あとひと月半……前途多難だわ
それから一週間が過ぎた、うららかな春の日の朝のこと。
朝食をとるためダイニングを訪れたソフィアは、大いに困惑していた。
なぜなら、昨夜までは何の変哲もないダイニングだったはずの部屋が、まるで温室のように様変わりしていたからである。
「……えっ?」
(ここ、ダイニングよね?)
視界いっぱいに広がる、色とりどりの花。
壁際の棚、窓辺、テーブルの上、果ては天井から吊るされた花籠まで。部屋中が植物で埋め尽くされている。
その光景に、ソフィアは目を疑った。
(わたし、部屋を間違えたのかしら?)
そう思ったが、瞬間、レイモンドの「おはよう、ソフィア」という声に、間違いなくここがダイニングであることを悟った。
「……おはようございます、旦那様。あの……今日って、何かの記念日でしたかしら?」
絶対に違う、と知りながら、ソフィアはどうにか、契約妻の演技をする。
すると、レイモンドは椅子に腰かけたまま、朗らかな笑顔を浮かべた。
「いいや? ただ、花なら君を喜ばせられるかと思ってな。昨日の宝石は、気に入らなかったようだから」
「…………」
その返しに、ソフィアは微かな苛立ちを覚えた。
——昨日の宝石。とは、あの“宝石箱の山”のことだ。
思い出すだけで胃が痛くなる。
昨日の夕方、司令部から帰宅したレイモンドは、宝石箱を数十個伴っていた。当然、どれも一級品だ。
それを見せられ困惑するソフィアに、レイモンドは「俺の君への愛は、宝石一つではとても表せるものではない。俺の愛を、受け取ってくれるだろう?」とのたまったのである。
(店の商品をほとんど買い占めてくるなんて、喜べるわけないじゃない……!)
——ソフィアの脳裏に、あの夜の会話がよみがえる。
ソフィアは一週間前、レイモンドから、これまでのレイモンドの行動が演技ではなく、好意からくるものだったと告げられた。
そしてまた、契約延長の提案と、任地への同行をお願いされた。
レイモンドは、「返事はすぐじゃなくてかまわない。考えておいてくれ」と言って部屋を出ていこうとしたが、ソフィアはハッと我に返ってレイモンドを呼び止め、断りの返事を入れたのだ。
「任地へは同行します。けれど、延長はできません」と。
すると、レイモンドは静かに尋ねた。
「それは、俺のことが嫌いだからか?」
「いいえ。旦那様は、これ以上ないほど理想的な契約相手です。延長できないのは、わたくし個人の問題です」
それはソフィアの本心だった。
ソフィアにとって、レイモンドはこれ以上ない契約相手だった。
帝国行きの準備は進んでいるとはいえ、一、二ヶ月程度なら、延長もやぶさかではない。
例えば延長の理由が、政治的に必要なものだと言われていたなら、配慮しただろう。
けれど、延長理由が好意となると、受け入れるのは難しかった。
きっぱりと答えたソフィアに、レイモンドはしばらく何かを思案していたが、
「そうか。ならば明日からは、延長できない分の愛を、一心に伝えることにしよう。契約満了まで、“妻”としての演技を決して忘れぬように」
と意味深な言葉を残し、去っていったのである。
その言葉を裏付けるように、翌日から、レイモンドの“愛情表現”が始まった。
レイモンドは、これまで月に数回だった贈り物を、毎日のように用意してきた。
宝石、香水、絹のドレス、果ては馬車一台分の紅茶セットまで。
その規模は誰が見ても異常で、使用人たちが「不治の病にでもかかってしまったのでは」と噂するほどだった。
——そして今。
ソフィアは、花で埋め尽くされたダイニングのテーブルで、レイモンドと向かい合っていた。
「お気持ちは大変嬉しいのですけれど……昨日の宝石といい、少々やりすぎですわ」
やんわりと注意したつもりだった。
だが、レイモンドは理解していないのか、まるで褒められたかのように破顔する。
「俺の君への愛を表現するのに、過剰ということはない。本当は屋敷中を花で飾り立てようと思ったが、花を用意する時間が足りなくてな。一部屋で我慢したんだ」
「…………」
(まさか、本気で言ってるの……?)
ソフィアは笑顔を保ったまま、内心で頭を抱える。
(本気かどうかは別として、これじゃあ、わたしが夫に散財させる悪妻みたいじゃない。こんなことなら、以前のそっけない態度の方がまだ良かったわ)
花の香りが濃密に漂う中、ソフィアはそっと微笑む。
「ありがとうございます、旦那様。そのお心はとても嬉しいですわ。けれど、わたくしは一つ一つの花を、じっくり愛でるのが好きですの。ですから次は花束一つに、旦那様のお心をすべて閉じ込めて贈っていただけると、嬉しく思いますわ」
にこりと笑みを零すソフィアに、レイモンドは目を見開く。
まるで本心から驚いているかのように、彼は数秒沈黙し、目を細めた。
「確かに、君の言う通りだな。俺が浅はかだった。次からは、すべて君の言う通りにしよう」
「ええ、そうしていただけると」
ソフィアの言葉に、にこりと微笑むレイモンド。
その微笑みが、天然か計算か——ソフィアには読めなかった。
そもそも彼のこの行動は、本当に愛情表現なのだろうか。ただ、自分の気を引こうとしているだけなのではないか。
敢えて困らせようとしている可能性だってある。
(あとひと月半……前途多難だわ)
何一つ判断がつかないまま、ソフィアは内心大きな溜息をつき、ようやく食事を開始するのだった。