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「完結済」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第6章 48冊を捨てた代償

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第23話 鍵と嘘

「その銀燭台は、歓迎用ではありません」


 開始の鐘が鳴ってから、私は最初にそれを言った。大きな言葉ではない。けれど会場のざわめきが一段だけ沈んだのがわかった。卓上に置かれた銀燭台は磨かれていたが、底面の紋章までは消せない。先代公爵の葬儀専用。台帳第8冊、17頁。慶事使用不可。朱書き。たった1行。たった1行を読めば避けられた失礼のために、外交部は夜通し謝罪文を書いた。


「……後出しでは?」


 王子派の官僚が言う。


「いいえ」


 私は台帳の頁を開いたまま答えた。


「前任時点で記載済みです。時刻も署名もあります」


 紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。前なら、この瞬間に喉が乾いたはずだ。感情を出せば私情と言われる。強く言えば逆恨みと言われる。だから数字と時刻だけを並べるしかない、と決めていた。決めているつもりだった。けれど今、底面の紋章を照合灯の下へ置いた瞬間、私の中で何かが静かに変わった。これは弁解ではない。返答だ。読まなかった側への、遅すぎる返答。


「次です」


 私は自分でも驚くほど落ち着いた声で続けた。


「宝物庫第7棚の再分類記録。第31冊。現場では紛失と扱われ、宝物庫は2日封鎖されました。実際には所在記録済みです」


「……2日?」


 列席者の誰かが呟く。


「はい。見学中止1件、謝罪2件。損害額は概算で」


 そこまで口にして、視界の端にオリヴィエの手が見えた。動かない。遮らない。助けに入らない。それが今はありがたかった。彼が隣にいるのに、勝つのは私の声でなくてはならない。そういう立たせ方をされていることが、昨日までより少しだけわかる。


 私は第17冊を開いた。シャンデリア右3番目の腕。冬至前後に緩む。増し締め必須。小火1件。負傷者なし。たったそれだけの備考が、会場全体の空気を変えていく。細かすぎると言われた行。多すぎると言われた冊数。けれど人は、読まれた途端に細かさを侮れなくなる。


 ベルナールが無言で別の照合表を置いた。宝物庫の再分類時刻と、外交部からの謝罪文作成時刻。ぴたりと重なる。重なってしまう。派手な嘘ほど、入口はいつも地味だ。受け取りを曖昧にしただけ。謝罪の名目で品を出し入れしただけ。たったそれだけで、王宮の流れは歪む。読まない者には、ただ忙しかった日に見える。だが読めば、誰かが「最初から空欄にするつもりで」欄を残したとわかる。


 会場がざわめき始めた。けれど私は続けることを止めなかった。これはもう、細かい記録ではない。派手な嘘を開けるための、もっとも地味な鍵だった。


 アルベールはまだ、はっきりと表情を変えていなかった。けれど私は知っている。次に来るのは認める言葉ではない。もっと浅くて、もっと傲慢な、あの1言だ。だからこそ、今ここで止まるわけにはいかなかった。


「それでも、48冊も必要だったとは思えないな」


 やはり、その1言だった。


 会場の空気が変わりかけたところで、第二王子アルベールは椅子へ浅くもたれたままそう言った。軽い。第1話の昼下がりと同じ軽さだ。数えたことのない人間だけが出せる声音で、同じ言葉をもう一度置く。あの時は、私は廊下へ出て泣かなかった。今は違う。泣く必要がないところまで来ている。だから腹が立つより先に、整った。


「必要冊数ではなく、未読冊数の問題です」


 自分の声が、前より少しだけ低く響いた。ざわめきが消える。私は損害一覧を1枚めくり、机上へ置いた。事故件数、謝罪回数、封鎖日数、後任配置人数、照合率。数字は並べるだけで冷たい。だが冷たいからこそ逃げ道がない。


「後任は3名に増員されました」


 私は言う。


「それでも照合率は58パーセントまで低下。外交事故2件、宝物庫封鎖1件、小火1件。台帳を開けば防げたものです」


「複雑すぎたのだろう」


 アルベールがまだ言う。その時点で彼の横顔は固くなっていた。


「誰にでも扱える仕組みではなかった」


 その返しが来ることも、もう予想していた。私は1秒だけ息を止めた。怒りで早くならないように。数字が震えないように。次に来る言葉は決まっている。決まっているから、それに上書きすることができる。


「誰にでもできる仕事とおっしゃいました」


 会場の奥で、誰かが息を呑んだ。


「では、なぜ3名に増員しても補えなかったのでしょう。なぜ第8冊、第17冊、第31冊、第42冊に書かれた内容を、誰も読まなかったのでしょう。問題があったのは48冊ではなく、読まない側です」


 言い切った瞬間、沈黙が落ちた。重く、綺麗な沈黙だった。私は初めてそこで、自分の手が震えていないことに気づいた。ずっと欲しかったのは、勝つことだけではなかったのかもしれない。見てもらえること。しかも、自分の言葉で、歪められずに。


 ベルナールが1枚の書面を引き寄せ、マティアスが照合票を置いた。王子派官僚の名前がいくつか切られ、空気がはっきりと戻らなくなる。終わった、とはまだ思わない。こういう時ほど次が来る。実際、控室へ下がって間もなく、宰相府の印が入った別の文書が差し出された。


「王宮は」


 ベルナールが短く言う。


「あなたの復帰を正式に打診したいそうです」


 勝った直後に、それを言うのかと笑いそうになった。けれど笑えなかった。あまりにも、この物語らしい次の問題だったからだ。


 私は文書を見た。正式な公文。王宮からの、正式な呼び戻し。必要な人材として。有能な官吏として。なぜここまで、私は選ばれるのか。その理由が、恋になりかけていた何かを、一瞬だけ冷やした。


「お考えはゆっくり」


 ベルナールが続ける。


「公開の責任を示したあなたの価値は、王宮も無視できない。ただし判断は急かさない」


 彼の言い方は合理的だった。制度的だった。けれど合理こそが、時に最も厄介な圧力だ。必要な人材。有能な官吏。そう言われて心が動かない女がいるだろうか。特に、ずっと仕事を捨てたことのない女が。


 隣で、オリヴィエが動かない。沈黙している。その沈黙が、彼の本心なのか、単なる制度的な距離なのか、私はまだ判断できない。ここまで隣に立ってくれた彼も、これからは外の人間だ。王宮と辺境は別だ。選ぶのは私だ。


 マティアスは照合票を無言で机上へ置いた。その積み重ねは見せ場だった。彼の仕事は判定ではなく、「手続きは通った」という事実を形にすることだけだ。その形の重さが、私の肩へかかる。


 私は文書を握った。まだ熱い。その熱さが、昨日の安心を一瞬で消してしまう。勝つことと残ることが、同義ではないのだ。その事実だけが、私の中で音もなく落ちていった。公文の印鑑の冷たさが、手のひらに残る。

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