俺に、彼女を愛する資格などない
その後、夕食を終え、自室で軽装に着替えたレイモンドは、鏡をじっと睨みつけていた。
そこには、まるでこれから死地に向かうかのような、鋭い目をした男が映っている。
(最悪だな。俺は、こんな顔で彼女と夕食を交えていたのか)
そう思うと、今すぐにでも鏡を叩き割ってしまいたい衝動に駆られた。
けれど、終わってしまったものはどうしようもない。
(そもそも、今までの俺こそが偽りだったんだ。俺は、彼女に愛してもらえるような人間ではなかった)
ソフィアの部屋へ向かうため、部屋を出たレイモンドは、廊下を歩きながら昼間のエミリオとの会話を思い出す。
「つまり、この三年間の夫人のお前への態度は、全部演技だったって言うのか?」
「……ああ」
「で、お前はそんな彼女を本気で愛してしまったが、それを伝えられていない――そういうことか?」
「そうだ」
昼間。レイモンドはエミリオに全てを話した。
契約結婚のこと。白い結婚のこと。報酬のこと。
そして、この三年間の間に、ソフィアを愛してしまったことを。
エミリオは、レイモンドの話を不愉快そうな顔で聞いていたが、しばらくすると、冷静な声でこう言った。
「正直、かなり厳しい状況だな。夫人はこれまでのお前の行動を、全部"契約"だと思ってるってことだろ? しかも、月に三百万ギールって。俺なら怖くて契約できねーよ。夫人も相当度胸あるな。借金でもあったのか?」
そして、こう付け加えたのだ。
「にしても、夫人はお前と離縁したあと、どうするつもりなんだろうな」
それは、単純に疑問だ、という声だった。
レイモンドは眉をひそめる。
「……どういう意味だ?」
「だって、この国じゃ子供を産んでない女性の社会的地位は、ないも同然だろ? 軍人の妻は、離縁も死別も珍しくない。でも、社会に認められるのは子供を持ってからだ。ほんと、クソみたいな慣習だけどな。それなのに白い結婚って。お前にしてみれば配慮だったんだろうが、女性側からしたら最悪の条件だ。このまま離縁したら、夫人は社交界から追放されるぞ」
「――!」
その瞬間、胸の奥で、何かが軋む音がした。
『白い結婚』――その条件が、決して配慮などではなかったことを、はっきりと思い出してしまったからだ。
二度と女性を抱くことはない――いや、抱くことができない自分自身の『罪と弱さ』。そして、『責任を丸ごと放棄した』提案でしかなかったことを。
(どうして俺は、こんなに大切なことを忘れていたんだ。俺は、彼女に許しを請わねばならない立場だというのに……)
視線が床へ落ちる。
思考が、意識の底へと沈んでいく。
レイモンドは、ウィンダム侯爵家の嫡男として生まれた。
王族に連なる公爵家を除けば、実質的にこの国の軍事を統べる頂点の家紋だ。
国境紛争、反乱鎮圧、外洋遠征に至るまで、数十年にわたり作戦の立案と指揮を担い、敗色濃厚な戦局を幾度も覆してきた。
戦場にて、ウィンダム侯爵家の旗が翻れば潮目が変わる――兵たちは皆そう言った。
海軍の統帥権の一部を握り、国防評議会では常にこの家門の発言が優先される。その名は、勝敗の記録とほぼ同義だ。
その嫡男として生まれたレイモンドは、生まれながらにして、地位と名誉を約束されていた。
誰もが羨む人生だった。
だが、その名声に反し、家の内情は冷え切っていた。
将校の父は一年のほとんどを任地で過ごし、任地妻を持つのは当然。政略結婚で嫁いできた母を顧みることはなく、それに反抗するように、母は複数の愛人を囲う。
けれど、それを咎めるものは誰一人としていなかった。
権力故ではない。それがこの国の、特に貴族軍人たちにとってはごく当然のことだったからだ。
浮気は離婚時の欠格事由にはなっても、それ自体は罪に問われない。貴族の夫婦の形は、体裁と血統を守るためだけのもの。子供を産んでさえすれば、夫婦を縛るものは何もない。
レイモンドは、それが当然と知りながらも、両親を軽蔑しながら育った。父が決めた婚約者すらも軽蔑していた。相手が見ているのは、自分の家紋の権力と、財力。それだけだと知っていたからだ。
そんな環境に反旗を翻すように、十八で成人し、社交界に出たレイモンドは、夫人たちに誘われるがままに体を重ねた。未婚の令嬢には手を出さない――それだけが唯一の線引きだった。
やがて、全てを知った婚約者は、考え付く限りの罵詈雑言をレイモンドに浴びせ、婚約は破棄された。
父は何も言わず、母は軽蔑と憐みの目を向けただけだった。
けれど二十歳を迎えた頃、その生活に、唐突に終わりが訪れる。
割り切った関係だったはずの夫人たちが、レイモンドの目の前で、「誰が一番レイモンドに愛されているのか」言い争いを始めたのだ。
それは見るに堪えない光景だった。あまりにも滑稽で、笑いが漏れるほどだった。
その日からだ。
レイモンドの下半身が、全く反応しなくなったのは。
――これは、罰なのか。それとも、許しか――。
判断もつかないまま、レイモンドは全ての女性と関係を断った。
毎夜のように届く恋文は暖炉へ投げ入れ、贈り物は送り返し、それから二年後――士官学校を卒業する頃には「女嫌い」「堅物」と呼ばれるようになっていた。
レイモンドを男色だと思い込んだ男たちから、襲われかけたこともあった。
それでも、家紋と財力を狙う女は後を絶たない。
彼は、そんな日々に辟易していた。
だが、この国では結婚しなければ一人前と認められない。
子供を作ることができない自分は、いったいどうしたらいいのか。
どうすべきかと迷っていたとき、ソフィアと出会った。
結婚を望まぬ女性。そのときのレイモンドにとって、都合のいい女。
こんな出会いは二度とないかもしれないと思った。もう二度と女性を抱くことができないかもしれない、自分に巡って来た、最初で最後のチャンス――。
――そう、つまり、あの提案はただの、自己中心的な考えのもとに結ばれた契約だったのだ。
(それなのに、俺は……)
胸の奥に、鉛が沈むような感覚が広がる。
それは自己嫌悪であり、自身の罪の重さだった。
エミリオの言葉が、今も脳裏にこびりついて離れない。
――『離縁すれば、夫人は社交界から追放される』
それを心のどこかで理解しながら、自分は三年間、本当の理由を伝えなかった。いや、伝える勇気がなかった。契約結婚だからと、逃げ続けていた。
彼女を愛していながらも。
(俺に、彼女を愛する資格などないのかもしれない。それでも……)
気持ちを伝えなければ、彼女にとって自分は、最後まで「形だけの夫」で終わる。
それだけは、何としてでも避けたかった。
一歩進むごとに、過去の罪が足枷のように絡みつく。
だが同時に、契約を超えた彼女の眼差しを一度でいいから見たいという、叶わぬ望みがかすかに光る。
その希望が、レイモンドを、ソフィアの部屋の前に運んだ。
「ソフィア、入るぞ」
そっと声をかけると、しばしあって、扉がゆっくりと開いた。
そこにあるのは、いつものように、柔らかな笑みを投げかけてくるソフィアの姿。
「お待ちしておりました、旦那様」
その笑顔に、レイモンドの心臓が、ひときわ強く脈打つ。
「邪魔するぞ」
レイモンドはその感情を必死に押し殺し、部屋の中へ、そっと足を踏み入れた。