第1話 49冊目だけがない
備品番号4802番。銀細工の髪留め、小花意匠。保管場所、執務机の右引き出し。状態、未使用。
受取人の記載なし。用途不明。よって仮保管。
その1行を、私は何度も見返したことがある。
4ヶ月も動かなかった記録なのに、頁を開くたび、胸の奥だけが少し騒いだ。備品台帳に胸の奥のことを書く欄はない。だから備考欄は、今日も事務的なままだった。
「――リゼット。お前との婚約は今日で終わりだ」
午後1時14分。昼食後。晴れ。気温やや高め。
第2王子アルベールは、片づけきられていない茶器の向こうでそう言った。
こういう時まで時刻を数えるのは、職業病というより、もう癖なのだと思う。
「ついでに、宮廷備品管理官の職も不要になった。備品の数を数えるだけの仕事だろう。誰にでもできる」
左様でございますか、と返してから、喉の奥で何かが引っかかった。
怒りではない。もっと細かくて、分類不能で、けれど無視すると後で必ず響く種類の違和感だった。
「何か言いたいことはないのか」
「三日ほど、引き継ぎの猶予をいただけますか。備品台帳が48冊ございますので、後任の方に分類体系だけでも――」
「48冊?」
彼は、初めて見る備品でも見るように眉をひそめた。
「数を数えるだけで48冊も必要な時点で、お前のやり方に問題があるのでは?」
問題があるのは、読む前に閉じる側だ。
そう言えたら少しは楽だったかもしれない。けれど私は言わない。
第3応接室の南窓側の椅子が、外交使節を不機嫌にさせる程度に傾いていることも。大広間のシャンデリアは毎年同じ腕が緩むことも。宝物庫の第7棚と第12棚を取り違えると、20年ぶんの混在が1日で戻ることも。
そういうことは、台詞で勝つためにあるのではなく、誰かが読んで初めて意味になる。
「承知いたしました」
私は1礼した。
泣かなかった。泣く前に、やることがある。48冊を置いていくことと、もう1冊だけ、置いていけないものを鞄に入れることだ。
その時はまだ知らなかった。王宮に残した48冊より、私が持ち出す49冊目のほうが、あとでずっと厄介な意味を持つことになるなんて。
家政長官の執務室は、机の上こそ整っているが、書類の処理は常に遅れている。
私は午後3時過ぎに引き継ぎ書をたずさえて再び扉を叩いた。
「お忙しいところ恐れ入ります。備品台帳の引き継ぎについて、最低限の説明をさせていただきたいのですが」
「ああ、置いてくれ。そのうち誰かに読ませるから」
家政長官は、書類に視線をやったまま答えた。
その誰かが、どういう時間軸で、どの水準で読むのかは、彼の関心の外にあるらしい。
「いえ。48冊の分類体系は統一されており、読み間違えると王宮の運用に直結いたします。特に――」
「そうだろう。じゃあ後任に託す。そのうち誰かが読むだろう」
その誰かが読めなかったら。その時を想像すると、息をすることすら重い。
けれど私は続けた。紙の上で、ひとつひとつ。
「第3応接室は南窓側の椅子が外交客を不機嫌にさせるため、毎月第2週に専任職人による調整が必要です。第17冊142頁をご覧ください。大広間のシャンデリアは毎年5月と11月に――」
「いや、覚えておく。記録があれば十分だ」
覚えていない。覚えるつもりがない。
わかっていても、言い続けるしかない。時間をかけて、誰も聞いていない間に、正確さだけを積み重ねる。その癖は、もう私の骨の中に入っている。
「宝物庫の第7棚と第12棚は過去20年の混在があります。順序を正さないまま新しい品を加えると、照合に3日要します。以下、頁番号順に――」
「ああ、置いてくれ」
彼は書類を脇へ滑らせた。
スペースが空いた机には、48冊のうち最初の10冊だけを置いた。この先の38冊は、誰が、いつ、どうやって知るのか。
それはもう私の責任ではなくなるのだ。
その認識がどこまで正しいのか、そしてどこまで危険なのか、私はまだ知らない。
執務室に戻ったのは夕方を少し過ぎた時刻だった。
