第26話 受取人欄が、ようやく埋まる
「受取人名を、お願いします」
その一言で、私は呼吸の仕方を忘れた。
紙の上では、小さな欄だ。備品名の右、贈り主の下。ほんの数文字ぶんの余白にすぎない。けれど4ヶ月ぶんの冬より長く見えた。右引き出しの奥で眠っていた銀細工の髪留め。49冊目にだけ記した所感。あの頃の私は、空欄のままでいれば、傷つかずに済むと本気で思っていた。
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記名卓の向こうで、マティアスが事務的な顔をしている。ベルナール卿は沈黙したまま、書類の角を揃えていた。こういう場で感傷は邪魔だ。証人も、順番も、今日のために全部整えられている。
隣に立つオリヴィエ様は、まだ何も書かない。
私が見上げると、彼はほんの少しだけ左手を止め、それから低く言った。
「今なら、迷わない」
その声が、紙より先に私へ届いた。
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私は王宮の帳簿なら、どれだけ複雑でも恐れなかった。だが自分の受取人欄だけは、最後まで見ないふりをしてきた。書かれてしまえば、本当に受け取ってしまうから。品だけではない。気持ちも、待たせた時間も、4ヶ月の仮保管も、全部まとめて。
逃げたいわけではない。嬉しさに、まだ慣れていないだけだ。
指先が、机の端の書類へ向かった。受領後の品目一覧。旧番号4802番。銀細工の髪留め。その次の欄には、もう記載する日付が記されていた。昨日の日付。つまり、すべてが私が決断する前から、進んでいたのだ。
「所感欄がありません」
声に出してしまった。それまで忘れていた。削除対象だった欄が。
「いい」
ベルナール卿が、静かに言った。
「この台帳では、所感を削除しなくていい。それが、新しい運用だ。前は危険な私情とされた。だがあなたが戻らないと決めた時点で、王宮の体制は変わった」
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新しい、という言葉の重さだけで、目がうるうるになる。第1話から今まで、いつも削るべきものとして扱われてきたもの。それが。マティアスが控え用紙を引き寄せた。旧台帳との違い。今までなら許可されなかった項目がすべて、法的に成立する書式へと変わっていた。
オリヴィエ様が筆を取った。手触りのいい白樺の軸。この物語が始まる前、私も同じ筆を持っていた。けれど書く対象は、いつも他人の物ばかりだった。
「受取人は」
彼は短く言って、ペン先を紙へ落とした。私の名前を、受取人欄へ。
「このままでいい」
私が、思わず声を上げた。
「旧姓で。クランフォール」
つまり、王宮での6年間のあの名は、もう過去になるということだ。
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オリヴィエ様の筆は止まらない。筆致は迷いがない。むしろ、3年待った男の澱みない手つきだ。彼は知っていたのだろう。私が何を書かせたいのか、何を書かれたいのか。すべて。
「筆は、振らない」
彼が低く言う。確認ではなく、指示だ。
「所感欄も、同じ。削除しない。あるなら、残す」
背後でエレノアが息を吸く。それ以外は、誰も動かない。ベルナール卿は、書類の角を揃え直しただけ。マティアスは、新しい控え用紙にペンを走らせている。
「では」
オリヴィエ様が、筆を私へ差し出した。
「お前が、書け」
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手を、出そうとして。止まった。
右手が、小刻みに震えている。朝からずっと。公開査問のあの場でも揺らしなかった手が、今だけ落ち着かない。止めようとすればするほど、その震えが指の先まで伝わってくる。
「俯かないでくださいませ。挿す位置がずれます」
エレノアが背後から、静かに髪を整えた。
その一言で、ようやく気づく。私はいつ髪から髪留めを外したのだろう。朝のうちに、自分で。受け取る前のマナーだと思って。何か無意識の準備をしていたのだ。
私は筆を取った。右手の震え。それも記録しろ、ということかもしれない。感情の震えまで、台帳に記すのが新しい運用ならば。
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所感欄の最初の一行。ずっと、書きたくて、書けなくて、書かせてもらえなかった一行。今日、この瞬間の前でようやく。
私は筆を下ろす。
空欄は、埋められるためにあった。そして今日、4ヶ月遅れで、私はその事実を受け取る。
字が、震えて見える。けれど止めない。その震えごと、記録にしてしまえと、ベルナール卿の沈黙が言っている気がした。オリヴィエ様の視線も、何も言わない代わりに、すべてを許している。
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筆が紙を離れた。
最初の一行は埋まった。備品番号、品名、受取人。その下の所感欄に、私の手書きで。何を書いたのか、この場では音として聞かれていない。けれど紙は、覚えている。
マティアスが控え用紙を回して、確認を促した。私の字。私の選択。確定させるための、最後の一押し。
「承認します」
署名をして、初めて筆を置いた。その瞬間、エレノアが動いた。丁寧に、すべての動きを計算された速度で。銀細工の髪留めを手に。
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私の髪へ、挿される感覚。4ヶ月ぶりだ。あの朝、自分の手で外した時の違和感が、今は何の違和感もなく戻ってくる。むしろ、この位置が本来あるべき場所だったような。
「旧番号4802。現在の管理番号、1番」
ベルナール卿が、声に出して確定させた。その刹那。涙が……
泣かないでと決めていたのに。けれど今、泣くことが仕事の終わりを意味する言葉が、その瞬間に理解された。仕事を外されたあの日は泣かなかった。36時間走ったあの日も。公開査問で勝ったあの日も。けれど、今日だけは。
受け取った瞬間だけは。
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「ノエルが、頁番号だけ先に開けておいたそうだ」
オリヴィエ様が、新しい台帳を机へ置いた。白い表紙。硬く、未だ癖もつかない革。その中は、最初の1頁。ただ一行だけ、私の手で記された。残りの白さは、これからのもの。
そして私が見上げると、彼は冷たい手でそっと髪留めを調えた。挿し直すのではなく、確認するように。
「残ってくれたな」
その言葉の意味が、体を通して落ちていく。やっと。ようやく。本当に。
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白かった頁は一行で満ち、残った余白は、これから先の2人のためにある。




