今夜、君の部屋に行く
――その日の夜。
食堂では、ソフィアがいつも通り夕食の席につき、レイモンドの訪れを待っていた。
燭台の炎が、白い卓布に金の楕円を映し出し、銀器を冷たく輝かせている。
ソフィアは、揺れる蝋燭の炎を見つめながら、判断に迷っていた。
(お茶会で誘われた芝居のチャリティーのこと、今日ここで、旦那様にお伝えするべきかしら)
以前までのレイモンドなら、きっと決まりきった反応を示しただろう。
美しい笑みを浮かべ、「慈善事業か。素晴らしいな。ぜひ二人で参加しよう」。あるいは、例え予定が重なっていたとしても、「残念だが、その日は仕事があるんだ。とはいえ、君一人で行かせるのは忍びないな」と、心底残念そうな顔をする。
そのどちらかだと予測できるからこそ、これまでのソフィアは何の迷いもなく、それに対する必要な台詞と表情を選び取ることができた。
けれど、今は違う。
ここ数日のレイモンドは、こちらを見つめながらも心を遠くに置いているような冷たさがある。
口を開きかけては言葉を飲み込み、表情に影を落とす。台本のない舞台にひとり立たされるような心もとなさが、ソフィアの心を少しずつ不安にさせていた。
(最近の旦那様は、どんな反応をされるのか予想がつかなくて困るのよね。やっぱり、離縁についての方針を、ちゃんと話し合ってからにするべきかしら)
やがて、ドアの向こうから足音が近づいてくる。
ソフィアが姿勢を正すと同時に扉が開き、レイモンドが姿を現した。
「すまない、遅れた」
謝ってはいるが、いつもより低く、短い声。表情も明らかに硬い。
部屋の温度が、わずかに下がった気がした。
(どうしたのかしら……こんなに張り詰めた表情の旦那様、見たことがないわ。やっぱり、お仕事で何かあったの? それとも、もう演技は不要ってこと? どちらなのか、判断がつかないわ)
心配すると同時に、それを表に出すことへの警戒心も芽生える。
何が正解かわからないまま、ソフィアは笑みを張り付けた。
「旦那様はお忙しい身ですもの。お気になさらず」
――食事が始まった。
銀器が皿の上でわずかに擦れる音と、燭台の炎の揺らめきだけが、部屋を満たす。
ソフィアは、用意していた言葉を胸の奥に沈めた。
(やっぱり止めましょう。こんな張り詰めた空気の中で芝居の話をしたって、悪い方にしか転がらないわ)
ナイフを置く仕草の一つひとつまで、レイモンドの機嫌を探る。
レイモンドの眉間の皺はいつまで経っても解けず、視線も合わない。
その静けさを前に、ソフィアは決意を固めた。
(やっぱり、離縁についてきちんと話し合わなくちゃ。でも、どうやって切り出そうかしら)
それが問題だった。
唐突に告げれば、拒まれるかもしれない。
少しずつ伏線を張るべきか、それとも覚悟を見せて真正面から言うべきか――考えは定まらぬまま、食事は淡々と進んでいく。
その時、不意にレイモンドが口を開いた。
「……今夜、君の部屋に行く」
「――!」
手にしていたフォークが、わずかに皿を叩いた。
三年間、何度も繰り返されてきた、この合図。
使用人たちに向けた形式的な“夫婦の営み”の知らせ――実際はベッドとソファに別れて眠るだけの夜。
(……このタイミングでのお誘い。"離縁"についての話し合いに違いないわ)
胸の内に、緊張と高揚が入り混じる。
レイモンドはちゃんと、離縁について考えてくれていたのだ。つまり、ここ四日間のレイモンドのこの態度の理由も、その時明かされるはず。
ソフィアは息を整え、いつもの笑みを浮かべる。
「わかりました。準備をして、お待ちしておりますね」