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旦那様、そろそろ離縁のご準備を 〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜  作者: 夕凪ゆな
第8章 愛の形

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責任を取ってください


 深い眠りの底から、ゆっくりと意識が浮上した。

 肌に触れるシーツの冷たさと、微かに漂う潮の香り。蝋燭の淡い光が、壁に陰影を落としている。


(……ああ、わたしったら。馬車の中で眠ってしまったのね)


 そこは、軍港の丘の上に建つ屋敷だった。

 ソフィアが重い身体を起こすと、ソファでアリスが安らかな寝息を立てていた。その日常的な景色に、ソフィアは強張っていた心が、わずかに解けるのを感じた。


 ――ハリントン邸での、あの嵐のような時間。

 帰りの馬車で眠り込んでしまった自分を、レイモンドがここまで運んでくれたのだろう。


 窓の外を見れば、月は高く、夜の静寂が世界を包み込んでいる。

 そこからふと視線を落とすと、一階のテラスに、月光を背負って佇む人影があった。レイモンドだ。


 ソフィアはアリスを起こさぬようにそっと寝台を抜け出すと、羽織を手に取り、素足のまま階下へと降りた。



 テラスでは、レイモンドが一人、椅子に深く腰掛けていた。

 傍らのテーブルには琥珀色の液体が揺れるグラスと、灰皿。彼は指先に挟んだタバコをくゆらせ、黒々と広がる夜の海を見下ろしている。


「……旦那様」


 呼びかけると、レイモンドは小さく肩を震わせて、ゆっくりとこちらを振り向いた。月光の下、彼の瞳が奇妙な熱を帯びて揺れる。


「起きたのか。……気分はどうだ? 今日は疲れただろう。色々と話したいことはあるだろうが、それはまた明日に――」

「いいえ、その……そうだけど……そうじゃなくて。わたし、旦那様に、お礼と謝罪をお伝えしたくて……」

「…………礼?」


 レイモンドが、意外そうに眉をひそめた。ソフィアは言葉を継ぐ。


「庇ってくださって、ありがとうございました。それと……その、家族の、あんなあさましい姿をお見せしてしまって……本当に、申し訳ありませんでした」


 正直、まだ、心の整理はついていない。

 母の本音も、兄たちの絶望も、そして、あのような場面をレイモンドに見られたことも、自分の弱さを知られたことも。ソフィアはまだ何一つ、区切りがついていなかった。


 けれど、だからこそ、今伝えておかなければと思った。

 どう伝えたらいいか、言葉はまとまらない。それでも、今言わなければ、自分はまた「ハリントンの娘」という仮面を被ってしまう――そんな気がした。


 レイモンドは、そんなソフィアの意を汲んだのか、椅子から立ち上がり、ソフィアに右手を差し出した。


「座って話そう。夜は長い」

「……はい、旦那様」


 これまで、繰り返し差し出された大きな手。

 重ねた彼の指先は、これまでにないほど熱かった。


 次に口を開いたのは、レイモンドだった。


「……まあ、今日のことは、驚かなかったと言えば嘘になる。俺の家も大概だと思っていたが……君の母親は……その、強烈だったからな」

「……そう、ですよね」

「君の母親を悪く言いたくはないが、あの家で育った君が、まともな結婚を夢見るはずがないと思ったよ。……まあ、契約結婚を提案したこの俺に、そんなことを言えた義理はないが」


 レイモンドは自嘲気味に笑った。

 グラスを揺らし、氷が触れ合う高い音を響かせる。


「――だが、同時に思い知らされたんだ。俺は君に、理想の妻を求めていただけだったのかもしれないと……。……果たして俺は、心から君を愛していると言えるのだろうか……」

「……え?」


 刹那、ソフィアの心臓が跳ね上がった。

 突然、何を言い出すのか――目を見開いたソフィアの視線の先で、レイモンドの瞳が、泣き出しそうに彷徨う。


「笑ってくれ、ソフィア。…………俺は、俺自身の心がわからなくなったんだ。……あんな大口を叩いておいて、おかしいだろう?」

「――っ」


 彼はふいと視線を逸らした。月光が、彼の碧眼に流星のような悲しみを映し出す。


「君にはもう何度も話しているが……俺の両親は、物心ついた時から互いに愛人を囲っていた。顔を合わせれば社交辞令か、あるいは刺すような沈黙。……弟たちとも疎遠だ。だから、結婚など不要だと思っていた。俺に人を愛することはできないと……。だが、君と出会って、いつの間にか、君から目が離せなくなった。偽りの関係だとわかっていながら……君の意思を無視して縋り付いた。それは……もしかしたら、俺が君に、君の母親のように……理想を重ねていただけなのかもしれないと……。――いや、すまない。忘れてくれ。どうやら俺は、少し、酔っているらしい」