南西の窓から西日が斜めに差し込む。左手で庇いながら、私は机の右引き出しを開いた。
4ヶ月ぶりだ。
銀細工の髪留め。小花の意匠。受取人の記載のない、仮保管の備品。
指先の力が、その瞬間だけ抜けた。
涙は出なかった。泣く前にやることがあるというのは、今も変わらない。けれど喉の奥だけが、がりがりと熱くなり、一度だけ呼吸を止めてから、改めて息をする。
「受取人不明のままなら、これは備品です」
私はそう声に出してから、髪留めに触れない手のひらで引き出しを閉じた。
残す。ここに置いていく。誰かが来た時に、もしかして、いつか――そんな期待は、台帳には記載しない。
左手のひらは、まだ西日の熱さを覚えていた。
49冊目は机の上に置かなかった。その一冊だけは、鞄へ入れる。
職能の外側のもので、個人的すぎて、引き継ぎの対象にならない。所感欄が削除しきれなかった理由と、その先に書かれた言葉たちは、王宮に置くには危険だ。
だから持ち出す。その判断が、後で恋と証拠と両方を守ることになるとは、この時点では知りようがない。
49冊目のカバーに触れて、鞄へ深く入れた。
午後6時。大広間。歓迎晩餐会の直前。
外交部の職員が、紋章入りの燭台を手に急ぎ足で横切った。
その手が、いつもより高い位置にあり、いつもより震えていた。私は見かけなかった。もう見なくていい。そう決めたはずなのに、目は勝手に台帳を思い出す。
第6冊3頁。晩餐会の装飾品。配置と重量。使用禁止の燭台が、なぜ手にされているのか。知らないふりをするのが、今の私の仕事ではない。
けれど言わない。言う資格も、立場も、もうない。
近衛の声が、王宮西側から聞こえた。何か、鍵についての短い指示。宝物庫へのアクセス権が誰にあるのか、その引き継ぎは。
私は、第12冊の最後から2頁前に、その手順を書き残した。読まれたなら。読まれたなら。
午後6時15分。宰相の補佐が、机の積書類の間から引き継ぎ書を探していた。
その顔は、焦燥と混乱に満ちていた。
「備品管理官の資料はないか。台帳のリストだけでも」
誰かが首を振った。
その誰かが、最初の10冊に目を通すまで、どのくらい時間がかかるのか。あるいは、通さないまま進むのか。
それはもう、私の数えられる範囲ではない。
執務室の机の上には、48冊だけが埃をかぶり始めていた。
その脇には、開かれることのない引き継ぎ書が積まれている。南側の窓からは西日が差し込み、机の右側の引き出しの前だけ、影が深い。
午後6時45分。第2王子の婚約者である宮廷備品管理官は、王宮を去った。
そして同時刻の少し後。
執務室に1人の男が入ってきた。
背が高く、旅装の砂埃が似合う男。灰青の目をしており、辺境伯領の領主であるオリヴィエ・モンフォール。
彼は、この執務室が空になったことに気づくのに、長くはかかりませんでした。
机は片づけられていた。私物らしき物はない。窓の外の西日だけが、部屋の中を濃い色に染めている。
「……いないのか」
彼は小さく呟いて、部屋を見回った。
来ればいつもそこにいた女が、今は何処にもいない。その不在そのものが、この部屋を違う空間に変えていた。
彼は、特に迷いもなく、右引き出しに手を伸ばしました。
銀細工の髪留め。小花の意匠。受取人の記載なし。
彼は、その1冊が仮保管であることを知っていた。4ヶ月ぶんの、何度も何度も見返された記録を、彼も読んでいたから。
右引き出しから髪留めを見た後、彼は机の上に積み重なった48冊を確認しました。
指で数えるように、1冊ずつ。
1冊。2冊。3冊。
積み重ねられた記録。多すぎると、王子は言った。この女のやり方には問題があると。
48冊。
彼は、最後の冊を確かめて、そのまま手を止めました。
足りない。
開かれていない引き継ぎ書。埃をかぶる48冊。そして、右引き出しから手に取った、受取人不明の髪留め。
——ない。49冊目がない。
その欠落は、彼にだけ、なぜか濃く見えました。
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