第22話 公開査問
私の席札は、最前列の2つ目に置かれていた。
見間違いではないかと思って、一度視線を外し、もう一度見た。白い厚紙に、黒いインクでリゼット・クランフォール。余計な飾りはなく、字も事務的だ。それなのに、その1枚だけがやけに目立つ。最前列。宰相席の斜め後ろ。辺境伯席の隣。証言者だから前なのではない。前に出すなら端でもよかったはずだ。この位置は、見えるように置かれている。
「違っていたら困りますか」
背後から声がした。
「困る、というより……」
「嫌か」
「そうではなく」
私は席札から目を離せなかった。
「狭いのではないかと」
「構わない。俺は」
その返しがあまりに短くて、思わず振り返った。オリヴィエはいつもどおりの顔をしている。濃紺の上着、きっちり留められた襟、どこから見ても辺境伯。けれど机の上の席札だけが、彼の本心を先に話しているみたいだった。公の席で、隣。昨日の夜にもらった言葉が、甘さのまま消えずに形を取っている。私はそのことに、まだ追いつけない。
会場は広かった。高窓から入る朝の光が床へ長く落ち、列席者の靴音だけが乾いて響く。噂好きの貴族たちはもう来ていて、視線が何本もこちらへ向いていた。元婚約者。帳簿持ち出し。辺境伯に庇われている女。たぶん好きなだけ名前をつけられる。けれど今日は、不思議と1つだけ違った。私が勝手に立っているのではない。置かれた席が、先に私の居場所を決めている。
「開始まで10分」
マティアスが無機質に告げた。
「着席順は変更ありません。辺境伯閣下、同伴責任者として署名を」
「わかっている」
彼がさらりと署名するのを見て、胸の内側が熱くなる。責任者。たぶんそれは制度上の言葉で、恋とは別だ。別のはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。責任という形でしか守れない段階と、責任の名であってもなお私の隣を選んだ事実。その2つが重なって、喉元でうまく分かれない。
そこへ、会場の外で大きく扉が鳴った。第二王子アルベールの到着が告げられる。ざわめきが少しだけ膨らみ、次の瞬間には押し潰された。私は席札から手を離した。もう座るしかない。座ったあとに何が始まるのか、ようやく体が理解し始めていた。
鐘が鳴った。
その音で、私は席に着いた。隣は、オリヴィエだ。最前列で、並んで座っている。机の上には、第17冊。第31冊。第42冊。そして損害一覧の本体。全部が整然と置かれている。準備は終わった。後は、読ませるだけ。
「その銀燭台は、歓迎用ではありません」
開始の鐘が鳴ってから、私は最初にそれを言った。大きな言葉ではない。けれど会場のざわめきが一段だけ沈んだのがわかった。卓上に置かれた銀燭台は磨かれていたが、底面の紋章までは消せない。先代公爵の葬儀専用。台帳第8冊、17頁。慶事使用不可。朱書き。たった1行。たった1行を読めば避けられた失礼のために、外交部は夜通し謝罪文を書いた。
「……後出しでは?」
王子派の官僚が言う。
「いいえ」
私は台帳の頁を開いたまま答えた。
「前任時点で記載済みです。時刻も署名もあります」
紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。前なら、この瞬間に喉が乾いたはずだ。感情を出せば私情と言われる。強く言えば逆恨みと言われる。だから数字と時刻だけを並べるしかない、と決めていた。決めているつもりだった。けれど今、底面の紋章を照合灯の下へ置いた瞬間、私の中で何かが静かに変わった。これは弁解ではない。返答だ。読まなかった側への、遅すぎる返答。
「次です」
私は自分でも驚くほど落ち着いた声で続けた。
「宝物庫第7棚の再分類記録。第31冊。現場では『紛失』と扱われ、宝物庫は2日封鎖されました。実際には所在記録済みです」
