毎夜たずねてくるデレ猫の正体がそっけない態度の婚約者だと、私だけが知っている。……わけではない。
リンストン公爵家の令嬢エルナ・リンストンには婚約者がいる。
フォルト伯爵家子息であり、騎士隊に所属する獣人の青年テランス・フォルトだ。
両家は曾祖父母の代から交流があり、今代でその交流を確かな血縁にすべくエルナとテランスの婚約が結ばれた。
獣人と人間の婚姻は珍しくはない。だが社交界においてはまだ少なく、そこに新しい風をという考えもあったのだろう。
リンストン家にはエルナを長女に三人の娘しかおらず、対してフォルト家はテランスの上に二人、下に一人男児がいる。
ならばテランスがエルナと結婚してリンストン家に婿入りすればいい、というのが両家の考えである。
いわゆる政略結婚。
だがエルナに不満はなかった。
家のために結婚するのは貴族の娘の勤め。なによりテランスとは幼少時から親しくしており、彼とはきっと平穏な結婚生活を送れると思っていたからだ。
同年代の彼は幼少時こそ似たり寄ったりの身長体格だったが、年を追うごとに背が高く逞しくなり、二十歳になった今は立派どころか『誰もが見惚れる凛々しい青年』になったのだ。ふとした瞬間に見せる彼の凛々しさにドキリとしたのは数回程度ではない。
だから結婚に異論はない。
むしろ嬉しい。
……だけど、
「テランスってば、また今日もそっけなかったのよ。二人でいても私が話すだけで、そのうえ忙しいって予定より早く部屋を出て行っちゃったし」
困った、とエルナが溜息を吐いたのは、月が真上に上ろうとする夜中。
自室の窓から見える外の景色はすっかりと夜の闇に覆われており、月明かりと等間隔の屋街灯だけがぽつぽつと光を灯している。
そんな景色を眺めながらのエルナの言葉に、背後に立ち髪を梳かしてくれていたメイドが「そうですねぇ」と答えた。
「テランス様が騎士隊の務めで遠方にいってらしたのは五年間でしたっけ?」
「そうよ。詳しく言うなら、通常の遠征四年間と、そのあとなぜか一残った一年間で計五年ね」
「一年滞在した理由はまだ教えてくださらないんですか?」
「遠征中に手紙で聞いても教えてくれなかったし、返ってきて直接聞いても『近く説明する』ばっかり。そもそも手紙だって、最初の四年間はこまめに送ってくれたのに、最後の一年間は当り障りない挨拶の絵葉書が月に一通だけよ」
溜息混じりにエルナが肩を竦めれば、メイドが宥めるようにそっと肩を撫でてくれた。
婚約者であるテランスは国の騎士隊の決まりで四年間遠方に出ていた。地方の巡回、近隣諸国にも赴き、さらにリンストン家の婿候補としての外交も……、とかなり多忙な四年間だったようだ。
そのうえ、理由は分からないが遠征を終えてもさらに一年間異国に滞在していた。
その間エルナは彼とろくに会えず、ずっと手紙でのやりとりのみだったのだ。時折顔を合わせることができても必ず誰かが居合わせており、二人きりで話すことはできない。
そんな五年間を終え、昨年テランスが王都に戻ってきた。
これでようやく彼と二人きりになれる。
まずはゆっくりと話をして会えなかった時間を埋め、そして結婚の準備を……。とエルナは考えていたのだが、どういうわけか、テランスがそっけない態度を取るようになってしまったのだ。
二人でいても話すのはエルナだけで、彼は「あぁ」だの「そうか」だのという簡素な相槌ばかり。エルナが問えば返事をしてくれるものの、そこから続けようとも自ら話題を振ることも殆どない。
そのうえ、話題が尽きてエルナがじっと見つめているとふいと顔をそむけてしまう。
そうして仕事があるだの予定が詰まっているだのといって去ってしまうのだ。彼が戻ってきて一年が経とうとしているが、二人きりの時間を殆ど取れていない。
「もしかしたら他に良い女性が……、と思ったけどそんなこともないし、私に何か悪いことがあったのかって聞いても『そんなことはない』の一点張りだし……。無視をするわけでもないのよね。会う時間も作ってくれるし、でもそっけない」
「テランス様もきっとお考えがあるのでしょう」
「そうねぇ。まぁでも、考えは分からなくても気持ちはわかるわね」
エルナが小さく笑みをこぼし、部屋の壁にかけられている時計を見上げた。
夜の十時。そろそろだ。
そう考えるのとほぼ同時に、暗闇に覆われた窓の外でゆらりと白い影が動いた。
まるで暗闇のなかに忍び寄る幽霊のようではないか。正体を知っていなければ悲鳴をあげていたかもしれない。
だがエルナもメイドもそれが何かを知っている。当然二人とも驚くことはなく、エルナは窓を開け、メイドは「では失礼します」と一礼して部屋を去っていった。
そうしてエルナが開けた窓から現れたのは、夜の闇とは真逆の純白の毛におおわれた白猫だった。
「こんばんは」
エルナが声をかけるのとほぼ同時に、白猫がするりと部屋の中に入ってくる。騒ぐでもなく暴れるでもなく、エルナに一度頭を撫でられるとその場にちょこんと腰を下ろした。
艶のある純白の毛。翡翠色の美しい瞳。長い尻尾はゆらりと揺れて優雅さを感じさせる。
高貴な雰囲気さえ纏う白猫だ。エルナがそっと手を伸ばせば自ら頭を寄せて撫でられにくる。目を閉じた心地よさそうな顔。大人しく、それがまた知的な印象を与える猫だ。
「今日は寒かったけど、大丈夫だった?」
白猫の頭を撫でながら話しかける。
返事はないが、その代わりに白猫はぐいとエルナの手に強めに頭を寄せてきた。何度も頭をこすりつけてくる。
「そういえば今日ね、テランスと別れたあとに友人達と喫茶店に行ったの。先月オープンしたばかりの喫茶店で、ケーキも紅茶も美味しいって噂になってたからずっと行きたかったお店なの」
知ってる? と撫でる手を猫の頭から背へと滑らせながら問う。
肌ざわりの良い白毛。少しばかりひんやりと冷たいのは夜風に当てられたからだろうか。
寒くないだろうかと温めるように両手で胴体を包んでやれば、ごろごろと心地よさそうな喉の音が振動で伝わってきた。腕に、頬に、頭を寄せてくる。
