第25話 残ってほしいと言ってください
王宮からの封書は、勝った朝に届いた。
薄青の紙に、濃い封蝋。文面は丁寧で、言葉遣いも申し分なく、どこをどう読んでも礼を尽くしているように見える。だから余計に、気味が悪かった。勝った相手に対する文章ではなく、壊れた歯車を元の場所へ戻したい時の文章に似ていたからだ。
朝食卓の上で、ベルナール卿がそれを読み上げる。
「王宮備品管理体制再整備に伴い、リゼット・クランフォール殿へ復帰および制度改革協力を打診する――」
そこまで聞いて、私は自分でも驚くほど冷静だった。怒りもしない。嬉しくもない。ただ、ああ、やはりそう来るのだ、と分類の済んだ事実を見るように思った。
認められたのなら、少しは救われるのだと思っていた。
でも実際に差し出されたのは謝罪ではなく、職務だった。
王宮が欲しいのは私の名誉ではなく、私の手だ。そうわかってしまうと、胸は少しも温まらない。
ベルナール卿は最後まで読み切り、返答を求めて視線を上げた。隣ではオリヴィエ様が何も言わない。止めもしない。先に怒りもしない。ただ、私がどう答えるかを待っている。そういう待ち方をされると、私はいつも少しだけ困る。優しいのに、逃げ道がないからだ。
「お考えのうえで結構です」
「いえ」
声は思ったより乾いていた。
「戻りたいとは、思えませんでした」
ノエルが小さく息を呑む。ベルナール卿は眉ひとつ動かさず、ですが理由を、とだけ続けた。そこで私は、用意していたはずの言い訳を全部失った。辺境の実務があるから、では足りない。王宮の制度がまだ危ういから、でもない。そういう綺麗な理由では、たぶんまた私は「使えるから惜しまれた人間」のまま終わる。
認められても足りないものがあるなんて、ずいぶん贅沢だと思う。けれど、ここまで来てしまったら、もう誤記では済ませられない。
「辺境での体制整備が、まだ途中でございます」
言い始めた瞬間、オリヴィエ様の左手が少し動いた。机の縁で、紙を押さえる指が。まるで私の言葉を数えるみたいに。
「また、新しい台帳の運用基準についても、まだ協議中です」
これらは本当だ。けれど本当だからこそ、それより前に言うべき言葉がある。私が自分で言わなければ、誰かに押し付けられた理由のままになってしまう。
「本当のところは」
私は視線を机から上げた。
「戻れと言われても、戻りたいとは思えませんでした」
ベルナール卿の表情が、かすかに何かへ気づく。
「それは、なぜ」
「認められただけでは、足りないからです」
息を吸った。その瞬間の冷たさを感じた。朝日が差す応接室は温かいのに、私の中だけ季節が違うのだ。
「私は、仕事として必要とされるのではなく」
隣のオリヴィエ様を見た。
「私として、選ばれたいのです」
沈黙が落ちた。本当に沈黙だった。呼吸の音まで聞こえるくらいに。
「職務として呼ばれるのであれば、辺境で新しい体制を作るほうが」
言い切ったら、オリヴィエ様が動いた。椅子から立つ動きではなく、もっと小さな。肩が、ほんの少し。それでも、私にはわかった。彼が何を思ったのか。
「それは、わがままだと思う」
私自身がそう思っていた。だから、ベルナール卿の言葉は予想どおりだった。けれど、次が違った。ベルナール卿は、一瞬、目を閉じた。その間、机の上に置かれた文面を、指の先で軽く押さえた。4ヶ月の重さを測るみたいに。
「だが、正しい」
彼は文面に視線を戻した。
「呼び戻しではあります。謝罪ではありません。王宮が失った価値について、本当の意味での責任は取ろうとしていない。あなたの判断は、その構造を見抜いている」
ノエルが机上の紙へ、ゆっくり手を置いた。受けた文書への返答を控えておくためだろう。
「では、辞退に」
「いえ」
また沈黙。
「それも、本当のところではないはずだ」
ベルナール卿は静かに言った。彼の目は、私の顔をじっと見ていた。まるで、王宮の書類棚から必要な冊を探すみたいに、注意深く。
「あなたが望むのは、辞退の大義名分ではなく」
