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「完結済」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第5章 恥ずかしい記録の使い道

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第15話 帳簿に散った名前

 夜明け前、門前に並んだ来客は5人だった。


 どれも招待状のない顔ぶれで、どれも王都の埃を外套の裾に残していた。私はまだ、荷を半分ほどしか解いていない。昨日まで本気で、この屋敷を出る準備をしていたからだ。帳簿を持ち込んだせいで辺境伯家が揺れるくらいなら、私ひとりがいなくなれば済む。そう考えるのは、もう癖に近かった。


「リゼット様に、お目にかかりたいと」


 門番の声のあと、最初に差し出されたのは手紙ではなく、薄茶色に擦れた札だった。角が丸くなり、紐穴の縁だけが黒ずんでいる。私の字だ。3年前、王宮の倉庫で使った仮分類札。こんなものを、まだ持っている人がいるとは思わなかった。


「捨てる機会がなくて……いえ、違います。怖くて捨てられなかったんです」


 そう言ったのは、王都の倉庫番だった。彼は本気で恐縮した顔をしていたが、私は一瞬、何を言われたのかわからなかった。怖い。私の札が。そう思った次の瞬間、彼は続けた。


「あの日、あの札がなければ、謝罪品と補修待ちを取り違えておりました。私だけではなく、上の者まで飛んでいたはずです」


 後ろでは、外交部の書記官が古い控えを抱えていた。職人は補修指示の写しを持っていて、別の男は、台帳番号だけが書かれた切れ端をまるで守り札のように掌に載せている。誰も私を慰めに来た顔ではなかった。用があって来た顔だった。困ったからではなく、返しに来たから、という顔だった。


 私はそこでようやく、胸の奥がひどく静かになるのを感じた。泣きそうな時は、たいてい痛みのほうが先に来る。けれどこの朝は違った。遅れて届いたものの重みで、先に音が消えた。


 読まれていなかったのではないのかもしれない。散っていただけで。届かなかっただけで。


 そう思ったところへ、エレノアが無駄のない足取りで近づいて来て、来客の数に合わせて茶器の数を増やした。追い返さないのだ、と気づいた時にはもう、私は門の前で立ち尽くしていられなくなっていた。


 今になって、なぜこんなにも人が集まるのか。その答えを知るには、48冊だけでは足りなかった。



 照合室の机の上には、既に来客たちの品々が整えられていた。外交部書記官の古い指示書、職人からの補修控え、倉庫番の手元に残っていた台帳の写し。オリヴィエの前には色違いの付箋が何枚か静かに並んでいた。彼の視線は、その上の黒い表紙へと止まっていた。49冊目。


 エレノアが立ち退いた後、ノエルは書類束の前で息をのんでいた。


「リゼット様、これ……」


 ノエルの指が、照合表の一欄を指していた。受領時刻の横に引かれた朱線。乾き方が違う。筆圧も違う。その違いは、誰が見ても1目瞭然だった。


 マティアスが椅子を引いた音が、静かに部屋に響いた。彼は何も言わず、照合灯をゆっくりと朱線へ近づけた。青白い光が、朱インクの上で2重の輪を描く。再熱痕。誰かが1度乾いた線を、もう1度温めて上から引いた跡だ。その痕跡は、消えることなく、そこに残っていた。


「受領時刻の記載が、2つある」


 私の手が、気づかぬうちに机上の紙を握っていた。


「第42冊と24冊の符号が重なっています」


 マティアスの声は、いつもより低かった。ノエルは写し束に手を伸ばし、頁番号だけで顔色が変わった。2つの帳簿、2人の処理担当者。通常なら異なるはずの受領時刻が、この一行だけ揃えられている。手書きでない、計算でもない、意図的な改変。


 心臓が確信に変わった。この朝、門前に並んだ5人は誰も偶然で来たのではない。



 仮監査室に末端処理担当官が呼ばれたのは昼近くだった。マティアスの部屋は正式な調査室ではなく、ただの会議室だ。その何気ないあり方が、却って相手の言葉を引き出した。


 よくある誤記だ。事務の繁雑さでそういう混乱も起こる。彼は笑おうとしていた。いつもの調子で、流せると確信していた。けれど机の上には、既に1つのルーティンが敷かれていた。


「第42冊の予備鍵記録です」


 マティアスが薄い羊皮紙を差し出した。誰も気にしない地味な記載。けれど宝物庫の鍵受取日と謝罪品の返却日が書かれていた。日付が、照合表の受領時刻より7日前だった。それは、物理的に不可能な順序だ。


「この差は何ですか」


「それは……領収誤差が……」


「領収誤差で、人は7日逆行しません」


 処理担当官の額に汗が浮いた。逃げ道がない。7日のズレは計算ミスでは説明がつかない。誤記でもない。改変だ。マティアスが次に出したのは受領差分の控え。一行だけ、朱筆の筆跡が新しく上書きされていた。その上書きの痕は、誤りを訂正するためではなく、事実を隠すためのものに見えた。


 沈黙した。処理担当官は口を開きかけては、閉じ、開きかけては閉じた。上司か。王宮か。誰への責任へ逃げるべきか、その選択肢さえ失っていた。


 ベルナールが静かに入ってきたのはその時だった。手には門の出入り記録と命令書の控え。王璽の痕さえ生々しい。


「24日夜間、出頭命令が出ています」


 処理担当官の顔が白くなった。出頭命令。それは監査が次の段階へ動いたということ。もう誰も、この問題を個人の誤記では済ませられない。次は、上司か。それとも王宮全体か。その連鎖を、彼は感じ始めていた。



 夜明けから昼へ、昼から宵闇へ。回廊脇の小会議室に数名の文官が集められた。外交部の上位役人を含む、帳簿を読む権限を持つ男たちだ。


「照合にあたり、資料の保全命令が出ます」


 ベルナールの声は、何ら感情を含まなかった。ただ事実を述べるだけ。けれど全員がその言葉の重さを聞いた。もう誰も、この問題を個人の誤記では済ませられない。制度が動き始めたのだ。


 処理担当官は、そこにいなかった。机上に並ぶ控え。封じられる箱。静かなざわめき。その場の全員が、小さな誤記が、どこへ繋がる線の入口なのかを知り始めていた。



 夜の廊下で、オリヴィエと向き合ったのはすべてが片付いた後だった。照合が完了し、報告が通り、処理担当官の調べが決まった後。膝がようやく止まるのを感じて、壁へ背中を預けた。


「一人では回さないことを、知りました」


 そう言った時、オリヴィエは何も返さず、ただ隣に立ってくれた。壁の向こう側には、まだ灯りが一本、消えずに残っていた。


 その時にベルナールが、薄紙一枚をそっと手渡した。彼の体温が少しだけついた羊皮紙。その上には、王族発言控という文字だけが書かれていて、日付はまだなかった。


「次は、こちらになります」


 言ってから、彼は静かに去っていった。視線がぶれたのは、その時だった。末端の誤記ではなく、どこへ繋がる線の入口なのか。ようやく気づき始めた。


「第二王子本人の言葉が」


 オリヴィエが言った。


「残っている」


 廊下を歩き始めた。灯りはまだ消えていなかった。廃液が乾かないまま、夜の窓に残っていた。一枚の朱線が、誰の顔も揺るがせたのだ。その先は、もう後戻りできない。

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