これで、本当に終わったんだわ
ハリントン邸でのあの激動の日から、二週間が過ぎた。
軍港ヴェルセリアの丘に建つ、ウィンダム侯爵家の小さな屋敷。
そこは今、夏の盛りを告げる蝉時雨と、どこまでも青く澄んだ潮騒に包まれていた。
朝の光が差し込む主寝室。レイモンドは、全身鏡の前で夏用の軍服を整えていた。
その胸ポケットには、一枚のハンカチが誇らしげに差し込まれている。シルバーグレーのシルクに、紫の糸で一針ずつ丁寧に刺された「鷹の羽」。
「……旦那様、曲がっておりますよ」
背後からかかった柔らかな声に、レイモンドは少し照れくさそうに口角を緩めた。
歩み寄ってきたソフィアが、その細い指先でハンカチの端を整える。一針一針、彼女が真心を込めて縫い上げたこの刺繍は、今やレイモンドにとって、どんな叙勲のメダルよりも誇らしいものとなっていた。
「……ああ、悪い。どうにも、慣れなくてな」
「ふふ、よくお似合いですわ。さあ、一階へ降りましょう。そろそろイシュが来る頃ですわ」
ソフィアの言葉に応えるように、窓の外から馬車の車輪が砂利を噛む音が聞こえてきた。
窓から顔を覗かせると、門の前で一台の豪華な馬車が停まり、一人の男が降りてくる。
「イシュ!」
ソフィアが元気よく名前を呼ぶと、イシュ・ヴァーレンはゆっくりと顔を仰ぎ、帽子を外して優雅に挨拶の礼をとった。
ソフィアは、レイモンドと共に一気に階下へと降りた。
玄関ホールには、アリスによって招き入れられたイシュが、一糸乱れぬ様子で立っていた。
「イシュ! 元気だった? 色々と大変だったでしょう!」
ソフィアが駆け寄ると、イシュはレイモンドに、「品定め」をするような視線を投げ、にこりと微笑む。
「そうでもなかったよ。フェリクス卿とオスカー卿がよくしてくれたからね。それに、新しい商売の話もいくつかまとまったから」
「商売?」
「うん。それは後で話すよ。ところで、はいこれ。今日の本題だ」
イシュが懐から取り出したのは、一通の封書だった。
ハリントン家の紋章が刻まれた、重みのある一通。
「ありがとう、イシュ。……今、お茶を入れるわね。アリス、用意をお願い」
「はい、勿論ですわ。奥様」
ソフィアは大切に封書を受け取ると、レイモンドと連れ立って、イシュを応接室へと案内した。
ソファに腰を下ろすと、夏の乾いた風が白いレースのカーテンを軽やかに躍らせる。
ソフィアはペーパーナイフを使い、丁寧に封を切った。
一週間前、オスカーから密かに届いていたオフレコの手紙で、概略は知っていた。
だが、新当主となったフェリクスの直筆による「公式な報告書」を手にしたことで、ようやく自分の過去に、一つの終止符が打たれたことを、ソフィアは肌で感じていた。
「……そう。お父様とお母様は、もう住まいを移されたのね」
手紙には、父が家督をフェリクスに譲り、母ヴィクトリアと共に北の連峰の麓にある屋敷へ隠居したことが記されていた。
そこは、探検家であるオスカーが、活動中に偶然見つけ出した「世俗から忘れられたような美しい地」。かつてヴィクトリアが少女時代に憧れたという、色彩豊かな花々に囲まれた静かな場所だ。
社交界という戦場、そして「血筋」という呪縛に狂わされたヴィクトリアにとって、そこは残酷な追放先であり、同時に、ようやく訪れた安息の地でもあった。
「オスカーお兄様は、探検家を休業してフェリクスお兄様を支える……」
そこまで読んで、ソフィアは顔を上げた。
「ノアは、確か王都の寄宿学校へ行くことになったのよね?」
イシュが、アリスの淹れた極上の紅茶を一口啜り、満足げに頷く。
「そうだよ。オスカー卿は、彼――ノアの才気を見込んでいるようだね。王都の学校に通わせるための転校の手続きも、少しばかり手伝わせてもらった。将来、ハリントン家を支える右腕に育てるつもりなんだろう。オスカー卿らしい、気の長い、けれど確実な投資だ」
「……そう。きっとノアなら、上手くやってくれるわ。――ね、アリス?」
控えていたアリスが、力強く頷いた。その瞳には、弟への愛と信頼、そして未来への希望が満ち溢れている。
「はい、奥様。……弟には、オスカー様を、そしてハリントン家を支える立派な男になってもらわねばなりませんから。私も、負けてはいられませんわ」
ソフィアは、手紙をゆっくりと畳んだ。
あの日、嵐の中でバラバラになりかけた家族は、それぞれの場所で、新しい形を作り始めようとしている。
「これで、本当に終わったんだわ」
ソフィアが呟くと、隣に座るレイモンドが、その細い肩を力強く、そして守るように抱き寄せた。
「ああ。これからのハリントン家は、フェリクスたちが新しく作り替えていくだろう。もう二度と、君を縛り、苦しめることはない。……イシュ・ヴァーレン。君には感謝している。ハリントン家の不始末を、一手に引き受けてくれたこと、心から礼を言う」