そこで彼は、視線をオリヴィエ様へ移した。左手で紙を押さえたまま、その動きは静かだった。
「あなたが、言葉を言い切ることだ」
心臓が止まった。本当に止まったみたいに、胸の奥が無音になった。
「王宮からの呼び戻しではなく、彼からの言葉か」
オリヴィエ様は、ベルナール卿の視線を受けて、左手が一瞬止まった。紙を押さえる指が。それから、ゆっくり顔を上げた。
「構わない」
それが、全部だった。2文字の言葉。それなのに、私の呼吸がもう戻らない。オリヴィエ様は、何も足さない。何も説明しない。ただ、その2文字だけで、私の中にあった迷いのすべてが、静かに崩れていくのを感じた。
「あなたがどう答えるかは、あなた自身で決めよ」
ベルナール卿は書類を封筒へ戻した。彼の手つきは事務的で、けれど、その速度はいつもより遅かった。まるで、我々の時間を尊重するみたいに。
「だが、決めるまえに、誰に何を言わせるかだけは、誤るな」
応接室の空気が、また変わった。真昼の光の中で、何かが静かに崩れるような。
ノエルが退室の合図を待っている。ベルナール卿も立ち上がるだろう。それが分別というものだ。この先、話されるべき言葉は、卿の耳にはふさわしくない。わかっている。知っている。けれど、私の視線は、やはりオリヴィエ様へ固定されたままだ。
「お前の望みは」
低い声が、私へ向かった。
「何だ」
その問いだけで、もう何もいらなかった。
指を握りしめた。爪が掌へ食い込む感覚が、あまりにはっきりしている。
「王宮から呼び戻されることではなく」
言ったら、本当に終わる。戻る道は、完全に消える。
「あなたが、私に『残ってほしい』と言ってくれることです」
もう一度、彼の左手が止まった。紙の角を押さえる指が、まるで私の言葉の重さを数えるみたいに。
「それを、あなたの口からだけで言ってほしいのです」
応接室の温度が、また変わった。太陽が傾くみたいにゆっくり、けれど確実に。
「認められるだけでは、足りません」
声は少し震えていた。それでいい。震えたっていい。ここまで来たら、完璧な仕事の書式に偽装する必要なんてない。
「職務として必要とされるのではなく、これからも」
ベルナール卿が立ち上がった。それを待っていた動きのように見えたが、実は彼自身が、この先を聞くべき立場ではないと知っていたのだろう。
「あなたが『いい』と選んでくれるまでは」
ベルナール卿とノエルが、静かに退出する音が聞こえた。戸の閉まる音も。それでも私は、オリヴィエ様から視線を外さなかった。
「そうか」
彼がゆっくり立ち上がった。応接室の空気そのものが動いた。
「やはり」
彼は机の向こうから来た。私の前へ。足音は聞こえない。辺境伯の足取りは、いつだって音を立てない。
「ずっと、待たせていたのだな」
白い手袋をした手が、私の頬へ触れた。その冷たさが、ようやく現実のように思える。まるで、4ヶ月の仮保管がここで完結するみたいに。
「構わない」
その言葉が、今度は全部だ。2文字で、けれど1週間分の重さがある。いや、それ以上だ。
「戻るな。残ってほしい」
これが、欲しかった言葉だ。職務でも、名誉でもなく、ただの個人の願いとしての言葉。
「お前が、いい」
私は頷くしかできなかった。泣かないようにと思ったが、もう遅かった。けれど、泣く前にやることがあった。笑うことだ。4ヶ月ぶりに、心が足りていると思える。そんなに不器用に。
「これからも、ここにいてくれるか」
その問いに、全ての時間が止まった。王宮での6年間。婚約破棄から公開査問まで。4ヶ月の仮保管。全部が、この一言に集約される。
「はい」
答えは、仕事の書式ではなく、自分自身の言葉だった。
「ここに、残ります」
その言葉を口にした瞬間、私は初めて理解した。これまで、私が数えていたのは、物の個数ではなく、自分がどこに置かれるべきかということだったのだと。そして今、その場所が――あなたの隣だと、ようやく確定した。




