君と、一分一秒でも長く過ごしたいんだ
「こちら、カモミールティーですわ。お好きでしたよね?」
暖炉の炎だけが部屋を照らす薄暗い室内で、ソフィアはいつものように、レイモンドにお茶を勧めた。
橙の光がカップの縁をかすかに揺らし、二人の影を壁に伸ばす。
けれど、レイモンドから返ってきたのは、「ああ」という、短い相槌だけだった。
いつもなら、「ありがとう」「いただこう」と笑みを添えてくるものだが、それもなく、カップへ手を伸ばすこともない。
固く閉ざされたレイモンドの横顔に、ソフィアは内心溜め息をついた。
(やっぱり、有り得ないわ。"婚姻の継続"だなんて)
ソフィアは、レイモンドが部屋を訪れる少し前の、アリスとのやり取りを思い出す。
「いいですか、奥様。旦那様はきっと、婚姻の継続を提案してくるはずです! そしたら、奥様は何も言わず、まずは旦那様の話を聞いてさしあげるのです。旦那様は今、物凄い葛藤を抱えておられるはずですから!」
「ええ? 婚姻の継続だなんて、そんなことあるはずないと思うけど。それに、万が一そんな提案をされても、受け入れることはできないのよ? 帝国行きの準備は進んでいるし」
「それでも、今はまだ夫婦なのですから、話くらいは聞いてさしあげないと!」
――正直、アリスの妄想としか思えなかった。
現に今、目の前のレイモンドは、「今すぐ屋敷から出ていけ」と言い出してもおかしくないほど、険しい空気を纏っているのだから。
(まぁ、いいわ。とにかく、離縁について話を進めないと)
ソフィアはレイモンドの対面に腰を下ろし、脳内で今夜の話し合いについての内容をおさらいする。
具体的な離縁の日付、公証人の選定に、荷物を運ぶ馬車の手配。預かっていた宝石の返還は現物で問題ないとして、細々した物品の清算方法も決めなければ。
けれど、レイモンドの口から放たれたのは予想外の言葉だった。
「まずは、君に謝らせてほしい。契約条件のことを」
「――えっ?」
意外な第一声に、ソフィアは思わず素で声を上げた。
いったい何の話だろう。
「謝罪、ですか? ええと、それはいったい何について……。報酬なら毎月きっちりお支払いただいておりますし、他に特別な条件なんて……」
ありませんでしたよね? とソフィアが首を傾げると、レイモンドは大真面目な顔で言う。
「白い結婚のことだ。あれは君にとって、非常に不利な条件だった」
「不利……ですか? どのあたりが……」
「この国では、子どもを産んでいない女性に社会的地位はない。そのことを、俺はすっかり失念していた。……いや、本当は気付いていながら、見過ごしていた。そのことを、どうしても謝りたかったんだ」
「…………」
ソフィアは今度こそ目を瞬いた。
そうして、しばらく逡巡し、ようやくその意味を理解する。
なるほど確かに。この国の常識や価値観に当てはめれば、『白い結婚』は女性にとって非常に不名誉かつ不利な条件だ。
けれど、ソフィアにとってはそうではない。――それを、レイモンドは気にしているというわけか。
(もしかして、この四日間、旦那様がずっと難しい顔をされていたのは、このせいだったの?)
考えがそこに辿り着いた途端、ソフィアは少しだけ力が抜けた。
正直、それならもっと早く言ってくれれば良かったのに、と思った。
——もっとも、そう簡単に話せることでもなかったのだろうが。
「旦那様が気になさることではありませんわ」
ソフィアは、レイモンドを安心させるべく微笑む。
「それこそ、わたくし自身が望んだことなのですから」
刹那、レイモンドは眉を寄せた。
「だが、子どものいない状態で離縁すれば、君は社交界で居場所を失う。それについては、どう考えているんだ?」
「すべて織り込み済みです。旦那様にご迷惑をおかけすることはございませんし、後のことはちゃんと考えておりますので、心配は無用ですわ」
そもそも、離縁後、この国を出ていくつもりのソフィアにとって、白い結婚こそが最高の条件だった。
つまり、それについて、レイモンドが気に病む必要は全くない。
けれど、レイモンドは納得がいかないようだった。
瞳を揺らし、問いを重ねる。
「……俺には、関係がないということか?」
「そうは申し上げておりません。ただ、白い結婚は旦那様ではなく、わたしにとっても最高の条件だったと申し上げているだけ。それに、十分すぎる報酬もいただいておりますし。ですから、旦那様が気に病む必要は何一つありませんわ」
「…………」
答えの代わりに沈黙が落ちた。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
(……旦那様、また黙り込んでしまったわ。何を考えていらっしゃるのかしら。離縁の話はどうなったの? わたしから聞くべきかしら)
ソフィアは静かに息を吐き、レイモンドの表情を探る。
だがレイモンドは視線を合わせず、しばらく何かを迷うように、指先でカップの縁をなぞっていた。
やがて、彼はふっと視線を外し、ズボンのポケットに手を差し入れる。
そこから取り出された小さなベルベットのケースが、炎の光を受けて鈍く光った。
レイモンドが蓋を開くと、そこには一対の真珠のイヤリングが並んでいる。
「……これは?」
「君への贈り物だ。任地から持ち帰って以降、ずっと渡せずにいた」
「……それを、どうして、今?」
ソフィアは困惑を隠せなかった。
そもそもこの三年間、贈り物は決まって人前——花も菓子も宝石も、使用人や客の前で手渡された。
だから当然のように、夫婦を演じるための小道具だと認識していた。
それなのに、今この場にいるのは、自分たち二人だけ。
これはいったいどういうことだろう。
レイモンドを見つめると、彼は一瞬言葉を選ぶように視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。
「……これが、俺の気持ちだからだ」
「――え? それは、どういう……」
レイモンドは続ける。
「最初こそ確かに演技だった。すべては世間に見せるための舞台装置に過ぎなかった。——だが、気付いたら変わっていたんだ。君に渡してきた贈り物も、愛の言葉も、いつしか、すべてが本心に変わっていた」
「――!」
それは愛の告白だった。
二人きりの状況で、レイモンドの言葉が芝居であると思えるほど、ソフィアは鈍くはなかった。
「突然こんなことを言われても戸惑うだろう。応えてくれと言うつもりはない。だが、一つ、提案がある。——契約の延長だ」
「延長……?」
「ああ。できれば一年――無理なら、半年でも、三ヵ月でもいい。報酬はこれまでの倍を払う。だから……もう少し、ここにいてくれないか?」
「……っ」
ソフィアは息を呑んだ。
——まさか、本当にアリスの言った通りになるなんて。
離縁の段取りを話し合うつもりでいたのに、今、まったく逆の話をしている。
「それと、期間の延長に関わらず、三週間後の次の任地には、君に同行してもらいたい」
「……同行、ですか?」
「ああ。君と、一分一秒でも長く過ごしたいんだ。どうか、よろしく頼む」
「――ッ」
その言葉は、今のソフィアにとってあまりに予想外の言葉だった。
――再び、暖炉の炎がぱちりと弾ける。
その音をどこか遠くに聞きながら、ソフィアは驚きのあまり、しばらくの間茫然とするばかりだった。