「お店の雰囲気も上品で落ち着いていて、話に聞いていたとおり紅茶もケーキもすごく美味しかったの。紅茶の茶葉が入ったクッキーを買ってきたから明日ごちそうするわ。あ、でも貴方にはまたたびの入ったクッキーの方がいいかしら」
冗談めかして話しかけてツンと猫の鼻先に振れれば、これはお気に召さなかったのかふいとそっぽを向いてしまった。
もっとも、そっぽを向いても離れることはせず、ご機嫌を取るために顎の下を撫でればすぐにゴロゴロと振動が伝わってくる。
そうしてしばらく他愛もない話をし、話の合間に白猫がふと部屋の一角へと視線をやった。
壁にかけられている時計。すでに時刻は十二時を過ぎている。
白猫がそれを確認するとすっと立ち上がり窓へと近づいた。カリカリと前足で窓を掻くのは開けるように促しているのだ。
「もう十二時なのね。あっというまで……、あら」
ふと、窓の外を見てエルナは声を漏らした。
雪が降っている。
暗い夜闇の中、白い雪が降り注ぐ様は神秘的な美しさがある。
「どうりで冷えると思った。これからもっと降ってくるだろうし、明日の朝には積もってるかしら」
雪が降り注ぐ庭を眺めつつ窓を開ける。
入り込んだ風は先程よりも冷たい。きっと夜が更けるにつれてもっと寒くなるだろう。
そんな中で出歩いて風邪でも引いてしまったら……。そう案じてエルナが背中を撫でれば、先程までちょこんと座っていた白猫はゆっくりと起き上がり窓へと向かっていった。
少し開けた窓の隙間から猫が顔を出す。ちょうど降り注いだ雪の一粒が猫の額に落ちたが。純白の毛に白い雪はすぐに溶け込んでしまった。
「寒くない? もし寒いなら馬車を出すけど。それとも泊っていく?」
風邪をひかせたくない一心で提案するも、白猫は一度エルナの手にごちんと頭をぶつけ、次の瞬間には身軽に窓から飛び降りてしまった。胴が外に出て、最後に白く長い尻尾が追うように揺れて外へと消えていく。
エルナの部屋は屋敷の二階にある。豪華な屋敷だ。二階であっても相当な高さがあり、人間であれば降りれば怪我は免れない。
そのうえ外は真っ暗だ。飛び降りた猫が無事だったかは二階の窓からは見えない。
だがしばらく待つと街灯の下にスタスタと歩く猫の姿が見えた。自分が見られているのを察してクルリと振り返る。
「おやすみなさい、また明日ね」
囁くような声色で告げる。
人間相手であったなら絶対に届かない声量。だがこちらをじっと見上げる猫は返事代わりにと翡翠色の目をゆっくりと閉じた。
◆◆◆
昨夜降り始めた雪は次第に激しさを増して朝方まで続いていた。
さすがに昼過ぎには止んだものの、どこもかしこも雪が積もって白一面の雪景色だ。
降っている時は窓から眺めるだけだったが、昼過ぎに雪が止むとすぐさま庭に出て、積もった雪の感触を楽しみ雪だるまを作りと堪能していた。見兼ねた母に家に戻るように促されるほど堪能してしまった。
そうして冷えた体を紅茶で温めていると、使用人が来客を伝えてきた。
テランスだ。
騎士隊の制服を纏い、背筋を正してソファに座る姿はまさに凛々しい騎士。白銀の髪が凛とした顔立ちをより精悍なものに見せている。
頭部にある白銀の毛で覆われた三角耳と腰から下がる同色の尻尾は彼が獣人である証の一つだ。自分の意思で今の人間の姿にもユキヒョウの姿にも変えられるのだが、遠征から戻ってきて以降ユキヒョウの姿は見せていない。
というより、姿を変える話をしてもいないし、そんな話題がでるほど長く二人でいたことがない。
昔はユキヒョウの姿も見せてくれたのに、とエルナは心の中で呟いた。やはり離れていた五年間で何かあったのだろうか。
「待たせてごめんなさい。外は寒くなかった? 馬車で来たの? それとも歩いて?」
「徒歩だ」
「そうね、これだけ雪が積もってるんだもの馬車は危ないわね。私まだ屋敷の庭にしか出ていないんだけど、外はどうなってる? まだ雪が残ってる?」
「歩道は騎士隊が午前中に整備した」
「そうだったの? 大変だったわね。疲れていない? お腹が空いているなら食事を用意させるけど」
「大丈夫だ」
食事は終えてきた、とテランスが話す。
だがそれ以上は何も言わず、エルナがじっと見つめているとついには顔をそむけてしまった。
終始こんな調子で、話はさして盛り上がることなく続いた。
時間にすると一時間程度だろうか。殆どエルナが話すだけで、話題に尽きるとどちらともなく窓の外の雪景色を眺めていた。
だがその景色にも見飽きたのか、テランスが「そろそろ失礼する」と立ち上がった。
「もう帰るの?」
「雪が解けてきた。家屋からの落雪による被害や排水の問題が起こるかもしれない」
緊急時にすぐに動けるようにしておきたいのだろう、彼の声色には騎士としての責任感が感じられる。
……それと、この沈黙に耐え切れなくなった、という切実な気持ちも感じられる。
だがきっと比重は前者の方が大きいはず。そうエルナは心の中で自分に言い聞かせ、「門まで送るわ」と立ち上がった。もっとも、それに対しては「屋敷の中まででいい」と遠慮されてしまったのだが。
そうしてテランスを見送り……、となった直前、扉を開けて出ていこうとする彼を「ちょっと待って!」と呼び止めた。
慌てて一室へと向かい、すぐさま戻ってくる。手にしているのは小さな紙袋だ。
「それは?」
「喫茶店の紅茶クッキー。後で出そうと思ったけど、帰っちゃうのなら持っていって」
「……そうか」
テランスが紙袋を受け取る。
その際の「ありがとう」という声はまるで呟きのように小さい。だが紙袋の中にあるクッキーを見つめる彼の翡翠色の瞳は嬉しそうに細められており、心からの感謝だと分かる。
「それじゃあ、まだ雪が残っているから気を付けて」
「あぁ」
「またね」
穏やかに微笑んでエルナが告げれば、テランスが再び扉へと向かう。
そうして扉を押し開け、そこから去ろうとし……、
「また」
と、ボソリと呟いた。横目でちらとこちらを見ながら。
だが足を止めることはせず、すぐさま外へと出て行ってしまった。
彼の背が去っていく。それを追うようにゆらゆらと揺れる長い尻尾も、同じように去っていった。
