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旦那様、そろそろ離縁のご準備を 〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜  作者: 夕凪ゆな
第8章 愛の形

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彼女は私の最愛だ


 父、ハリントン伯爵の一喝が響いた瞬間、サロンの時間は(いびつ)に静止した。

 ヴィクトリアの振り上げた扇が、屈辱に震えながらゆっくりと下ろされる。彼女は信じられないものを見る目で、夫――この家の主を振り返った。


「……あなた。今、わたくしを止めましたの?」


 ヴィクトリアの声は震えていた。だが、それは夫への畏怖ではない。自分の「正域」を侵されたことへの、烈火のごとき怒りだ。


「やめなさい、ヴィクトリア。オスカーからすべて聞いた。……お前が今日まで、裏で何をしてきたか。フェリクスをどう扱ってきたか。……そして今、ソフィアに何をしようとしたか」

「オスカー……!」


 その言葉に、ヴィクトリアの毒に満ちた視線が、夫の背後に立つ次男、オスカーを射抜く。

 オスカーは、吐き捨てるように叫んだ。


「ああ、そうだよ! 俺が父さんを連れてきたんだ! 母さんを止めるためにな!」

「――ッ、黙りなさい、この落第息子が!」


 ヴィクトリアの絶叫が、オスカーの言葉を掻き消す。


「オスカー……貴方は昔からそうだったわ。わたくしを目の敵にして、何一つ聞き入れようとしなかった。挙句の果てに、家名を背負う重圧からたった一人逃げ出した裏切り者。今さら貴方に口を出されるいわれはないわ。 貴方が捨てたこの家を、フェリクスと共に守ってきたのは、このわたくしよ!」

「守った!? 壊したんだろうが! 兄さんも、ソフィアも、全部母さんが……!」

「壊したですって? いいえ、磨き上げたのよ! 子爵家から嫁いだ私が、どれほど嘲笑われ、爪を立ててこの席を守ってきたか……貴方に社交界の何がわかるの!」


 ヴィクトリアの怨念が、サロンの空気を黒く塗り潰していく。

 その罵り合いの中心で、長兄フェリクスが、「ハッ」と乾いた笑いを漏らした。


「……オスカー、もういい。やめろ」

「!? 兄さん、けど――!」

「いいんだ。この女に何を言っても無駄だ」


 フェリクスの、虚無に満ちた、しかし奇妙に澄んだ声。

 彼は、かつて自分を支配していた母親を、哀れな生き物を見るように見下ろした。そこには、恐れ一つ残っていない。


「母上。私もソフィアと同じ気持ちです。私はもう、これ以上貴女に縛られるつもりはない。これまで育ててくださった恩は感じています。ですが、もう終わりです。……私はこれまで、自分さえ我慢すればいいと思っていた。でも、そうじゃないということを、ソフィアに教えられたから」

「フェリクス、何を言うの……! あなたを一流の男に育てたのは、このわたくしよ! あなたまで母を侮辱するの!?」

「一流? ……一流なんかじゃない。こんなものは仮初(かりそめ)だ。――ソフィアと同じ。本当の私は、妹の前で無様に涙を流し、慰めてもらわなければ立ち上がれないほどの臆病者だ。母上……貴方の望む『完璧な跡取り』など、最初から存在しないのです。すべては、貴女の歪んだ欲望が生み出した幻想だ!」

「――ッ、……フェリクス!」


 フェリクスの魂の告白に、ヴィクトリアは扇を折れんばかりに握りしめた。

 最愛の、自慢の息子すらはもはや「敵」に回ったのだと悟った彼女は、自らの最後の砦――夫である伯爵に、必死な形相で縋りついた。


「あなた! 何とか言ってください! この子たちは、寄ってたかってわたくしを悪者に……! わたしが、ハリントンの名声を守るために、どれほど、どれほど心を砕いてきたか……!」

「ヴィクトリア……」


 伯爵が、ヴィクトリアの扇を優しく押さえるように、手を添える。


「……私が、私が悪かった。お前をこの家に縛り付け、名門の重圧をすべて背負わせたのはこの私だ。……これは私の罪だ。だから、もうやめてくれ」


 夫の謝罪。だがそれはヴィクトリアにとって、自らの全人生を「無価値な過ち」と断じる刃でしかなかった。


「――っ、何ですって? ……謝れば済むとお思い? あなたのその潔い『謝罪』が、わたくしが独りで戦ってきた年月をどれほど踏みにじるか。誰のおかげで、ハリントンの品格が保たれてきたと……!」

