表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第2章 1冊ぶんの居場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

第6話 監査官は何を確かめに来た

 朝食室の銀の匙が7本になっていた。


  昨日と同じ朝日が窓から斜めに入り、配膳表も変わらない。壁の掛け時計は8時を示す1分前。なのに、この3日間で、私の椅子の前だけ、明確に1本増えている。その増加を数える気持ちは、喜びと同時に恐怖だった。


「客人の席は空けておけます。家の席は、空けておけません」


  1週間前、エレノアが言った言葉を思い出す。その1本の匙が、何を意味するのか。どれほどの重みを持つのか。


  今朝から、私の前に置かれた白陶器の匙は、客用ではなく家用になった。厚さが違う。銀の濃さが違う。取っ手の巻き方が、幾度となく洗われた形をしている。これは、この屋敷の家族たちが毎日使う匙だ。


  もう客人ではない。


  そう思いたかったのに、その匙を取り上げるのに躊躇した。指先が、微かに震えている。なぜだろう。こんなにも、席が増えることが怖いのはなぜだろう。


  なぜなら、この1本の増加は、歓迎ではなく、試験の最終段階だったから。最後の試験に合格したら、次は何が待っているのか。その先のことが、見えないから。


  3日前の夕刻。仕事部屋でオリヴィエに褒められた直後、エレノアは廊下で、静かに、けれど揺るがない声で言った。


「ご承知いただきたいのですが。あなたが家の人間として留まるおつもりなら、その席も家のものになります。いかがですか」


  留まるか。去るか。


  実務で答えるしかない私は、その晩、返事をした。


「いたします」


  その時、私は何を約束したのか、まだ理解していなかった。自分の言葉の重さを測り間違えていたのだ。そして、その約束の意味が、今朝ほど重くなることなど、想像だにしていなかった。


  朝食を終えたのは8時の1分前。白陶器の匙を、私は握ったまま、返し忘れていた。その手が、白い皿を傷つけないよう、そっと下ろす。


  オリヴィエが執務室から出てきた。左手で台帳を持っている。右手に鉛筆が握られたまま。つまり、彼は朝食の前から、何かを見ていた。それは昨日のやり取りについてだろう。私の仕事ぶりについてだろう。その確認を、彼は朝の光の中で続けていたのだ。


「今日の点検は」


  彼が聞く。いつもの、仕事の質問だ。その声は、いつもより少し低い。


「昨日の配分がすべて稼働しています。冬への配置は、予定通り進行しております」


  説明しかけた時、中庭から外からの声がした。玄関を叩く音。その音は、単なる朝の連絡ではない。格式を持った到着の鳴らし方だ。門番の応答も、いつもより短い。簡潔だ。


  心臓が、一瞬だけ強く打った。


  そして、その直後、声が、中庭全体に通った。


「王宮監査官マティアスです。49冊目の所在確認に参りました」


  澄んだ、冷たい声。若い声の中に、制度の冷たさが混ざっている。その瞬間、白い陶器の匙は別の意味を持ち始めていた。


  家の人間になるための匙ではなく、家の人間であるからこそ巻き込まれる公的な圧迫の象徴へと、一瞬で変わったのだ。


  玄関へ出ると、オリヴィエは門の前に立っていた。背を立てている。左手で紙を持つ。赤い封蝋で厳重に閉じられた公文書だ。濃紺の色。王璽に寄り添う色。


  その封蝋の縁が、わずかにずれている。2重輪が、微妙に見える。


  誰かが先に開いたことの痕跡。王宮の内部で、すでに誰かが、その命令書を見ているのだ。


  門の外には、黒い馬装の男が立っていた。灰髪。顔立ちが、知識と規則の正確さを備えている。それが、マティアスだ。監査官マティアス。


「本日中に、49冊目の所在証明と返納スケジュール申告を求む」


  マティアスが読む。淡々とした声。オリヴィエが受け取った。その手が、わずかに震えている。左手で紙の端を押さえる癖。それが見える。見えることが、怖い。


  彼の動揺が、見えるということは、私たちがもう、完全には隠れられないということだ。


「49冊目については、既に返納命令に従い――」


  オリヴィエが応じようとした瞬間、マティアスが手を上げた。その仕草さえ、制度的だ。


「返納命令は承知しています。ですが。返納時点での物質状態確認に疑義が出ておりまして」


  疑義。


  その一言で、私の呼吸が止まった。肺が、空になった。


「返納者の署名欄で確認された筆跡が、複数あることが判明いたしました。つまり」


  マティアスの言葉が、続く。


「返納された49冊目の内容が、改竄されている可能性があります。内容確認が必須となりました」


  マティアスが目を上げた。その視線が、オリヴィエの肩の向こう、廊下の奥、朝食室から出てきた私の顔を探す。その視線に、私は捉まった。


  改竄。


  その言葉で、すべてを理解した。


  49冊目は、もう恋の台帳ではない。制度の証拠帳へ化けたのだ。


  私が書いた所感も、オリヴィエが読んだ記録も、王宮の軽視も、すべてが法的な証拠へ転化されている。返納した時点で、その内容は王宮の物になった。そして、その内容が改竄されたと疑われた今、それは、彼をも巻き込む公的事件になった。


  この家で得かけていた席も、その瞬間に消えるのだ。


  オリヴィエの背中が、私に向かってではなく、マティアスに向かって、しかし実は制度全体に向かって、立ち上がった。


「わかりました。内容確認のご条件をお聞かせください」


  彼の返答が、受け入れだ。その背中が、もう私を庇うものではなく、制度に対峙する相手役へ変わった瞬間だった。


  朝食室に戻った時、銀の匙は、もう白い皿の上に置かれていなかった。エレノアが、すべて取り下げていた。7本全部。


  その仕草が、素早かった。どれだけ急いでいたのか、その指先の速度が物語っていた。予測していたのだ。王宮の手が来ることを。


「客人の席は、やはり必要のようです」


  その言葉は、酷く静かだった。受け入れと同時に、警告。そして、深い覚悟。その中に、1つだけの約束が混ざっていた。


  ――この家は、あなたを守ろうとした。だが、王宮も同じくらい強い。


  その約束が、どこまで果たせるのか。その限界が、どこにあるのか。重さの限度は、どこか。守れる範囲は、どこか。


  確かめるだけの時間は、もう残されていない。


  この朝は、終わり、次の苦難だけが始まるのだ。


  その瞬間は、もう来ている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