◆◆◆
その日の夜も、白猫はエルナの部屋を訪ねてきた。
時間はいつも通りの十時。
その時間になると窓の外に現れ、開ければスルリと滑るように室内へと入ってくる。エルナの手に頭を寄せてから定位置にちょこんと座るあたり、きっと手に頭を寄せるのは猫なりの挨拶なのだろう。
しばらく猫を撫でつつ他愛もない話をする。
もっとも、猫は人語を話せない。エルナが一方的に話しかけ、時に目配せや額を手に寄せるような仕草で相槌をもらうだけだ。
そんなゆっくりとした時間を楽しんでいたが、壁に掛けられた時計が十二時を指すのを見ると、白猫がスクと立ち上がった。
帰りの時間。エルナも今夜はここで仕舞いだと考え、自然と窓の外へと視線をやった。
「夜になってまた寒くなってきたわね。道が凍らないといいんだけど」
白猫の背を撫でながら窓の外を眺めれば、猫もまた窓へと顔を寄せた。
じっと夜の暗がりを見つめる翡翠色の瞳。まるでガラス玉のように美しく、暗がりを見つめいるからか普段よりも色濃く見える。黒い瞳孔が丸くなっているのは暗がりの中に庭の様子を見出そうとしているからだろう。
ずいぶんと集中しているようで、エルナが窓の外から猫の背へと視線を変えたことにも気づいていない。
全身を覆う白い毛。腰を下ろして窓の外を見つめる姿は凛とした美しさがあり、まるで出来のよい雪像のよう。
だが完全なる純白というわけではない。じっと見つめれば白毛の奥に薄っすらと斑模様が見える。
その斑の一つをツンと突けば、白猫の体がぴくりと跳ねて驚いたようにこちらを向いた。
「驚かせちゃった?」
悪戯っぽく笑ってエルナが問えば、白猫がふんと他所を向いた。
白毛に覆われた耳が平らになって後ろを向いている。これはきっと不機嫌になってしまったのだろう。
慌てて指先で額を撫でようとするもするりと体を捩らせてしまった。エルナの指先がなにもない空を撫でる。
「冗談よ。ごめんなさい」
宥めつつ、そっと白猫の体を両腕で優しく抱き寄せた。
腕の中にすっぽりと納まってしまう小さな体。ふんわりとした柔らかな毛の感触。触れた所から伝わってくるゴロゴロという喉の音……。
なにもかもが愛おしい。
「怒らないで、大好きよ」
囁くように告げれば、猫の耳がぴくんと揺れた。
何か言おうとしたのか一瞬小さな声を漏らし、だがすぐさま口を噤んでスルリとエルナの腕の中から出てしまった。
嫌だったわけではないだろう。なにせ抱擁からこそ脱したものの額をエルナの顔に寄せてきたのだ。こちんと軽く額を頬にぶつけ、一度ぐりと押し付け……、そして鼻先を、口元を、エルナの頬に寄せた。
ムニと不思議な感触がする。
少しヒンヤリとしているのはきっと猫の鼻の感触だ。
突然の頬へのキスにエルナが目を丸くさせていると、白猫はすっと離れるとすぐさま窓へと向かってしまった。
後ろ足で立つと身を伸ばし、器用に前足で解錠して扉を開ける。そのまま振り返ることもせず、ぴょんと窓から飛び降りてしまった。
「……びっくりした」
とは、頬を押さえたままのエルナ。
開けたままの窓から冷たい風が入り込み、熱を持った頬を心地よく撫でた。
◆◆◆
それからしばらく、日中にテランスと会うことは無かった。
騎士隊の仕事に加え、フォルト家子息としての役目もある。遠征を終えたからこその仕事もあるだろう。
そう考えて、彼の生活が落ち着くのを待つつもりだったのだが……。
「テランスが捕まった!?」
慌てた様子で駆けつけてきた両親の話に、エルナは驚いて声をあげてしまった。
聞けば、ここ数日、深夜に凶暴な動物が現れて人を襲う事件が連続していたという。
狙われるのは主に女性。さすがに夜間だけあり子供はいないが、男性でも高齢者や負傷している様子の者は襲われている。それと閉店した店の前に置かれていた荷が荒らされ、ショーウィンドウや現場に鋭利な爪痕が残されていた……。
聞かされる話にエルナが青ざめていると、母が優しく肩を擦って宥めてくれた。
だが話はこれで終わりではない。父が気遣うような表情を浮かべつつ、それでもと口を開いた。
「爪痕を考えると大柄な獣の可能性が高い。だが食品の入った荷物を食い散らかしている様子はないらしい」
「ただお店を荒らしただけってこと?」
「そうだ。それに襲われるのも女性や高齢者、怪我人のみで、近くにいたはずの警邏中の騎士や男性は一度も襲われていないという」
「それって……、その動物が相手を選んで襲っているのよね」
普通の動物ならば、食べ物があれば食い荒らすか己の根城にもって帰るだろう。
それに襲う相手も選ばず騎士の前にだって姿を現すはずだ。聞けば、襲われた怪我人は松葉杖をついて歩いていた体躯の良い男性だという。
騎士や他の男性を襲わず、だが怪我をしていた男性を襲ったということは、つまり『松葉杖をついている人間はろくに抵抗できない』と分かっているということだ。
野生の獣ではない。
そもそも、王都にそれほど凶暴な獣があらわれることは有り得ない。
ならば……。
「それで獣人が疑われるっていうのはわかったわ。でも、どうしてテランスなの?」
彼はユキヒョウだ。確かに分類でいえば大柄な獣といえるだろう。
だが獣に分類される獣人はテランスだけではない。虎や獅子の獣人だっている。
「現場には白い毛が落ちていた。それに、ユキヒョウが女性を襲うのを見たという者がいるんだ」
「本当にユキヒョウだったの? 見間違いとか……」
「白い毛は間違いないし、なにより目撃者がユキヒョウだったと証言している。黒い布に身を隠して相手を襲い、そのまま闇に乗じて逃げていったらしいが、目撃者がいた時だけ被っていた布が捲れてしまったらしい」
暗がりの中、黒い布に身を包んだユキヒョウは風のような速さで目標に近付き、その鋭利な爪で背後から襲い掛かった。
哀れ被害者達は不意を突かれて気を失うか、うつ伏せに倒れこんで犯人を見ることが出来ずにいたという。
そんな状態での希少な証言者だ。残された白い毛と合わせて調査を進め……、
そしてテランスに辿り着いた。