「……2日?」
列席者の誰かが呟く。
「はい。見学中止1件、謝罪2件。損害額は概算で」
そこまで口にして、視界の端にオリヴィエの手が見えた。動かない。遮らない。助けに入らない。それが今はありがたかった。彼が隣にいるのに、勝つのは私の声でなくてはならない。そういう立たせ方をされていることが、昨日までより少しだけわかる。
私は第17冊を開いた。シャンデリア右3番目の腕。冬至前後に緩む。増し締め必須。小火1件。負傷者なし。たったそれだけの備考が、会場全体の空気を変えていく。細かすぎると言われた行。多すぎると言われた冊数。けれど人は、読まれた途端に細かさを侮れなくなる。
アルベールはまだ、はっきりと表情を変えていなかった。けれど私は知っている。次に来るのは認める言葉ではない。もっと浅くて、もっと傲慢な、あの1言だ。だからこそ、今ここで止まるわけにはいかなかった。
「それでも、48冊も必要だったとは思えないな」
やはり、その1言だった。
会場の空気が変わりかけたところで、第二王子アルベールは椅子へ浅くもたれたままそう言った。軽い。第1話の昼下がりと同じ軽さだ。数えたことのない人間だけが出せる声音で、同じ言葉をもう一度置く。あの時は、私は廊下へ出て泣かなかった。今は違う。泣く必要がないところまで来ている。だから腹が立つより先に、整った。
「必要冊数ではなく、未読冊数の問題です」
自分の声が、前より少しだけ低く響いた。ざわめきが消える。私は損害一覧を1枚めくり、机上へ置いた。事故件数、謝罪回数、封鎖日数、後任配置人数、照合率。数字は並べるだけで冷たい。だが冷たいからこそ逃げ道がない。
「後任は3名に増員されました」
私は言う。
「それでも照合率は58パーセントまで低下。外交事故2件、宝物庫封鎖1件、小火1件。台帳を開けば防げたものです」
「複雑すぎたのだろう」
アルベールがまだ言う。
「誰にでも扱える仕組みではなかった」
その返しが来ることも、もう予想していた。私は1秒だけ息を止めた。怒りで早くならないように。数字が震えないように。
「誰にでもできる仕事とおっしゃいました」
会場の奥で、誰かが息を呑んだ。
「では、なぜ3名に増員しても補えなかったのでしょう。なぜ第8冊、第17冊、第31冊、第42冊に書かれた内容を、誰も読まなかったのでしょう。問題があったのは48冊ではなく、読まない側です」
言い切った瞬間、沈黙が落ちた。重く、綺麗な沈黙だった。私は初めてそこで、自分の手が震えていないことに気づいた。ずっと欲しかったのは、勝つことだけではなかったのかもしれない。見てもらえること。しかも、自分の言葉で、歪められずに。
ベルナールが1枚の書面を引き寄せ、マティアスが照合票を置いた。王子派官僚の名前がいくつか切られ、空気がはっきりと戻らなくなる。終わった、とはまだ思わない。こういう時ほど次が来る。実際、控室へ下がって間もなく、宰相府の印が入った別の文書が差し出された。
「王宮は」
ベルナールが短く言う。
「あなたの復帰を正式に打診したいそうです」
勝った直後に、それを言うのかと笑いそうになった。けれど笑えなかった。あまりにも、この物語らしい次の問題だったからだ。
私は文書を見た。正式な公文。王宮からの、正式な呼び戻し。必要な人材として。有能な官吏として。なぜここまで、私は選ばれるのか。その理由が、恋になりかけていた何かを、一瞬だけ冷やした。
隣で、オリヴィエが動かない。沈黙している。その沈黙が、彼の本心なのか、単なる制度的な距離なのか、私はまだ判断できない。ここまで隣に立ってくれた彼も、これからは外の人間だ。王宮と辺境は別だ。選ぶのは私だ。
私は文書を握った。まだ熱い。その熱さが、昨日の安心を一瞬で消してしまう。勝つことと残ることが、同義ではないのだ。その事実だけが、私の中で音もなく落ちていった。




