第2話 髪留めよりも、便り
南部町に着いてから3日目の朝。私は家の中庭で、1冊の台帳が受け取れない書翰を読んでいた。
王宮からの指令。午後2時、北の監査室へ出頭のこと。持参物なし。護衛なし。単独。
記載理由欄は空白。署名は「王宮監査室」のみ。押印も見あたらない。
指令書というより、脅迫に近かった。
「……いつ着いたんですか」
南部の借家の侍女が、水差しを持って声をかけた。
「昨夜。馬での移動が予定より半日早かった」
実際には、36時間の徹夜で走った。王宮を離れた直後、馬子に金を握らせて、立ち止まるなと言った。後ろを塞ぐためではなく、前に進むためだった。
49冊目が鞄の底に入っているという事実だけが、私を動かしていた。
「出頭命令ですか」
侍女の声が、かすかに震えていた。
「記載がない。つまり、記録不正の可能性がある」
侍女の顔が白くなった。
記録不正とは、王宮内部でも最も重い。出頭命令が本物か偽造か、その時点では判別できない。応じなければ逃亡罪に問われ、応じれば何をされるかも不明という、最悪の仕組みだ。
「ご判断は」
「午後2時。まだ時間がある。確認してから動く」
実際には決まっていた。応じる。ただし、49冊目は持たない。右引き出しの髪留めも置いてきた。証拠は、王宮の側に預けてある。
持てるのは、その記憶だけだ。
北の監査室に着いたのは、午後1時55分。西の壁沿いの階段から入った。門衛は不在。あるはずの通行札の記載もない。
不穏さの濃度が上がった。
「貴女で間違いないね」
監査室の入り口で、灰髪の高位官が立っていた。宰相配下の監査官。王宮内でも限られた者だけが面会を許される層。
「記録に、ご報告させていただきたいことが」
「あろう。だがその前に」
監査官の後ろから、書記官が動いた。手には封蝋封じされた羊皮紙。宝物庫預り札。
「宮廷備品第4802番。銀細工の髪留め。小花意匠。受取人未記載。状態、未使用。本日より特別査問の対象に指定する」
私の呼吸が、一瞬止まった。
「即刻、返納を命じる。物質的返納、もしくは所在証明。どちらでも構わない」
返納ではなく、返納の圧だ。髪留めの存在を知られていた。それだけではなく、右引き出しまで知られていた。
「物は王宮に置いてきた」
「そうだろう。だから返納ではなく、確認だ」
監査官が視線を落とした。
「お前が持ち出したのは、ほかの物だ。台帳。第49冊。業務記録の外側。所感が記載されている筆記。返納を命じる。本日中に王宮へ」
心臓が、止まった。
49冊目を知っている。だけではなく、その中身が個人的だと知っている。
「確認させていただきたいのですが、どの法令に基づいた返納命令でしょう」
「婚約仮登録の破棄に伴う帳簿返納義務」
「婚約の対象は備品台帳48冊です。第49冊は、私的な記録簿。帳簿ではありません」
「私的ならなおさらだ。破棄に伴って、贈答記録の返納に含まれる」
嘘だ。明らかに、嘘だ。
でも、そう言われると、私は言い返せない仕組みになっている。
「記載理由が空白です。この返納命令は、記録として成立していません」
背筋を伸ばした。台帳官の癖が出ていた。
「書き足すか」
監査官が書記官を見た。書記官が新しい羊皮紙を出した。
「理由:業務帳簿の私情混入。帳簿管理者としての職責違反」
職責違反。一言で、私は有罪になった。
「確認した。いかがか」
記載理由が明記されれば、法的には返納命令が成立する。異議を唱える余地は、残らない。
「……期限は」
「本日中。差し入れは禁止。面会も禁止。直接返納のみ」
差し入れ禁止。面会禁止。つまり、誰かに相談する時間を与えないということだ。
「承知いたしました」
返答することで、私は自分から応じたことになる。拒否すれば逃亡罪が上乗せされ、応じれば職責違反で業務帳簿の持ち出しを認めたことになる。
どちらを選んでも、詰みだ。
「ただし一つ」
声が出ていた。