「ユキヒョウの獣人は少ない。フォルト家でも純白のユキヒョウはテランスとフォルト家夫人だけだ。そのうえ、犯行時刻にテランスがどこにいたのか誰も実証できずにいる」
残された証拠が、目撃者の証言が、被害者と荒らされた店に残された爪痕が、そして犯行時刻が。すべてがテランスが犯人だと訴えている……。
その話を聞き、エルナはいてもたってもいられず「彼のところに行くわ!」と急いで準備に取り掛かった。
テランスが連行されているのは王宮の広間だという。
本来ならば許可なく立ち入ることは許されない場所だ。
だがエルナは他でもないテランスの婚約者である。それもリンストン公爵家の令嬢だ。
なんと言われようと押し通る覚悟で向かえば、存外、あっさりと通してもらえた。
「テランス!」
「……エルナ」
広間にはテランスと、その周囲には彼を取り囲む騎士が十人ほど。
広間の最奥では両陛下が玉座に座り、その横には国の重役が並んでいる。一角には見慣れぬ集団が固まっているが、その殆どが痛々しい包帯姿や松葉杖をついているあたり、きっと彼らが獣に襲われた被害者なのだろう。誰もがこの場に緊張し不安そうな顔をしている。
だがその集団の中央に立つ一組の男女にだけは怯えの色はなく、むしろ怒気をはらんだ厳しい顔でテランスを睨みつけていた。
「お父様から話は聞いたわ。なんでこんなことに……」
「……すまない、迷惑をかけた」
「謝罪なんていいの。それよりどういうこと? テランスがひとを襲うなんて」
有り得ない、と言いかけたエルナの言葉に被さるように「エルナ様!」と大きな声がかけられた。
見れば集団の中の一人、テランスを睨みつけていた男が足早にこちらへと近づいてくる。そうして目の前に来るや強引にエルナの腕を掴んできた。
「エルナ様、その男は危険です。おさがりください」
不躾な男の言葉に、エルナは訝しげに彼を見た。
名前はゴードン。王都の外れで店を開いているという。
「危険? テランスが? おかしな話をしないでもらえるかしら」
「私は見たんです。女性が襲われている瞬間に獣が纏っていた黒布が捲れて、その下に白い毛と斑模様の体がありました。間違いなくユキヒョウ、そしてテランス・フォルトです。あれほど恐ろしい獣は見たことがない」
ゴードンの声には警戒の色がはっきりと出ている。今この瞬間にもテランスがユキヒョウへと姿を変えて襲ってきかねないと言いたげだ。
この話で自分達が襲われた時のことを思い出したのか、被害者達が怯えの表情を浮かべ、年若い女性に至っては弱々しい声を漏らした。
彼らの視線はまさに恐怖。そして畏怖。
さらされたテランスは言葉を詰まらせ、ついには顔をそむけてしまった。眉根を寄せた表情は苦しそうにも見える。
そんなテランスの顔を見て、エルナはゴードンの腕を振り払うと共に見せつけるようにテランスの腕を取った。
触られたくない、近付きたくもない、そんな嫌悪をゴードンに示し、尚且つ自分はテランスを信じていると行動で証明するのだ。もちろん言葉でもはっきりと伝えておく。
「テランスはそんなことはしない。私は彼を信じるわ」
「貴方の前では善人ぶっているんでしょうが、この男の性根は恐ろしい獣です。現に私の妻も、彼の姿を見てから毎夜うなされているんです。夜になると思い出してしまうようで、ろくに寝付けず……」
話すゴードンの声色に妻に対する哀れみの色が混じり始めた。
彼を不安そうに見つめる女性が妻だという。恐ろしい獣に近付く夫を案じ、だが恐怖心から声も発せられない、そう言いたげな悲痛な表情だ。それでいてテランスに向けられる視線は鋭く険しい。
「勘違いかもしれないし、見間違えかもしれないわ。ねぇテランス」
そうでしょう? とエルナがテランスを見上げた。
だが当のテランスは苦し気な表情のまま視線を外すだけだ。眉尻が下がり、まるで彼が獣に襲われ怯えているかのようではないか。
次いでエルナの視線に気付くも、さらに表情を痛々し気なものに変えてしまった。
「テランス……?」
「ご覧くださいエルナ様、彼は先程から妻や被害者達と顔を合わそうともしません。口では無罪を訴えておきながらこの白々しい態度、なんて浅ましい……!」
「浅ましいなんて言わないで。ねぇテランス、違うんでしょう?」
エルナが願うように話しかければ、テランスがじっと見つめてきた。
翡翠色の瞳。細められた目から彼の苦しさが伝わってくる。だからこそエルナは彼の腕を掴む手に力を入れた。
「私、貴方を信じてるわ」
「俺はやっていない……。無害なひとを襲うなんて、そんなことは……」
「そうよね、テランスがそんなことするわけがない」
ようやく彼の言葉を聞けてエルナの胸に安堵が沸いた。
テランスは事件を起こしていない、彼は犯人ではない。それが本人の口から聞ければ十分だ。
そう考えてエルナはゴードンへと向き直った。彼はいまだ警戒の色を宿した視線をテランスに向けている。
……いや、警戒というには異様に鋭く、それ以上の想いが込められていそうな瞳だ。妻が精神を病む原因になった獰猛な獣への恨み、といったところだろうか。
そう訝し気にエルナがじっと見据えていると、顔をそむけていたテランスも恐る恐ると言いたげにゴードンへと視線を向け……、
「おまえは……」
と、何かに気付いたように呟いた。
どうやらゴードンの顔に覚えがあるようだ。
テランスが続く言葉を言いかける。だがそれを遮るように、ゴードンが「昨夜も女性を襲っただろう!」と声を荒らげた。
「昨夜……。貴方達が襲われたのも夜だったのよね? 何時だったの?」
「日付が変わる前です。あの晩は十時頃に妻と店を出て、その途中、道の前を歩いていた女性が襲われたんです。警備の方々と話をしている最中に日付が変わったので覚えています」
「十時から夜間にかけて?」
「はい。そのせいで妻は夜間に外に出られなくなってしまったんです。うちの店もいつ襲われるかわからないし……、これでは店もまともにまわせません」
