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「完結済」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第6章 48冊を捨てた代償

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第20話 帳簿の重さだけが、嘘をつく

 第42冊だけが、妙に軽かった。


 軽い帳簿は嫌いだ。中身が少ないのではなく、抜かれている可能性があるから。私は保管棚から下ろした薄茶の冊子を両手で受け、その重みの足りなさに、先に嫌なものを覚えた。頁数は合っている。背表紙の傷も見慣れている。金具の取り付け位置も正規だ。なのに、持った瞬間の手応えだけが違う。重さがない。いや、重さはある。ただし、本来あるべき値より少ない。それが何を意味するのか、指先が最初に知った。


「何かおかしいですか」

 ノエルが覗き込む。机の上の白い写しから目を上げた少年の顔には、まだ疲れが残っている。昨夜の矢印確認は4時間を超えていた。


「おかしいです。たぶん、紙ではなく順序が」

 私は頁をめくった。予備鍵の貸出記録。時刻、あり。品名、あり。使用目的、あり。返却日時、あり。署名、あり。けれど受領欄だけが、ひどく綺麗だった。消された跡があるわけではない。むしろ、最初から書かれない前提で作業した人間の綺麗さだ。紙の繊維を傷つけない、そういう慎重さが、却って不吉に見えた。そこにだけ人の体温がない。


 次のページ。宝物庫の補助鍵。祭礼用銀器庫の一時解錠。謝罪品搬出時の立会い。同じ手順で、同じ欄が、同じように空いている。


「ノエル、第17冊から謝罪銀食器の搬出記録を」

 私が言うと、彼は付箋をめくりながら書類棚へ向かった。


「あります。いくつありました……5件」

「日付を」


 彼が読み上げた日付を、私は第42冊の欄と照らし合わせた。重なる。重なる。重なる。そして最後の1行で、絶対に重なってはいけない時刻が、ぴたりと一致する。


 その瞬間、マティアスが動いた。無言で、別の写しを差し出した。こういう時だけ、彼は嫌味を言わない。彼の役割は、見つけたものを確認し、立証することだけだから。


 照合灯の下で2つの記録を並べた。片方には鍵の時刻。午後4時。片方には銀器の搬出時刻。午後4時。受領札に記載されるべき鍵の受け取りと、贈答品の返却が、分刻みで同じ時刻に起こっている。それが意味することを、読める人間なら全員わかる。


 喉の奥が冷えた。派手な嘘ほど、入口はいつも地味だ。贈答品をごまかしたのではない。鍵の受け渡しを曖昧にしただけ。謝罪の名目で銀器を出し入れしただけ。たったそれだけで、宝物庫の流れは歪む。読まない者には、ただ忙しかった日に見える。だが読めば、誰かが「最初から空欄にするつもりで」欄を残したとわかる。書かないと決めた。記載を避けた。だからこそ、時刻が一致する。記録がないから、因果が隠せると思った相手の計算がそこに残っている。


「49冊目より、先にこちらですか」

 マティアスが問うた。いつもの詰問ではなく、冷たい確認だ。


「はい。49冊目は恥ですけれど、こちらは刃です」

 言ってから、自分で少しだけ驚いた。前なら逆だった。恋の帳簿のほうがよほど危険に思えた。見られたくない。知られたくない。その恥ずかしさが、全身を支配していた。けれど今は違う。恥ずかしいものと、使うべきものを分けている暇がない。読まなかった側へ返すなら、順番がある。心理的な順番。法的な順番。何度も読まれる順番。その全部が、この冊の位置を最初に決めていた。


 外で馬の鼻息がした。搬送の準備だろう。証拠を運ぶだけなのに、屋敷じゅうの空気が張っている。天井まで届きそうな緊張が、照合室の隅々まで満ちていた。扉の向こうから、オリヴィエの短い声が聞こえた。


「囮を出す」

「そこまで?」

 ノエルが目を丸くする。彼はまだ、こういう戦いの深さを測り損なっている。


「そこまでです」

 その声の返事も短かった。つまり、それ以上の説明が不要な相手だということだ。


 私もそう思った。そこまで。最大限の警備。だが、第42冊を持つ手が汗ばんでいるのに気づいて、反論を飲み込んだ。これはもう、細かい鍵記録ではない。派手な嘘を開けるための、もっとも地味な鍵だった。その地味さが、どれほど逃げ道を奪うのか、誰より私が知っている。


