第4話 王宮の48冊、辺境の1冊
「備品は123点しかありません」
門をくぐる前に、オリヴィエはそう言った。王宮の23,612点を48冊で回していた身には、あまりに軽い数字だった。軽くて、少しだけ泣きたくなるくらいだった。これなら静かに働ける。これなら、役に立つだけで済む。そう思ったのに、馬車を降りた瞬間、私はすぐに数え直すことになった。
門番が2人。荷を運ぶ下働きが3人。侍女が1人。私の鞄は1つ。台帳は1冊。視線は、7つ。
いちばん冷たかったのは、出迎えに立っていた女の人の視線ではなく、その背後に見えた食堂の窓だった。長い卓の上に、銀の匙が6本。椅子も6脚。辺境伯家の人数に不足はないのだろう。ただ、そこに「あと1人」の席は、最初から数えられていなかった。
「客間は東棟へ。仕事部屋はその隣にご用意しております」
黒に近い衣をきっちり着こなした侍女頭――エレノアと名乗ったその人は、柔らかい声でそう言った。歓迎の言葉はない。けれど拒絶もない。鍵束の鳴る音だけが、妙に正確だった。
「仕事部屋、ですか」
「旦那様がそうお決めになりました。帳面を触られるのでしょう?」
それは親切に聞こえた。少なくとも、王宮で「誰にでもできる」と切られた直後の耳には、十分すぎるほど。なのに、胸の奥のどこかが少しだけ冷えた。客間の隣に仕事部屋。生活より先に、役割が置かれている。
案内された備品室で、1冊の台帳を開いた。薄い。軽い。頁数も少ない。けれど3頁めを見たところで、私は息を止めた。点数は合っている。壊れ物も少ない。なのに、冬物の所在が妙に散っていた。暖炉道具、毛織物、手燭、油壺。数はあるのに、越冬の順番だけが死んでいる。
この領地は、少ないから楽なのではない。少ないから、1つの間違いがそのまま冬になるのだ。
夜明け前の備品室は、吐く息が白い。王宮の石床の冷たさとは違う、暮らしの近くにある寒さだ。私は昨夜のうちに書き直した一覧を見ながら、毛織物の箱を1つ、灯油壺を2つ、厩舎用の革覆いを3つ、頭の中で並べ替えていた。数は足りる。けれど置く順番と渡す順番が悪い。台帳に書いてあるだけでは、人は朝を越せない。
「り、リゼット様!」
背後で、何かがぶつかる音がした。振り向くと、ノエルという若い文官が、紙束と付箋を胸に抱えたまま立っていた。細い体に対して荷が多い。呼吸より先に目が泳いでいる。
「第17冊、142頁……ではなく、1冊でした。失礼しました。癖で」
そう返すと、彼は1瞬だけ呆けた顔をして、それから赤くなった。張りつめた場には不似合いな反応だったが、その不似合いさが少しだけ救いになった。王宮では、誰もこんな顔をしなかった。間違えれば黙って遠ざかるだけで、慌てて訂正してくれる人はいなかったからだ。
「冬用毛布、北倉庫に7。客間に2。使用人棟に1。帳面ではそうです。でも、客間の2が昨日の客用のままで、使用人棟の1は補修待ちです」
「つまり今夜すぐ使えるのは7」
「はい。厩舎は革覆いが1つ足りません。あと、手燭の油壺が、台所に寄りすぎていて」
「わかりました。順番を変えましょう」
自分で言った声が、少しだけ弾んでいるのがわかった。嬉しいのだと思う。困りごとが見つかったからではない。見つけた困りごとを、今度は誰かと1緒に読めるからだ。
私は1覧の端を指で押さえ、ノエルへ向き直った。
「まず、客間の2を使用人棟へ。革覆いは祭礼用の馬具棚から仮移動。油は台所第3棚ではなく、回廊手前へ。台帳には冬季のみと朱で入れます」
「はい!」
返事だけは大きい。けれど、その大きさが悪くなかった。読める人が1人増えるだけで、冬は少し短くなる。そんな都合のいいことを、私はまだ信じきれない。それでも、この朝だけは、そう思ってみたかった。
中庭は少し霜が残っていた。屋敷の使用人たちが、荷運びの最中だった。毛織物の箱が廊下から厩舎へ。手燭の油壺が厚い布に包まれたまま回廊の手前へ。実務の速度が視界に入ると、自分の指示の正確さだけが確かになった。間違えていなかった。ここなら、働ける。
オリヴィエが中庭の端で、立ち止まっている一群を静かに見ていた。
「無駄がない」
低い声で言う。後ろから近づく私を見ずに。
「動きがもう正確だ」
褒められるたびに、喜びと怖さが混ざる。役に立つのは、安心する。安心するだけなら、もっと楽だったのに。
日中の仕事部屋で、ノエルと付箋の動線を作っていた。色分けされた付箋。冬用、応急、点検予定。私が示し、彼が置く。段々と、単純な台帳が指で追える地図に変わっていく。
「読める人が1人増えたら、冬は本当に短くなりますか」
ノエルが聞く。意識せず言った言葉が、1つの質問に化けていた。
「はい。1人が2人になれば、1人が読むのにかかる時間は、半分に近くなります」
「じゃあ、僕が習い始めたら、もう少し楽になるんですか」
その時、私は理解した。彼は負担を怖がっているのではなく、ここに留まりたいのだ。学び続けられる場所に。
夕刻、オリヴィエと2人きりになった。仮仕事部屋は、窓が西に向いていた。狭い机、書類、そして彼の手が、いつも紙の端を親指で押さえていた。
「今日の分、記録します」
そう言いかけて、私は一度、息を止めた。記録には書けないものが、たくさん胸の中に溜まっていた。
「足りなかったのは、備品の点数ではなく、渡す順番です。冬を越すための動線が、台帳に書きながら初めて見えました」
「お前ならそう読む」
「……」
「役に立てるのは、安心します。安心するだけなら、もっと楽だったのに」
彼の声が静かになった。「嘘だな」と、言いかける口元を自分で押さえている。
「そうですね。安心するだけなら」
私は口を開いた。後悔しながら。
「……嬉しい、は分類不能です」
夕光の中で、彼の左手が1瞬だけ止まった。動く理由が、もう紙ではなくなった瞬間。
「助かった。今日も」
それが、彼が言ったすべてだった。でも、その言葉の重さだけは、正確に数えられた。役に立つ喜び。選ばれるはずのない喜び。その2つが同じ言葉に入っていて、どちらが本当かは判定不能なままだった。
いつか、その分類ができるまで、私はここで働き続けるしかない。役立つ間だけではなく。選ばれるまで。
けれど、もう世界の半分は気づいているかもしれなかった。食堂の銀の匙に、私の分が1本加わったことを。わかっていないのは、その匙が私の居場所なのか、役割の席なのか、そのどちらでもないのか。
あすの朝食で、私はそれを数えなおすことになるだろう。