夫妻で店を経営していたが、妻は恐怖心から夜間の外出が不可能になった。そのうえ夜も寝付けず睡眠時間も禄に取れず、精神的にも肉体的にも疲労が溜まる一方。
そんな不便を強いられた経営の中、更にいつ獣に店を襲われるかわからない不安も付き纏う。
確かにこれではまともに店を開けない。ゴードンが溜め息は深く、彼の疲労が感じられる。
どうして自分達がこんな目に、そう言いたいのだろう。
こんな状況でなければエルナも彼等夫妻を案じ、店の経営が安定するまで支援をと言い出したかもしれない。
それほどまでにゴードンの表情と声には心労が表れており、背後に立つ妻も痛々しげな表情を浮かべているのだ。
だけど……、
「夜の十時から……、日付が変わるまで?」
エルナはゴードンを案じる気になれず、それどころか彼の訴えにも耳を貸さなかった。
それより彼が話していたことが引っかかる。……いや、引っかかるどころの話ではない。
だって、夜の十時から日付が変わるまでは、テランスは……。
エルナがテランスを見上げれば、彼もこの話は初めて聞いたのか、疑うような視線をゴードンに向けている。
「テランス、あなた、事件が起こっている時間帯を聞いていなかったの?」
「俺の直接の仕事じゃないから『夜間』とだけ……。それに、俺もここに連れてこられたばかりで碌に詳細も聞けていなかったんだ」
テランス曰く、自分に容疑が掛けられていると知り、わけの分からぬままに連行されてきたという。
その場に着けば詳細を聞けるだろうと考えたものの、終始ゴードンが訴えるだけで口を挟める状態ではなかった。それでもと無罪を主張しようとするも、被せるように証拠や目撃時の話をされ、そこにエルナが現れて今に至る。
テランスの話を聞き、エルナは内心で納得した。確かにゴードンの主張は激しく、こちらの訴えの最中にも容赦なく話を遮ってくる。そのたびに証拠や目撃時の状況を語り、さらに被害者の悲痛な体験談も加わるとなると、話も碌に進まなかっただろう。
だが自分か来たからにはそうはさせない。
そう考え、エルナはきっときつくゴードンを睨みつけた。
「その時間にテランスが人を襲うなんて無理よ。彼は犯人じゃないわ」
「エルナ様、婚約者を庇いたいのはわかりますが、理論的にお話をしてください。現場に残された爪痕、白い毛、そして私と妻の目撃情報、それらすべてがテランス・フォルトの犯行だと物語っているのです」
「爪痕は偽装できるし、白い毛だって他の獣人の毛でも偽れるじゃない。そこに嘘の目撃証言を重ねて、テランスを犯人にしようとしているんでしょう」
「我々の証言が嘘ですと?」
ゴードンの顔が険しくなる。
ざわと周囲がざわつきはじめた。
「いくら婚約者を庇おうと必死であっても、発言には気を付けていただきたい」
「私は事実を言っているだけ。ねぇテランス、そうでしょう?」
「……エルナ、なんできみは」
先程まで苦し気だったテランスが、今度は困惑の表情を向けてくる。
それに対してエルナは「え?」と首を傾げた。
なんでって、それは……。
「だって毎晩十時になると私の部屋に会いに来てくれたじゃない」
十時に部屋を訪れ、零時になると部屋を出ていく。
彼の無実を証明するに、これほどまで明確な証言はあるだろうか。
そうエルナが考えて断言すれば、周囲はシンと静まり……、
「なんで、それを……」
と、掠れた声でテランスが呟いた。
「犯行時刻がはっきりしているなら先に聞いておけばよかったわ。テランスは騎士隊の夜間任務がない日は毎晩わたしの部屋に来てくれていたのよ。十時に部屋に来て、日付が変わる零時になると帰っていくの」
「それは、そうだが……、エルナ、どうして……」
「私の証言だけじゃ足りないなら、リンストン家の者を呼んでちょうだい。みんな知ってるわ。お父様とお母様も私の妹達も、使用人も。門の警備だってテランスの行き帰りを見守ってるから証言してくれるわ」
リンストン家全員が証人だ。
エルナが自信をもって断言すれば、周囲にいた誰もがこの真実に驚愕し、中には夫妻に疑惑の目を向け始めるものもいた。
そしてテランスはといえば、
「み、みんな……? 夫妻も、リンストン家の誰もが……、し、知ってたのか……!?」
と、なぜか顔を青くさせたり赤くさせたりしている。
「これでテランスの無罪は証明できたでしょう。それとも証人が必要? 家に連絡すれば何人だって、何十人だって連れてこれるわ」
エルナのこの発言はもはや勝利宣言である。
それを聞くゴードンは悔し気に唸り……、
「この……、生意気な女が!!」
と怒声をあげると同時に、エルナに手を伸ばしてきた。
咄嗟にエルナが悲鳴をあげる。それとほぼ同時に、エルナの体がぐいと後方に引き寄せられた。
テランスだ。彼が危険を瞬時に判断し、自ら庇うようにエルナの腕を掴んで後方に下がらせたのだ。
そのおかげでゴードンの手は届かず、エルナの眼前で鋭利な爪が空を掻いた。
…鋭利な爪が。
「獣人……!?」
目の前にいたゴードンが一瞬にして橙色の虎に変わったのを見て、エルナは驚愕の声をあげた。
だが驚愕は一度では終わらない。今度は背後で悲鳴があがり、何かと振り返ったエルナの視界にこの場にいるはずのない灰色の狼が映りこんだ。周囲の者達が怯える中、狼がこちらを向く。
ゴードンの妻。彼女もまた獣人だったのだ。
赤い瞳、開かれた口から覗く牙。獰猛さの象徴かのような鋭い牙が、エルナを食い殺さんと容赦なく襲い掛かってくる。
あの牙に食らいつかれたら無事では済まないだろう。肉が裂けて骨が砕けるかもしれない。噛まれた場所によっては一撃で命を落とす可能性だって高い。
そんな恐怖がエルナの全身を襲う。
ほんの一瞬だというのに、まるで数十分、数時間のように感じられ……。
次の瞬間、エルナの体はドンと強く弾き飛ばされた。襲われたのではない、テランスに突き飛ばされたのだ。
突き飛ばされた先で倒れこめば、すぐさま騎士隊が駆け寄って支えてくれた。
「エルナ様、ご無事ですか!」
「危ないのでおさがりください」
「でもテランスが……!」
彼が危ない、そう言いかけたエルナの言葉に、激しい獣の鳴き声が被さった。