 照合灯の下で、受領欄の空白が光を反射している。書かれなかったのではなく、書かれないと決められた欄。その決定がいくつの人間の手を通ったのか。いくつの時刻で重なったのか。決裁官は誰で、どこでそれを認めたのか。それを読めば一気に崩れる。崩れるはずだ。


「付箋の打ち直し」

 私がマティアスに言う。

「第35頁、第42頁。そして49冊目との時刻比較の2頁。その3か所だけ、新しく付箋を打ってください。順序は、必ずこの順で」


 マティアスは朱筆をしまった。彼の動きは無駄がない。それは感情よりも手続きを優先する男の仕草だ。規則に従い、手順に従う。その厳しさが、却って相手を追い詰める。


「明朝、最終確認をします」

 そう言い残して、彼は部屋を出ていった。後には、照合灯と、42冊の受領欄の空白と、私とノエルだけが残った。


 照合室の西側の窓から、外の灯りが薄く見える。やがて夜が来て、明け方が来て、そのあとで4時間後に初陣が始まる。この1冊が、どれほどの相手を指し示すのか。その恐ろしさと、その必要性が同じ重さで、私の心臓を押していた。


「これで、敵を裁けますか」

 ノエルが静かに言った。


 その問いに、私は少し時間をかけてから答えた。

「裁ける、ではなく、返せます。読まなかった側に。そして、読むまで気づかなかった側に」


 数字は冷たい。だからこそ、感情が透けて見える人間がいる。この欄を書かないと決めた人間。この鍵を曖昧にした人間。この時刻を合わせた人間。それぞれの判断の後ろ側に、何があったのか。楽さか。無思慮か。それとも計画的な隠蔽か。


 すべてが繋がる。一度繋がれば、逃げ道はない。


 扉が再び叩かれた。オリヴィエだ。顔を上げる前に、それがわかってしまう癖は、相変わらず治らない。


「搬送の準備が整った。記録は」

 彼はドアの枠に身を寄せたまま、全体を見ている視線で確認した。


「この冊だけが先です」

 私は42冊を机から上げた。軽い。だが、その軽さの理由が今はわかっている。書かれなかった意思の軽さ。決めて避けた判断。その積み重ねが、こんなに軽く、こんなに冷たく、指の上に乗っている。


「承知した」

 彼は部屋を見て、ノエルを見て、最後に私を見た。その視線の流れ方は、仕事の確認ではなく、ほかの何かをしていた。


「大丈夫か」

「重みが足りないのは、正しい設計です。受領欄を書かないことで、初めて流れが成立する仕組み。だから足りなくて、正しい」


「嘘だな」

「大げさでなければ、今は大丈夫ではありません。けれど明朝には。夜通しで警備が……」


「そっちではない」

 言い終わる前に、彼は42冊を見つめていた。その見方は、紙を見ているのではなく、紙に書かれなかったものを見ている目だ。空欄を読む。白さを読む。人の意思を紙の上に読む。彼はそれを平然とやってのける人間だから、私はこの冊を信じて渡せるのだ。


「お前が大丈夫か。これから」

 彼の問いは、明朝の査問をさしているのではなく、もっとあとの、見えない先をさしていた。


「逃げられません。もう」

 返事をした時に、私は自分で自分に驚いた。怖くないわけではない。胸の中は、まだ冷えたままだ。だが、その冷えさが、却って心を澄ます。


「夜通し警備をつける。搬送は囮の時間と本搬送で2段階。第2波は、お前が乗らない馬で」


 オリヴィエはそう言って、ドアに手をかけた。


「4時間で初陣です」

 ノエルが呟いた。


「はい。初陣です」

 私は42冊を照合灯の下にもう一度置いた。受領欄の空白が、光に浮かぶ。その空白が、どれほどの事実を隠していて、その空白を読むことで、どれほどの相手が崩れるのか。


 数字は答えを知っていた。時刻は重なっていた。そして私は、その2つが指差す先を、もう逃げられない形で読んだのだ。

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