「返納前に、内容の確認をさせていただきたい。49冊目は帳簿ですが、帳簿の誤記や破損、価値減損がないかどうか、確認は返納者の責務です。これを記録に残してからの返納であれば、異議の余地がはっきりします」
監査官の目が、細くなった。
「内容確認は、王宮で行う」
「それでは返納責任が曖昧になります。返納時点での物質状態確認は、法的に必須です」
張り合っていた。それは危ないと、頭の片隅で知りながら。
「……帳簿管理官として、返納時の物質状態確認は記録に入れるべきです。でなければ、その後、内容が改竄されても証拠が残りません」
監査官が、一度目を閉じた。
「確認する。ただし、内容の閲覧は禁止。表紙、装丁、頁数の確認のみ。いかがか」
一歩譲歩した。表紙と装丁と頁数だけなら、所感の内容は見られない。
「かしこまりました」
鞄を開けた。49冊目を出した。
濃紺のカバー。革製。側面に銀の花押。頁数は、184頁。
監査官が、短く頷いた。
「物質状態。破損なし。頁数184。内容確認なし。異議ありか」
「ありません」
「返納時刻、午後2時17分。返納者署名」
書記官が署名欄を指した。
私は、鉛筆を取った。
手が、少し揺れた。
でも署名した。自分で、確認した上で、返納する形に。
書記官が羊皮紙を折った。49冊目を、その中へ入れた。
「本日中に王宮へ送付する。異議はないか」
「……ありません」
嘘だった。異議で満ちていた。でも、異議を言う場所と言葉が、もう残っていなかった。
執務室を出たのは、午後2時19分。頭がまっすぐ立たず、気温を数える余裕もなかった。
これはまだ、始まりに過ぎないのだと、足の先から理解し始めていた。
北の監査室から南部町へ戻るのに、35時間かかった。走る速度は落ちていた。49冊目が手にないことで、体が重くなった。
家に着いた時の時刻は午後4時。昨日午後2時19分から、ちょうど26時間と41分。
侍女が「お帰りです」と声をかけた。その声が、とても遠く聞こえた。
「物は」
「返納しました」
「返納ですか?」
「記録に残した上で」
侍女が、何かを察した。顔が蒼ざめた。
「では、どうなるのですか」
「わかりません」
はじめて、本当のことを言った。
夜間。馬車の音が、家の外で止まった。
侍女が、窓から外を見た。
「……顔が見えません。でも、大きな人が」
オリヴィエだった。あるいは、彼の側近だった。
玄関をたたく音の前に、鞄が置かれた。封蝋で厳重に閉じられた。
そして、馬車は去った。
鞄を開けた。その中には、羊皮紙が1枚。文字は短く、1行だけ。
「明日、南の宮。夕刻」
署名はない。でも筆跡は、誰のものか、分かっていた。
その直後、別の訪問者があった。
王宮からの使者。1冊の封蝋書簡を、宮廷封蝋で送ってきた。差し入れ禁止の条件下での、唯一の抜け道。
「南部町領主代理の資格において、面談を求む」
オリヴィエが、領主として動き出した。
リゼット・クランフォールという個人ではなく、彼の領地に属する人間として。
その時点で、初めて、あることに気づいた。
49冊目の最後の頁に、私は何を書いたのか。思い出そうとしても、送り出した後のことだから、確認ができない。
でも書いた。書いたはずだ。オリヴィエへの言葉を。受取人欄に彼の名がないまま、その台帳を大事に持ってきたあの夜に。
あの時、私は何を書いたのか。
その言葉が、いま、王宮の監査室のどこかで誰かに読まれているのか。あるいはまだ、誰にも見られていないのか。
確認する手段がない。
その確認がないまま、明日の夕刻、南の宮で、彼に会わなければならない。
そして彼は、もう知っているはずだ。49冊目が私のものだったことを。その中に彼への言葉があること。でも、その言葉の全部を知ってはいない。
知られたくない部分も知られたくない理由も、全部。
いや、違う。
知られたくないほどのことを、私は書いていたのか。
指先の冷えが止まらなかった。左手で庇うべき西日も、もう南部の家にはない。
明日の夕刻まで、あと14時間と、まだ数えていた。