虎と狼、そしてユキヒョウが唸りをあげて争っている。鋭利な爪で切り裂かんと逞しい前足を振り下ろし、相手の首元を噛み切らんと牙をむく。虎と狼は一丸となってユキヒョウに襲い掛かっており、ユキヒョウの分が悪いのは一目でわかる。
それでもユキヒョウ臆することなく二匹の獣に立ち向かい、唸りをあげている。
その姿に、獣達が命を奪わんと襲い合う迫力に、あがる咆哮に、誰もが息を飲んでその場に立ち尽くしていた。
騎士でさえも今はエルナや居合わせた者達を庇うように立つのが精いっぱいで、三匹の争いに対しては剣を向けて警戒こそすれどもどうすべきか分からずにいる。
動けず、声すら発せず、息をすることすら忘れそうな迫力。
ただ目の前の攻防に気圧されるしかない。
そんな争いは数分続き、勝利を掴んだのは……、ユキヒョウ。テランスだ。
片腕で横たわる虎の体を押さえつけ、傍らに倒れる狼を鋭く睨みつけている。
その眼光、喉から漏れる唸り声。すべてが一瞬でも動いたら今度こそ食い殺さんという圧を漂わせている。
「テランス……!」
圧倒されていたエルナは一瞬で我に返り、慌ててテランスのもとへと駆け寄った。
それとほぼ同時に騎士達も彼等のもとへと駆け寄る。だがテランスを取り押さえることはせず、それどころか床に倒れこむ虎と狼に剣を向けた。
先程までの話、そしてゴードンと妻が獣に変えてエルナに危害を加えようとしたことから、この場で警戒すべきはテランスではなく夫妻だと判断したのだ。
「大丈夫? こんなに血が……! すぐに医者を呼ばないと!」
ユキヒョウの体に身を寄せ、体に異変は無いかを見る。
虎と狼を相手にしただけありテランスの体はあちこち負傷が目立ち、白い毛に赤い血が飛んでなんて痛々しいのか。
とりわけ目立つのは顔の傷。眼球の負傷こそ免れたようだが、傷は深く頬から目尻にかけて白毛が赤く染まっている。せめて血を拭おうとエルナは慌ててハンカチを取り出した。
そうして彼の目元の血を拭おうとしたのだが……、テランスはそれを避けるように顔をそむけてしまった。
避けられたと察してエルナが息を飲み、行き場のなくなったハンカチをぎゅうと握りしめた。
「……テランス」
エルナの口から細い声が漏れた。
胸が痛む。……だが、それと同時に湧き上がるのは、
「もう! いい加減にしてよ!!」
という怒りだ。
声を荒らげると同時に、テランスの白毛で覆われた体をぎゅうと抱きしめた。
「夜はあんなに私のそばにいて、私に嬉しそうに撫でられたり、この前は私の頬にキスしてくれたじゃない! 私が抱きしめても拒否なんてしないのに。それどころかずっと喉を鳴らしてくれてたのに。なんで人間とユキヒョウの姿の時はそんなにそっけないのよ! 毎晩会いにきてくれてるのに!」
どうして! とエルナが訴える。
周囲はこの件には触れるまいと考えたのか、あるいはそれどころじゃないと考えたのか、口をはさむことはしない。夫妻もすでに人間の姿に戻っており、これ以上の抵抗は無駄だと考えたのか項垂れて騎士達に囲まれている。
そんな集団をよそに、エルナはユキヒョウの体に抱き着いたまま、二人で過ごした夜の思い出を訴えていた。
毎晩会いに来てくれた。
頭を撫でると嬉しそうにして、抱きしめさせてくれた、寒いと話すと温めるように身を寄せてくれた。
手を差し伸べると額を寄せて、頬にキスもしてくれたのに。抱きしめると心地よさそうに目をつぶり、互いに顔を寄せて額を触れさせ合うことだってした。
なのに、どうして!
そうエルナが訴えるのとほぼ同時に、抱き着いている感触が変わった。
白い毛に覆われたユキヒョウの体から、衣服に包まれた人間の、それも逞しい体に。
斑模様がなくなり、騎士隊の制服の刺繍が目に飛び込む。見上げれば銀髪の青年が顔を赤くさせて立っていた。
「……だ」
「なに?」
「猫が俺だと、エルナは知らないと思っていたんだ!」
テランスの叫ぶような訴え。
エルナは彼に抱き着いたまま、真っ赤になった彼を見上げ、ぱちくりと瞬きし……、
「知らないもなにも、あなたが初めて猫の姿で私の部屋に来た時から気付いていたわ」
そう、圧倒されつつも伝えた。
テランスの顔がどんどんも赤くなっていき、ついには元がユキヒョウだとは思えないほど真っ赤になってしまった。
◆◆◆
ゴードンと彼の妻はかつてテランスが遠征期間中に訪れた国に住んでいた。
ゴードンは騎士隊に所属し妻は店を開き生活していたが、どちらも今一つうまくいかなかったという。
妻の店は売上が右肩下がりで、経営難で店を畳むのもそう遠くないといわれるほど。そしてゴードンの騎士としての仕事もまた好調とはいえず、所属している騎士隊ではほぼ足手纏い。近いうちに除隊を言い渡されるだろうと噂されていたらしい。
そんな中、騎士隊の遠征でテランスが現れ、ゴードンと一騎打ちをした。
吹っ掛けたのはゴードン。
曰く、彼の国には獣人が珍しく、ゆえに最初の頃は重宝されていたという。それが忘れられず騎士業にしがみついていたのだろう。
そんな過去と現状のあまりの落差から、ゴードンは一つの考えに至った。
テランスに勝てば再び賞賛を得られるのではないか。獣の姿で勝てば一目置かれるのではないか。少なくとも、対獣人要員として除隊だけは免れるはず……、と。
だがその策略は、テランスの圧勝という形で見事に打ち砕かれた。
哀れゴードンは『獣の姿でも弱い』と烙印を押され、除隊を言い渡された。
時を同じくして妻も店の維持費が払えなくなり店を畳むことに……。
「それでテランスを恨んで陥れようとしたの? そんなの逆恨みじゃない!」
酷い! とエルナが訴えたのは、あの騒動から数日後。
場所はリンストン家の一室。
テーブルには紅茶とクッキーが置かれており、向かいに座るのはテランス。ユキヒョウの姿でもなく白猫でもない、そして今日は非番らしく彼らしいシンプルながら品の良い服装だ。
体のあちこちにまだ傷が残り、とりわけ顔の半分を覆う包帯は痛々しいが、当人はさほど気にもかけず説明を続けている。
