の返し方が、本来の管理法ではなく、何かを探すようだった。


「42冊も同じです。最後の5頁だけ、切られていない。他の全頁は、くしゃくしゃに丸められた足跡が。乾いて、もう取り返しのつかないほどに」


 ノエルが呟いた。


 それは、偶然ではない。その圧の方向が、意図を指していた。


  誰かが、41冊の最後の記録と、42冊の前の部分だけを、必要としていた。そしてそれ以外の、リゼットが書いた記録の大半は、触れられることなく放置されていた。


 リゼットは、廊下の中で息を吸い込んだ。痛みが、不安ではなく、覚悟に変わりかけていた。


「戻るのは従うためではありません。閉じたままにした人間の顔を見るためです」


  その言葉は、自分で言ったのだと気づくのに、少し時間がかかった。


 オリヴィエが、彼女の手を、机の上からではなく、椅子の上から取った。その手の握り方は、守る姿ではなく、並ぶ姿だった。


「責任者欄にあなたの名前があるのが、いちばん息苦しくて、いちばん安心します」


 廊下の中で、その言葉がすべてだった。王都という、記録の満ち満ちた都市の中で、その言葉だけが、彼女に主体をくれた。


  呼び出しはまだ来ていない。だが、廊下の向こうから、足音が近づいている。それはマティアスか、別の監査官か、王宮側の誰かか。リゼットはわからなかった。


 だが、わかっていることがある。


  48冊を閉じたままにしたのは、無能ではない。それは、選択だった。そしてその選択をした者は、今この建物のどこかにいる。


 その顔を見るまで、彼女は前へ進むしかない。

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