ここは、わたしの居場所ですから
夕刻。
軍港を赤く染める夕日が、波間に黄金の道を引いていた。
レイモンドはソフィアとふたり、心地よい潮風に吹かれながら、港の遊歩道をゆっくりと歩いていた。
二週間前、この場所で絶望と期待に震えながら彼女と向き合っていたのが、まるで遠い日の出来事のように感じられる。今はただ、隣を歩く彼女の体温と、柔らかな足音が心地よい。
――だが、ソフィアは夫の横顔に宿る、隠しきれない「迷い」を敏感に感じ取っていた。
「……旦那様。そう言えば、別れ際、イシュと何を話していたのですか?」
刹那、レイモンドは目に見えて動揺し、一度は無言で視線を逸らした。
イシュのあの不敵な囁きが、頭の中でリフレインする。――『彼女に直接聞いてみたらどう?』
「……いや。その、大したことではない。ただ、奴の……」
言いよどむレイモンド。だが、今の彼に、ソフィアを欺く術はない。
彼は意を決して、ソフィアの方を向いた。
「ソフィア。君は、イシュに……彼に妻子がいることを、知っていたか?」
決死の覚悟で尋ねると、ソフィアは瞬きを繰り返した。
あまりに想定外の質問だったのか、不思議そうに小首を傾げる。
「……ええ。もちろんです。去年、お嬢様が生まれた時には、お祝いにベビードレスを贈りましたよ」
「……何?」
レイモンドが、驚愕の声を上げた。
「イシュは家族をとても大切にされていますわ。彼のペンダントには、奥様とお子様の肖像画が入っておりますし……それが、何か?」
「…………」
レイモンドは絶句した。
ソフィアがイシュに恋愛感情を抱いていないのは、あの夜、波打ち際で聞いた。イシュと共にこの国を出ようとしていた理由が、自立のための苦渋の選択だったことも理解している。
けれど、イシュは確かに、ソフィアを愛していたはずだ。
あの舞踏会の夜、「今すぐ離縁しろ」と迫られたとき、あの男の眼差しに宿っていたのは紛れもない執着だった。
それなのに、妻子とは仲が良く、しかもそれをソフィアも知っていて、家族ぐるみの付き合いさえしている……?
レイモンドは、頭の中が真っ白になった。
イシュ・ヴァーレンという男の「愛」の定義は、いったいどこにあるのか。
茫然と固まった夫の姿に、ソフィアは心当たりを探り、やがて「あっ」と小さく声を上げた。
「もしかして……ずっとそれを心配してくださっていたのですか? イシュとわたしが恋人同士じゃないかと、旦那様がお疑いになったときの……あれは……」
ソフィアの瞳に、慈しむような光が宿る。
「……いや、もういい。…………考えるだけ無駄な気がしてきた」
「え……? でも、お顔の色が悪いですわ。……大丈夫ですか、旦那様」
「本当に何でもないんだ。気にするな」
「ですが……」
ソフィアが心配そうに顔を覗き込む。
その時、二人の背後から、空気を読まない快活な声が降ってきた。
「おーい! レイモンド……に、……夫人?」
二人が振り返ると、そこには上等な酒瓶をぶら下げたエミリオが立っていた。
三週間前、オルディナの倉庫でレイモンドの背中を強引に押して以来の再会だ。
「ご無沙汰しております、夫人。――って、どうしたんだよレイモンド。お前、顔が真っ青だぞ」
「エミリオ……。貴様、三週間もどこで何をしていた。まさか、ずっと仕事を放り出してオルディナで飲んでいたわけではあるまいな」
気まずさを隠すように睨みつけるレイモンド。だが、エミリオは「ひどいな」と肩をすくめた。
「人聞きの悪いことを言うなよ。さてはお前、まだ報告書を読んでないな?」
「報告書?」
エミリオはついと身を寄せ、ソフィアに聞こえないよう、レイモンドの肩に腕を回して声を潜める。
「……密輸船のだよ。あの後、俺は密かに『アルマ商会』の出どころを追ってたんだ。そしたら、その黒幕が、ブルックリン伯爵だってことがわかってさ」
「ブルックリン伯爵だと?」
ブルックリン伯爵。ソフィアと共に参加したチャリティーの主催者だ。
意外な黒幕の名に、レイモンドは眉を寄せる。
「エミリオ、お前、どうやって辿り着いたんだ」
「箱だよ」
「……箱?」
「覚えてないか? 伯爵家が各地の孤児院に送っていた支援物資の箱。それが、俺たちが押収した火薬のケースと、寸分違わず同じ規格だったんだ。奴は違法物資を慈善事業の荷物に見せかけて流していたのさ。孤児院の子供たちに配るパンに、火薬の匂いが混じってるなんて、洒落にならないだろ?」
「……お前、それを一人で追っていたのか。なぜ俺に言わなかった」
「だってお前、それどころじゃなかっただろう? ……そんなことより、レイモンド」
エミリオはレイモンドから半歩離れると、レイモンドとソフィアの顔を、交互に見つめた。
三週間前、今にも死にそうな顔で「ソフィアが連れ去られる」と絶望していた親友。その隣で、穏やかな笑みを浮かべている夫人の姿。
「……今日の昼間、港でイシュ・ヴァーレン卿を見たが……彼とは話せたのか? それに、お前と夫人の雰囲気……もしかして……」
「……っ」
レイモンドの頬が、みるみるうちに赤く染まる。
それを見て、エミリオは全てを察したのだろう。にんまりとからかうような笑みを浮かべると、レイモンドの肩をバシバシと叩いた。
「ははは! なんだ、やっぱりそういうことか! いやー、良かったな、レイモンド! これで俺も肩の荷が下りたよ!」
「エミリオ! 馬鹿、黙れ! こんな場所で大声を出すな――!」
怒鳴るレイモンドの横で、ソフィアはわけがわからず、きょとんとしている。
「あの……旦那様? それに、エミリオ様も……」
「いやあ、すみませんね、夫人。勝手に盛り上がってしまって。どうやら俺は邪魔者なようなので、これで退散しますよ。では、またいつか!」
「……っ、エミリオ!」
エミリオは背を向け、手をひらひらさせながら風のように去っていく。
その背中を見つめ、レイモンドは長い溜め息をついた。
「……すまない、ソフィア。あの男が訳の分からないことを……」
「ふふっ。エミリオ様は、旦那様のことをとても慕ってくださっているのですね。わたしも、嬉しいです」
「……慕っている? あれがか?」
「ええ、とても」
夕日は完全に沈み、空には一番星が輝き始めていた。
レイモンドは、空を仰ぎながら、確かな意志を持って、ソフィアの小さな手を握りしめた。
「旦那様……?」
「……ソフィア。俺は、きっとこれからも沢山間違えるだろう。……だが、それは、君を愛しているがゆえなんだ。だから……」
ソフィアは足を止め、レイモンドを見上げた。
不器用な騎士の、精一杯の愛の告白。
彼女は握られた手に力を込め、彼の大きな掌を優しく包み返した。
「……どこへも行きませんわ。ここは、もう、わたしの居場所ですから」
一番星の光が、二人の足元を静かに照らす。
レイモンドはソフィアの体温を感じながら、再び歩き出した。
繋いだ手から伝わる鼓動は、もう契約の条項など必要としない、本物の愛の証明だ。
丘の上の屋敷に灯る明かりが、二人の幸福な未来を祝福するように優しく瞬いている。
潮風に吹かれながら、重なり合う二人の影は、二度と離れることのない一つの絆として、夜の静寂へと溶け込んでいった。
Fin.
これにて完結となります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!