「礼なんていらないよ。僕はフィアの友人だが、それ以前に欲深い商人だからね。この一件で、僕は新伯爵から『ハリントン領におけるヴァーレン商会の独占的営業権』という、とびきりの利を引き出したんだ。お礼を言いたいのは僕の方さ」
イシュは立ち上がり、テラスに続く窓から、一点の曇りもない青空を見上げた。
夏の陽光が室内に溢れ、彼の漆黒の髪を眩しく照らし出していた。
「……さて、フィア。この手紙を以て、僕の役目はおしまいだ」
イシュは窓から視線を戻すと、名残惜しさを微塵も見せず、優雅に肩をすくめた。
「君から預かっていた資金と売上金、帝国に用意していた君の店の権利書……。それに関わる一切の手続きは、すべてこの国の支部長に任せておいた。後は彼に聞いてくれ。僕はオルディナで乗船手続きをしないといけないから、もう行くよ」
「……そんな。もう? もっとゆっくりしていけばいいのに」
ソフィアが寂しげに眉を下げると、イシュは困ったように笑い、どこか突き放すような、商人の顔をした。
「そうしたいのは山々だけど、もう二週間も予定が遅れているんだ。これ以上は、流石に父が黙っていない。こう見えても僕は、帝国支部の代表だからね」
「……そう、よね。ごめんなさい、無理を言って」
ソフィアは、イシュの元に歩み寄った。
「本当に、何から何までありがとう、イシュ。あなたには、いくらお礼を言っても足りないわ。実家のことも……それに、『サーラ・レーヴ』の火を消さずにいてくれたことも」
「いいって。別に、永遠の別れというわけじゃないだろう? 二年後に、また様子を見にくるよ」
穏やかに目を細めるイシュに、ソフィアはほっと安堵の息を吐く。
「……そう。そうよね。絶対、また会えるわよね?」
「うん。……会えるよ。必ず会いに来る」
イシュは帽子を深く被り直すと、別れの挨拶を終えた。
一行はイシュを見送るため、夏の陽光が石畳を眩しく照りつける玄関先へと出た。
待たせていた馬車の御者が、恭しく扉を開ける。イシュは不敵な笑みを浮かべると、レイモンドを横目で流し見た。
「ウィンダム侯。フィアを頼んだよ。彼女の唯一無二のパートナーという座を譲るのは、少し寂しい気もするけれど……。今の君になら、フィアを任せられる」
「……お前にそんなことを言われると、気味が悪いんだが」
「ははは! 酷いなぁ。僕はただ、フィアの幸せを心から願っているだけなのに」
「――フン。お前に言われずとも、ソフィアは俺が幸せにする」
レイモンドの低い、だが鋼のように揺るぎない声。ソフィアはその頼もしい横顔を見上げ、幸せを噛みしめるように微笑んだ。
「その言葉が聞けてよかった。君のその自信過剰なところ、僕は結構気に入っているよ。それじゃあ、また」
イシュは言い残すと、優雅に身を翻し、馬車のステップに足をかけた。
――だが、レイモンドはふと、胸の奥底に刺さったままの「重大な疑問」を思い出し、慌てて彼を呼び止めた。
「待て、イシュ・ヴァーレン! お前に……聞いておかねばならないことがあった」
イシュは扉を閉めようとした手を止め、振り返る。
「何だい? 長話は困るんだけどな」
レイモンドは数歩詰め寄り、不遜な態度を崩さないイシュと至近距離で向き合った。
背後ではソフィアとアリスが不思議そうにこちらを見守っている。だが、これだけは絶対に彼女の耳に入れるわけにはいかない。
レイモンドはイシュの耳元に口を寄せ、低く、圧を孕んだ声で囁いた。
「……お前に妻子がいることを、ソフィアは知っているのか?」
この二週間の間、レイモンドとソフィアはこれまでの空白を埋めるように、真の意味で心を通わせてきた。
寝室を共にし、夜更けまで互いの幼少期の思い出を語り合う。その幸せに嘘はない。
それでも、レイモンドはイシュの件だけは聞けずにいた。
ソフィアがイシュを無二の友人として信頼しているからこそ、もしこの男が彼女に重大な隠し事をしていたと知れば、彼女が傷つくのではないかと恐れたのだ。
だが、イシュはその問いに動じることもなく、むしろ愉快そうに口角を上げた。
「はは、なんだ、そんなことか。……彼女に直接聞いてみたらどう? 君たちは真の夫婦になったのだから、何でも話せる仲にならないと。……そうだろう?」
「――っ」
レイモンドが答えに窮する間に、イシュは軽やかに馬車の中へと消え、窓から優雅に手を振った。
「それじゃあね、皆! 海の向こうから、君たちの幸せを祈っているよ!」
「イシュ、元気でね! 二年後、必ずお店を見にきて!」
ソフィアの透き通った声が、遠ざかる馬車の轍を追いかけていく。
レイモンドは立ち尽くしたまま、イシュを乗せた馬車を、苦々しく見送るしかなかった。
エピローグですが、長くなったので二話に分けます。
次が最終話です。