そんなテランスからの説明を受け、先程のエルナの怒りの発言である。
「職も店もなくなりゴードン達は住まいをこちらに移したが、それを追うように俺が遠征を終えて戻ってきた。そこで憎悪が増したんだろう。そのうえ夫婦で店を開いたがそれも軌道に乗らずにいたらしい」
「うまくいかないこと全ての恨みがテランスに向かったのね」
「俺を犯人に仕立て上げれば国やフォルト家から金を引っ張れるとも考えていたみたいだ」
「それで貴方が襲ったように見立てた。なんて浅ましいのかしら」
テランスは毎夜騎士寮を出てどこかへ向かっている。だが行き先は誰にも言わず、仲間に聞かれても濁していたという。
それをどこかから聞きつけ、ゴードンは今回の策略を考えたのだ。
爪痕は似た形状の凶器を作ればいい。現場に残された白毛だって、同じユキヒョウの獣人から盗むことは不可能ではない。それを用いて夜間に女性や怪我人を襲い、あたかも自分達は目撃者のように振舞ったのだ。
「どうやらゴードンは俺の外出を愛人との逢瀬だと考えていたらしい。だから公言できないのだろう……と。もしも俺が無実の罪を晴らせても、愛人のもとへ足しげく通う不貞の男だと世間に晒せる」
「成功すればテランスに罪を被せて自分達はお金を得られる。失敗しても『恐怖で見間違えた』とでも言えば罰せられる可能性は低いし、テランスの不貞を公表できる。確かに、どっちにしろ痛手を負わせられるわね」
だがその策略はうまくいかなかった。
テランスが足しげく通っていたのは愛人のもとではなく、婚約者のもとだったのだ。何もおかしな点はなく、公表したところで不名誉にもならない。
そのうえ、テランスはゴードンのことを思い出してしまった。
無関係を装っていたのがバレる、過去因縁をつけて戦いを挑んだことがバレる。それは今回の作戦の失敗でもあるのだが、ゴードンからしたらそれ以上に屈辱的な思いがあるだろう。
それが引き金になり、ゴードンは姿を獣に変えてテランスを襲い、妻もまた同調するように姿を変えた……。
これが今回の顛末である。
なるほどね、とエルナは紅茶を一口飲んだ。
最初に父から話を聞いた時こそどういうことかと混乱したが、蓋を開けてみればなんとも簡単な話ではないか。ただの逆恨みだ。
「……巻き込んですまなかった、エルナ」
「いいのよ。でも、どうして白猫以外の姿ではそっけなかったの? そもそも遠征に行く前は白猫の姿にはなっていなかったけど、いつから変えられるようになったの?」
「遠征中に出会った異国の獣人から、大元の動物と同系統の姿に変える技術があると教わったんだ。それで、遠征の四年を終えた後、一年残ってその技術を会得した」
「だから五年間も遠征してたのね」
意外なところで謎が一つ解けた、とエルナは心の中で呟いた。
だがまだ謎は残っている。
「そっけない態度は白猫と関係があるの?」
「それは……」
テランス本人もそっけない態度を取った自覚はあるようで、彼は言い淀むと気まずそうに視線をそらしてしまった。
それでも話す決意をしたようでゆっくりと口を開いた。
「……遠征四年目の半ばに、ユキヒョウの姿で民間人の母子を助けたんだ」
「ユキヒョウの姿で?」
「逃げる強盗犯を追っていたんだ。その男が母子に狙いをつけて、それを止めるためにユキヒョウの姿になった」
人間の姿で走るより、姿を獣に変えた方が比べるまでもなく早い。
テランスは咄嗟の判断でユキヒョウへと姿を変え、母子に辿り着く直前で強盗犯の男を押さえつけた。……といっても、ユキヒョウの姿ゆえにほぼ襲い掛かるような状態だ。
太く逞しい前足で男の体を薙ぎ払い、起き上がれないように体を押さえつけ、それでも暴れる男を唸り声で威嚇する。
逞しいユキヒョウ。
圧倒的な獣の姿。
……それを見て、母子が悲鳴をあげた。
恐ろしいものが眼前に迫っていると怯え、顔を青ざめさせ、母は子を抱きしめて庇い、騎士達に助けを求める。
凶暴なユキヒョウから逃れるために。
「そんな、テランスは助けたんでしょう? それなのにどうして!」
「事情を知らなかったんだ、彼女達は悪くない。走り寄ってくる男とそれに襲い掛かるユキヒョウなら、誰だってユキヒョウを恐れるだろう。次は自分が食い殺されるんじゃないか……、そう思って助けを求めるのは当然だ」
「テランスはそんなことしないわ!」
「だが俺の姿が恐ろしかったのは事実だ。あの時の怯えた顔が忘れられなくて……」
助けたはずの母子が浮かべた恐怖の表情、助けを求める悲痛な声。向けられる視線はまるで化け物を見るかのようだった。
それがテランスの脳裏に焼き付いて離れず、今日にまで至った。白猫に姿を変える技術を得ようと考えたのもこの一件があったからだという。
「エルナが俺を恐れるなんてありえない。以前にもユキヒョウの姿は見せていたから大丈夫。……そう頭では理解していても、どうしても怖くなってしまったんだ」
遠征に出る前のテランスは十四歳、まだ少年と青年の狭間だった。ユキヒョウの姿も同様。
だが遠征を経て立派な青年になった。身長も伸び、体格もよくなった。これもまたユキヒョウも同じである。
だからこそ怖がられたら、あの母子のように怯えられたら……。そんな不安が常に付き纏い、白猫に姿を変える技術を得てもなお、エルナと対峙することを避けてしまっていたのだという。
「こんな態度を続けていればエルナを不安にさせる、だからいつか説明をしなくてはと思っていたんだ。だがいざとなると決意が揺らいで言い出せず……、それでこんな迷惑を……。本当にすまない」
深く頭を下げるテランスに、エルナは困ったと溜息を吐いた。
次いで頭を上げるように促す。恐る恐るこちらの様子を伺いつつ頭を上げるテランスはとうてい凶暴なユキヒョウとは思えない。こんな彼を怒るなんてできるわけがない。
それに……。
「不安になんてならなかったわ。だって白猫の貴方、いつだって喉を鳴らして私に擦り寄ってきたじゃない」
そっけない態度を取られる理由は分からないが、かといって、そっけない態度を取られても不安にはならなかった。
