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「完結済」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第5章 恥ずかしい記録の使い道

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第18話 帳簿に散った名前

 最初に崩れたのは、人ではなく1枚の照合表だった。


 たった1欄。受領時刻の横に引かれた朱線が、ほかの3本よりわずかに新しい。乾き方が違う。筆圧も違う。

 夜明けの照合室では、それだけで十分だった。ノエルが最初にそれを見つけ、私はその次に、マティアスはほとんど同時に見抜いた。見抜いた、というより、逃がさなかったと言うべきかもしれない。


「この順では、封を開ける前に受領したことになります」


 マティアスの声は静かで、静かなまま部屋を冷やした。

 向かいに座っていた処理担当官の額に、遅れて汗が浮いた。彼はまだ笑おうとしている。よくある事務ミスです、と言う用意だけは整っている顔だ。

 けれど机の上には、彼の準備より早く、別のものが並び始めていた。


 第42冊の予備鍵記録。宝物庫預り札の控え。謝罪品の受領差分。そして49冊目の所感欄。そこに残っている時刻と、贈り物が届く周期。私が隠したかった観察の1行が、今は誰より冷たく、誰より逃げ道なく、紙の上に座っている。


 私はほんの数日前まで、この帳簿を守ることしか考えていなかった。見られたくない。知られたくない。返したくない。

 そうやって抱えていれば、それで済むと思っていた。けれど違ったのだ。この1冊は、隠しておくだけでは半分しか生きない。使った時、初めて別の意味を持つ。


「事務上の混乱です」


 処理担当官はそう言ったが、マティアスは首を横にも縦にも振らなかった。ただ照合灯を少し寄せ、再熱痕の2重輪を指先で示しただけだ。


「混乱ではなく、順番です」


 順番。たったそれだけの言葉で、部屋の空気が変わる。

 誰が先に受け取り、誰があとで書き足し、どこで封を開き、どこで時刻をごまかしたか。順番が崩れた瞬間、人は急に嘘をつけなくなる。


 沈黙していたのは記録のほうではない。読ませなかっただけだ。

 そう思った時にはもう、次に崩れるのがこの男ひとりでは終わらないことを、誰もが察していた。


 ◆


 ノエルが机を動かした時点で、もう戻れない線が引かれていたのだと思う。


 彼は照合灯をより強く照らせるよう、スタンドの位置を60度回した。光は1層鮮烈になり、朱筆の描線ごとに、新旧の差が浮き彫りになった。古い3本の線は深く沈んでいたが、新しい1本だけは、紙の表面で輝いている。


「このあたりに、時刻が入っておりました」


 ノエルはそう言いながら、別の写しから3行を指した。


「謝罪品の受領、午後16時。宝物庫の預かり札、午後19時。そして、49冊目への記載は」


 彼は口を噤んだ。言葉を続ければ、事実がより大きく立ち上がることが、わかっているからだ。私がそれを言うべき、と彼は判断した。


「午後17時40分です」


 マティアスは何も言わなかった。ただ処理担当官を見つめていた。その見つめ方は、もう相手に逃げ道を与えていなかった。


「つまり、受領より60分前に、記載があったということですね」


 処理担当官の喉が目に見えて上下した。涎を飲み込む音が、静かな部屋では異様に大きく聞こえた。


「あ、いや。その、記載のタイミングは」


「頁番号順です。お聞きになりましたか。貴殿が先ほど覚えていないと申し上げた、あの第17冊142頁の指示です」


 マティアスは細い封蝋刀をまっすぐ立てた。先端が光に反射する。


「受領の前に内容を知ることは、規則第43条により、受領行為そのものを無効にします。無効な受領は、新たな記録として再実施される。ところが、ここには再実施の記録がない」


 言葉を重ねるごとに、処理担当官の指が紙を掴むことすら忘れていった。彼はもう、自分がどこに立っているのかを失っていた。


「貴殿は、受領前の情報を使いながら、その後に受領時刻を記載した。規則的には、これを『事前知識による受領の無効化と、意図的な記録改竄』と解釈します」


 沈黙した。本当に沈黙した。息をすることすら聞こえなくなるほどの静寂が、部屋を満たした。


 ◆


 小さな回廊の1角で、ベルナールは文官3人を前に、淡々と説明していた。


「照合は完了いたしました。受領差分は宝物庫記録と一致しており、時刻の記載に矛盾がございます。よって当該書類は、資料保全の対象となります。本日より、関係者への閲覧を制限いたします」


 文官たちは顔を見合わせた。何かが起こっている。それだけは誰もが察していたが、何が起こっているのかは、まだ言葉にならない段階だった。


「処理担当官の件につきましては、別途、監査部へ報告いたします」


「宰相殿、この是非について、我々は」


「是非ではなく、事実です。記録は嘘をつきません。嘘をついた側を、記録は映すだけです」


 ベルナールはそう言い切ると、1枚の薄紙だけを机の上に置いた。それは議事の控え。今の報告の、正式な記録だ。


「この1枚が、この場にあったこと。そして何が話されたかを、証します」


 文官の1人が、ようやく理解し始めたらしい。眉が動いた。もうただ事ではないのだ、と。


 ベルナールはオリヴィエの方へ視線を向けた。


「辺境伯。照合の進行をご覧になられて、何かご質問は」


 オリヴィエは何も言わなかった。ただ1度だけ頷いた。その1つの頷きが、すべてを肯定していた。


 ◆


 夜の廊下を歩いていたのは、ほぼ無意識だった。


 頭は、まだ照合室に残っていた。机の上に並んだ書類。朱筆の2重輪。処理担当官の顔が変わる瞬間。そうしたものが、1つ1つ、私の肌に沈み込むような感触。


「リゼット」


 オリヴィエの声で、ようやく現在へ戻った。夜中の廊下。燭台の灯りが細い影を作っている。彼は私の歩みを止めるほどの距離で、私を見つめていた。


「もう大丈夫か」


 大丈夫。その言葉が、どうしても呑み込めなかった。大丈夫なわけがない。私たちは今、敵に小さな傷をつけただけだ。けれど敵も気づいた。こちらが本気だと。

 そして敵が本気になったら、次に来るのは、もっと大きな対抗だ。


「これからが本当の事になります」


 オリヴィエは静かにそう言った。その後ろで、彼は何を続けようとしたのか。私が言葉を待つことすら忘れて身を引く前に、彼は別のものを差し出した。


 薄い紙。それは、来る日に向けた資料だった。


「ベルナールが」


「第二王子の、発言控です」


 その1行で、私の血が引いた。発言控。つまり王族の言葉が、正式な記録として残されているということ。「誰にでもできる」そう言った殿下の声が、もう証拠へと変わっていたのだ。


「もう、戻れません」


 オリヴィエはそう言った。声に感情はなく、ただ事実だけがあった。


「この1枚を受け取った瞬間、次は殿下本人を論理で包囲する段階へ進みます。どうするか。選ぶのは、お前です」


 選ぶ。その言葉が、私を揺るがした。受けるか。拒むか。もう後戻りはない。薄い紙は、手のひらで、小さな重さを持って存在していた。


 受け取ってしまえば、もう逃げ場はない。放り出してしまえば、消えてしまうだろう。この1枚に、それほどの力があるのか。


 私は紙を握った。握った時点で、もう別の人間に変わっていた。隠す女ではなく、使う女へ。守られる側ではなく、自分で刃を握る側へ。


 この先に何が待っているのか、私はもう知りたくもなかった。知ったところで、進むしかないのだから。

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