「……旦那、……様」


 その横顔は、見たことがないほど弱々しく、ソフィアはどうしたらいいかわからなくなった。


 けれど、これだけは確かだった。

 彼のこんな顔は、見たくない。


 ソフィアは気づいていた。

 ハリントン家でレイモンドの姿を目にしたとき、心の底から安堵した自分の心を。彼の胸の中に飛び込んでしまいたかった、あの衝動を。


 ずっとずっと、見ない振りをしていた、気づかないふりをしていた、レイモンドへの想いを――。


「――旦那様」


 言わなければ。

 今言わなければ、きっと一生後悔する。


 ソフィアはそっと、唇を開いた。


「……そんなこと、言わないで」


 椅子から立ち上がり、俯いたレイモンドの顔を覗き込むようにして、告げる。


「今さら、そんな風に言われたら、わたしの気持ちはどうなるんですか」

「……っ」


 レイモンドの肩が、びくりと震えた。

 彼は右手にグラスを持ったまま、茫然とソフィアを見上げる。


「……どういう、意味だ?」


 月光を淡く映す透き通ったレイモンドの瞳に、小さく、星が瞬いた。


「――今、何と言った?」

「…………責任を、取ってと……言ったんです」


 レイモンドが、ごくりと、大きく息を呑む。


「あなたを好きにさせた――責任を取ってください」

「――!」

「今さら、本当は愛していなかったかもだなんて……無責任なこと言わないで。あんな……あんな風に優しくされて、庇ってもらって、それでも、わたしが心を動かされないと……そう思っているんですか?」


 ソフィアの言葉は、レイモンドの揺らぐ心に、迷いなき一撃を与えた。

 理性が、音を立てて崩れていくのが分かる。


「だが、君には夢が……」

「そこまで言わせるんですか? 本当はわかっているくせに……! わたしはただ、逃げていただけなんです。夢は確かに叶えたい、この歩みを止めるつもりは、毛頭ありません。でも……! 最初に帝国に行こうと思ったのは、ただの逃避だった。わたしは、母から、あの家から逃げ出したかっただけ。最初は、それだけだったんです……!」

「……ソフィア」


 胸が痛い。頬が熱い。喉が震える。

 認めたくなかった。でも、レイモンドにここまで言わせて、自分だけが逃げ続けることはできないと、ソフィアは覚悟を決める。


「……国境を越えれば、母の力の及ばない場所へ行ける。そう思って、わたしは必死にブランドを磨いてきました。……でも、今日、あなたが母の呪縛を断ち切ってくれた。……旦那様が、わたしに教えてくれたんです。……もう、逃げる必要はないって。夢は、帝国じゃなくても叶えられる。……あなたの、側で……!」

「…………」


 レイモンドの瞳が、これでもかと見開かれる。

 ソフィアの頬に伝う、一筋の光――それは、何よりも雄弁に、ソフィアの意思を物語っていた。


 レイモンドは、手に持っていたグラスを、テーブルに落とす。カラン、と乾いた氷の音が、夜の闇に不自然に響き――その指先が、そっと、ソフィアの頬を拭った。


「…………今の言葉は、本当か? 今さら、演技だなんて言わないよな……?」

「本当……です。……演技なんかじゃ――」

「……ああ、そうか。…………そうだよな」


 ――刹那。


 レイモンドの腕が、ソフィアの腰を引き寄せた。

 その唇が、彼女の耳元を熱く撫でる。


「……君の望みどおり、責任を取ってやる。……言っておくが、撤回はなしだぞ」

「……っ」 


 同時に、柔らかな感触が、唇を塞いた。


「――っ、…………」


 自分の姿を映すレイモンドの瞳は、欲情と、深い愛と、そして歓喜に満ちている。

 その熱い眼差し受け止めながら――ソフィアはレイモンドの腕に身を委ねるようにして、瞼を閉じた。



 潮騒の音が遠のく。

 指先が絡み合い、交じり合う吐息が、夏の夜闇に溶けていく。


 月光の下、二人は互いの存在を確かめ合う様に、新たな、そして真実の誓いを交わした。


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