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「完結済」「備品を数えるだけの仕事だろう」と婚約破棄された宮廷台帳官ですが、台帳48冊なしでは王宮が回らないようです  作者: 夢見叶
第4章 言えなかった引き留め

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第14話 帳簿を奪うだけなら、ここまで急ぎません

 私物は、鞄1つ。紙は1枚。あの春と、ほとんど同じだった。


 夜明け前の部屋は青い。灯りをつけるほどではなく、消しておけるほど暗くもない。こういう時間帯がいちばん嫌いだ。物の輪郭が曖昧で、決めたことまで半端に見えるから。


 鞄の中には替えの下着、手袋、万年筆、細い糸巻き、そして封じていない退去願。49冊目は入れていない。そこまで持って出れば、本当に逃げる形になる気がした。机の上には銀の髪留めが置いたままだ。受取人不明ではなくなったのに、まだ髪には挿していない。そういう中途半端さだけが、この数日で増えた。


 行き先は決めていなかった。南へ戻るか、神殿に一時身を寄せるか、もっと別の町へ出るか。どれでもよかった。大事なのは、辺境伯家の中から私がいなくなることだ。そうすれば、仮配分も、49冊目も、噂も、少なくとも辺境伯が抱え込んでいる女という形では語られなくなる。


 そこまで考えたところで、廊下を走る音がした。若い足音だ。2人分。止まる前から分かるくらい慌てている。


「リゼット様!」


 ノエルだった。ノックは2回、間がなく、3回目は半分ぶつかるように響いた。


「東の橋、持ちました! 去年の冬支度控えに、迂回路と荷重の順が――あの、頁番号が、書いてあって」


 扉を開けると、頬を赤くしたノエルの後ろに、珍しく呼吸を乱したエレノアが立っていた。2人とも手に紙を持っている。古い控えと、煤のついた写し帳。どちらも私の字だ。私が残して、私自身はもう使わないつもりでいたもの。


「倉前の荷を落とさずに済みました」


 ノエルが言う。うれしそうではなかった。必死に間に合わせた顔をしていた。


 その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがずれた。出ていけば丸く収まると思っていた。けれど、私がいなくなって丸く収まるなら、どうして今、私の残した頁が人を救っているのだろう。


「もう一通、公文が来ております」


 エレノアが、まだ整えきれていない息のままで言った。


「今度は、台帳ではなく――あなたを補給実務から外せ、と」


 その一文で、ようやく分かった。


 狙われていたのは帳簿ではなかった。最初から、私がここを出ていく形だったのだ。


 返事をすることができなくて、私は鞄の中を見た。退去願がそこにある。もう書き上げていて、あとは封蝋を打つだけの形で。敵の思う道筋そのものだ。


「応接室へ参ります」


 ノエルが躍起になって話し続ける間、私だけ静かに立ち上がった。紙を持たずに。


 薄青の紙は、机の脇に置かれていた。「一時的に当該管理官を補給実務より外す。その間、台帳及び仮配分運用に関する一切の提案について、申立者の責任を問う」。


 読み上げながら、エレノアの視線が私ではなく、その公文へ向かっていた。


「おかしいです」


 彼女の口調は平板だった。それがいつもよりずっと怖かった。


「帳簿の保全が目的なら、差し押さえや仮配分のみの2次照合で足ります。わざわざ補給実務から外す必要はない。書式は『仮配分に関わった者の責任追及』に見えますが、実際には」


 その先を言う代わりに、彼女は唇を引いた。表情というより、息をもらすような仕種だった。


「帳簿を奪うだけなら、ここまで急ぎません。私を外したいのですね」


 言ったのは私だが、それは同時にエレノアの言いかけた言葉でもあった。


「出ていけば静まるのではなく、出ていく形を作るのが目的です。――なら、まだ負けていません」


 己の退去願を思い出した。鞄に入ったままの、まだ封じられていない1枚の紙。


 立ち上がり、執務室へ向かった。ノエルが何か言いかけたが、廊下では聞こえないふりができた。歩く足も、いつもより速かった。戻る足ではなく、進む足のつもりで。


 机の上には、焦げた仮配分札がまだ置いてあった。札の端だけが均一に焼け、紐だけが新しい。物証だ。差し替えの。


 引き出しを開けて、鞄から退去願を取り出した。机に置く。封じない。今はまだ、提出しない。鞄の中へは戻さないが、封をもしない。その曖昧さが、今の私には必要だった。


 机の上に並べたのは、焦げた札と、退去願。それと、その隣へ――銀の髪留めへ手を伸ばしかけて、やめた。左手が一瞬止まる。指先が触れるほどの距離で。


 受取人欄に、私の名前を書いてくれたのは、この家の主だけだ。それなのに、その側に置かれる場所さえ、今は危ういのか。


 髪留めに触れずに、机へそっと戻した。握りしめず、そっと置き直す。その動作だけで、去る決意が揺らぐ。


 けれど、揺らいだことが、今の私には勝利だった。


 すぐに誰かに会う気はなかった。けれど、明朝には間に合わせる必要があることが、1つだけある。焦げた札の検査と、その記録。押印順の確認と、紐の色合いの照合。


 書式ぐらい、まだ整えられる。帳簿を汚したのは私だ。だから、この汚れを何にするかも、私で決めたい。


 捜査か、沈黙か。証拠か、隠蔽か。


 退去願は、今夜のままで。鞄の中でも机の上でもなく、その間。曖昧なままで、次の朝まで待つ。


 敵が作った出ていく形を、私が別の形に変えるまで。

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