第13話 正しい記録より先に守るべきものは――それでも、書いて残す
食堂の匙は6本で足りていた。だからこそ、足りないのが私だけだとよく分かった。
朝の卓は整っていた。焼いたパン、薄いスープ、塩漬け肉、湯気の立つ茶器。辺境伯家の朝としては静かで、乱れはどこにもない。椅子の数も、匙の数も、杯の数も、きちんと揃っている。揃っているから、そこに「あと1人ぶん」が最初から数えられていないことが、目に刺さった。
私は自分で戸棚を開け、予備の匙を1本取った。銀ではなく、普段使いの錫。軽い。軽いのに、持つと指先だけがやけに冷える。
「数えなくても、食事はできます」
向かいでエレノアが言った。嫌味ではなかった。たぶん本当に、そういう意味ではない。けれど今の私には、何でも少し遅れて痛む。
「ええ。存じています」
座りながら返すと、卓の上の会話が一瞬だけ細くなった。使用人たちは私を避けているのではない。気を使っている。だから困る。あからさまな敵意なら、数字のように対処できる。曖昧な気遣いは、所在不明品より扱いが難しい。
昨夜の公文は、まだ机の上にある。仮配分の件は1時保全。49冊目の件は継続照会。補給実務は一部差し止め。文面だけ見れば、すぐに屋敷を追われるわけではない。けれど「すぐでない」というだけで、ここにいていいとはどこにも書かれていなかった。
オリヴィエはまだ来ていなかった。領主の朝は早い。たぶん倉だろう。あるいは橋の確認か。あるいは、私に会わなくて済む場所へ先に行ったのかもしれない。そこまで考えて、私は自分で呆れた。昨日までは、彼が一歩近いだけで胸が騒いだのに、今朝は視線一つ来ないだけで、勝手に損失処理を始めている。
損失理由。未確定。
損失品目。居場所。
算定不能。たぶん一番高い。
茶が運ばれてきた時、私はようやく決めた。今日中に、退去願の草稿を整える。迷惑をかける前に離れる。そうすれば、この家の台帳も、彼の立場も、少しは汚れずに済む。
ただ1つだけ、まだ未処理の項目が残っていた。もし引き留めるつもりがあるなら、今夜までに言ってほしい、という、書式にも欄にも載らない願いだ。
執務室に戻ったのは午後3時を少し過ぎていた。
書類台の上には、マティアスからの公文がそのまま置かれていた。昨夜の1時保全に加えて、新しい文面が足されている。「当面、当該管理官を補給実務より外すこと」。短い。短いほど、隠された強さは大きい。
補給を外される、というのは、単なる仕事の削減ではない。私がこの家で、唯一「読む側」ではなく「数える側」として置かれていた領域を失うということだ。
私は鉛筆を取った。紙は白く、角は整っていた。書く前に、もう一度その一枚を見つめた。書けば、出ていく形が整う。書かなければ、迷いと一緒にここに残る。
戸を叩く音は、間を置かずに入ってきた。
「リゼット」
オリヴィエだった。黙りこんだまま、執務室に入る。顔は見えない。逆光だから。見えないほうがいい。彼の目が何を言おうとしているか分かると、ここで筆が止まる。
私は紙を動かさなかった。書く速度を落としたままで。
「午後の配給について。確認を取ってほしい」
用件で入ってきた。仕事の話。恋ではない、その言い方。
でも、その声は、いつもより低い。抑えられている。
「かしこまりました」
返事をしたあと、私は鉛筆を動かした。名前の欄から書き始める。「リゼット・クランフォール」。己の名を上に、まず自分から始める。
オリヴィエが机の向こうで言った。
「その紙は」
「確認書です」
嘘だった。正確な嘘ではないけれど。
彼は机の端に手をついた。立ったまま。動こうとしていない。
「何の確認か」
聞いてはならない言い方だ。もう知っている人の問い方だ。
ここで止めるか、書き続けるか。書き続ければ、彼を傷つける。止めれば、自分が沈む。
私は書き続けた。
「退去願です。辺境伯家のご迷惑を最小限にするため、補給実務の外部人員削減と同時期に身を引く予定で」
句読点を打つ。手が少し揺れた。
「書くな」
彼が言った。低い声。止めるのではなく、禁止だった。
「書いております」
「書くな」
オリヴィエが机の上の紙を取ろうとした。でも、止まった。左手が、また椅子の背で止まった。触れるなということだ。
どうしてそこで止めるのか。どうして引き留めないのか。言葉で。身体で。声で。何か1つでいい。
その問いが、今まで私を支えていた。昨日も、その前の日も。もし彼が何も言わなければ、出ていくしかない。でも、言うまでは、待つ余地がある。
私は書き続けた。退去日は「本月15日予定」。理由は「補給実務の一部差し止めに伴う身分調整」。
完成する直前で、ようやく、彼の足音が聞こえた。歩いてくる音ではなく、近づいてくる動きだ。
指先で鉛筆を握りしめたまま、最後の1文を残した。署名欄へ。
彼が来た。背後から。
肩越しに、機織の仕組みを見守るような視線が、私の手元に注がれている。
「引き留めるなら、今にしてください」
私は言った。書くのではなく、声に出して。
逃げ道を塞ぐみたいに。「今ならまだ間に合う」と。
彼の息が止まった。近い。身体まで近い距離まで来ている。
「引き留めてください。辞めさせないでください。ここにいていいと、1言だけでいい」
言ってはならない言葉だった。役に立つからではなく、この人のそばにいたいからと、初めてそっくり言ってしまった。
彼の手が伸びた。私の肩へ。そのまま、ゆっくり。何かを抱き締めるしぐさ。
けれど止まった。指先が、もう1インチ。ほんの1インチの距離で。
触れる代わりに、彼は息を吐いた。
「……今は、だめだ」
1言だけ。それで全て。
「制度が、お前を守っていない。今ここで言えば、余計にお前を傷つける。 ――だから、駄目だ」
手が遠ざかる音がした。身体が離れていく。
私は署名欄に鉛筆を置いた。書かずに。
退去願は、紙のまま机に残った。開かれたまま。誰も封じていない。
「帳簿に記載していないことがあれば」
彼が言った。背後から。声だけ。
「記録しておけ。全部。残せるなら、残す方を選べ」
それは何か。救いなのか。確認なのか。それとも、次へ向かう前の、最後の約束なのか。
彼は出ていった。戸の向こうへ。
残された執務室は、西日だけが長く伸びていた。左手で庇う日差しより、もう少し大きい陰。
退去願は、机の上で、署名されたまま。されていない。
あの時点のままで。
彼に触れるまで、あと1インチだったあの距離のままで。
私は退去願を取った。封じずに、たたんだ。
鞄の底へ入れる。本来なら、引き返すための白紙のまま。
明日、王都からの次の指示を待つまで、この1枚は、どちらにもならない状態のまま、残される。
左手で西日を庇いながら、右手で鉛筆を机に戻した。
記載していないことがあれば、全部残す。
その言葉だけが、今、私の指先を支えている。