そう話せば、テランスの顔が次第に赤くなっていった。
「……どうして、その、エルナは俺が白猫だと」
「不思議と分かったのよ。どうしてだろうと思ったから私も調べてみたんだけど、私の一族ってその人のオーラが感覚的に分かるみたいなの。そんな一族が代々ずっとこの屋敷にいるから、自然とこの土地全体が力を持つようになったんですって」
「それで……、初日から俺の正体が……」
「バレバレだったわ。だって白猫からテランスのオーラが漂っていたんだもの。私もお父様達も。それに屋敷で働いてる人達も『不思議な感覚だけどはっきりと分かる』って」
なんとも不思議な話だが、人がユキヒョウの姿になったり猫の姿になれたりするのだ。それを判明できる一族がいても、土地にその力が宿ってもおかしくない。不思議さでいえば同程度だ。
そんなエルナの話に、次第にテランスの顔が赤くなっていく。エルナは紅茶を一口飲みつつ、「銀色の髪は赤い顔をより赤く見せるのね」と呑気に話しかけた。
「で、でも、分かっていたなら、なんで言わなかったんだ?」
「貴方が何も言わないから、きっと気にしていると思って口にしなかったの。だって、私てっきり……」
言いかけ、エルナはテランスの顔をじっと見つめた。
もっとも、彼はすでに露骨に視線をそらしているので見つめ合うことはできないが。
毎夜訪れる白猫。
手を差し伸べれば頭を摺り寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれる。ふわふわと柔らかくてなんて愛おしい。
だから愛情のままに接していた。それを白猫は嬉しそうに受け入れていた。だから……、
「貴方は猫の姿で愛でられるのが好きなんだと思っていたの。それにお父様が『男にも無性に甘えたくなる時があるんだ。だが彼にも世間体があるから、本人にも周りにも言ってはいけないよ』って言ってたし」
だから話題に出さなかったとエルナが話せば、テランスが渋い表情を浮かべ……、
「趣味だと思われていたのか……」
と呻くように呟き、ついには耐え切れないと顔を両手で覆ってしまった。
◆◆◆
件の事件が起こった二年後、エルナとテランスは正式な夫婦となった。
そして結婚から二年後には男児を授かり、さらに三年後には女児をと順風満帆な日々を過ごす。
あの事件もすでに過去のことで、時折、思い出して話題に出す程度だ。それも一年に一度あるかないか。
そんな日々の中、エルナは夫であるテランスと二人の子供達と共に庭でお茶をしていた。
なんて幸せな時間だろうか。今年七歳になる息子は父テランスに見た目こそ似ているが、性格はエルナに似ているのかあれこれと話をしてくる。まだ五歳の娘もそれに続くようにつたない言葉遣いながらに話し、場は静まることがない。
賑やかで暖かな時間。それをエルナが堪能していると、娘が「あのね、あのね」と話し出した。
「お兄様がね、さいきん冷たくってね」
「あら、そうなの?」
「えっとね、私にじゃなくてね」
幼子独特の考えを纏められずに話すたどたどしさ。だがそれもまた愛おしく、エルナは促すように相槌を打った。
娘曰く、どうやら息子は最近ひとりの令嬢にそっけない態度を取っているらしい。
懇意にしている家の令嬢だ。何度も顔を合わせており、同年代ゆえ幼い頃は仲良く遊んでいたというのに……。
これは、とエルナは考えを巡らせた。
自分の話をされていると焦った息子は「それ以上話すなよ」と妹を制しているが、彼の頬が赤くなっているのを母親が見逃すわけがない。
なんて分かりやすいのだろうか。
嫌いでそっけなくしているのではなく、好きだからこそ、どう接していいのか分からずにいるのだ。
「気持ちはわかるけれど、そっけなくしちゃ駄目よ。ちゃんと話を」
「話をしなさい」
エルナの話が終わらぬうちに言い切ったのはテランス。
この断言にエルナはもちろん、二人の子供もぱちと目を瞬かせた。
「お父様……?」
「恥ずかしいかもしれない、迷うかもしれない、だがきちんと話をするんだ。できるだけ早く」
真剣なテランスの声。怒気や威圧感こそないものの、静かに諭すような重さはある。
これに圧倒されたのか、息子が唖然としつつもコクコクと頷いた。
それを聞くと娘が「それでね!」と話し出した。今度はその令嬢と遊びにいく約束の話だ。
テランスの断言で誰もが唖然としたものの、可愛い末子の明るい話に再び空気は穏やかになり、しばらくすると座っているのに飽きたのか子供たちが椅子から立って遊び始めた。
きゃぁきゃぁと二人でじゃれ合い、庭を走り回る。屋敷の裏手に行こうと走り出す姿に、エルナは「危ないことはしちゃだめよ」と一声かけて見送った。
そうして二人きりになり、改めてテランスへと視線を向ける。
子供たちがいる時こそ父親の維持で冷静を保っていた彼だが、子供達の姿が見えなくなると次第に顔を赤くさせていった。
なんて愛おしいのだろうか。
「そうね、こういう事はきちんと話しておかないと。それも早く。じゃないと恥ずかしい思いをするものね」
「改めて言わないでくれ……」
「でも私はそんな貴方の不器用なところも好きよ。ところでテランス、私、久しぶりに白猫に会いたいと思ってるの。どうしたら会えるかしら?」
エルナが笑いながら話せば、テランスは更に顔を赤くさせ、それでも足りないと俯いてしまった。
白の毛で覆われた耳が倒れている。見ればテーブルの下で太く長い尻尾がゆらゆらと忙しなく揺れている。
きっと胸中はとんでもなく荒れているのだろう。そんなところも愛おしく、エルナは穏やかに微笑んで、最愛の夫を見つめた。
「もしもあの白猫が十時に私の部屋に来てくれたら、いっぱい撫でてあげるつもり。ねぇテランス、どう思う?」
会えるかしら? と敢えて遠回しに、そして悪戯っぽく笑いながら話せば、顔を真っ赤にさせたテランスが溜息混じりに口を開いた。
「きっと十時に会えるんじゃないか? ……きっと零時には帰らないと思うけれど」
恥ずかしそうな彼の言葉に、エルナは愛おしくて堪らないと彼に身を寄せ、その頬にキスをした。
…end…