「分かっている! お前がこれまでどれほど苦労してきたか――だからこそ、もうやめろと言っているんだ!」

「よくもそんなことが言えるわね……! あなたは私のしていることに気づいていながら、無関心を装っていただけじゃない! 今さら聖人君主面しないでちょうだい! あなたこそが全ての元凶なのに!」

「――ヴィクトリアッ!」


 激昂し、夫に詰め寄るヴィクトリア。

 父と母が罵り合い、サロンは、名門の威厳など微塵もない、醜悪な泥沼へと化していく。


「……品格、か」


 けれどそんな時。

 冷徹な、しかし極めて優雅な声が、泥沼の応酬を切り裂いた。――イシュだった。


「夫人。貴女がそれほどまでに守りたかった『品格』とは、家族が互いの傷口を抉り合い、過去の貸し借りを叫び合う、この惨状のことを言うのでしょうか?」

「……何ですって?」


 壁際に立ち、一連の醜態を「観測」していたイシュが、静かに一歩、踏み出した。その立ち居振る舞いは、激昂する伯爵夫妻よりも遥かに貴族的で、凍てつくように冷ややかだった。


「この場で、私は完全な部外者です。でも、だからこそわかることもある。夫人――貴女が今さら何を言おうと、目の前にあるこの現実は変わらない。貴女は今日、すべてを失った。それだけは、動かしがたい事実ですよ」

「……イシュ・ヴァーレン。商人風情が、よくもそのような生意気な口を聞けたものね。もとはと言えば、全部あなたのせいじゃない。あなたさえいなければ、娘がおかしくなることもなかったのに……!」


 ヴィクトリアはイシュを蛇のように睨みつけると、今度はレイモンドを見据え、狂気に染まった言葉を継ぐ。


「ウィンダム侯。あなたも貴方だわ。家督を継ぐためだけに娘と結婚するなんて、我が家を侮辱しているとしか思えない。この事実を社交界で広めれば、ウィンダム家の名声は一瞬で地に落ちるでしょうね。ああ、いい気味だわ!」


 ヴィクトリアは、醜悪に顔を歪ませた。

 この崩壊の舞台に、冷然と立ち続けるレイモンドを引きずり下ろし、道連れにしようと。


 だが、レイモンドは動じなかった。

 イシュと共にこの状況を冷静に観察していた彼は――ただ一言、その場の全てを凍りつかせるほどの声で、告げる。


「構わない」


「…………え?」


「構わない、と言ったんだ」


 その低く、微かな揺らぎもない声に、ヴィクトリアは思考を停止させたように口を半開きにした。


 レイモンドは、歪な家族の肖像と、隣で今にも崩れ落ちそうに肩を震わせるソフィアを、静かに見つめた。そして、先ほどイシュが放った「現実」という言葉の冷徹な響きを胸に刻み、己の中にあった最後の欺瞞の欠片をも剥ぎ取った。


 ヴィクトリアの指摘は、ある一点において――残酷なまでに正しい。

 自分はウィンダムの家督という「利」のために、ソフィアを利用した。自らの目的を果たすための道具として、ソフィアを買い叩いたのだ。その罪は、どれほど「今、彼女を愛している」と叫んだところで、消えるものではない。


「夫人の言う通りだ。私はウィンダム家の当主となるため、彼女を――ソフィアを金で買った。……それはハリントン家を、そして何より、彼女を深く侮辱する行為だ。その事実は認めよう」


 ソフィアが、息を呑んでレイモンドを見上げる。レイモンドは彼女の震える手を、力強く、しかし労るように握りしめた。


「広めたければ広めるがいい。それが真実である以上、私に止める権利はない。家督という『利』のために彼女を利用した報いが、家門の没落だというのなら、私は喜んでその罪を背負うつもりだ。それが、彼女を巻き込んだ当主としての、私の責任だからな」


 レイモンドの瞳には、一切の迷いもなかった。


「……だが、これ以上、ソフィアを傷つけることは許さない。たとえこの結婚が偽りから始まったものだとしても、彼女は既に、私の生涯でただ一人の最愛だ。もしまだこの茶番を続け、彼女にその汚れた手を伸ばそうというのなら、私はウィンダムの『武』をもって、貴女を断罪せねばならなくなるだろう」


 その場に、冷や水を浴びせられたような沈黙が降りた。

 すべてを捨ててまで娘を守ろうとする男の、凄まじい殺気。ヴィクトリアは理解を拒むように、激しく、何度も首を振った。


「馬鹿げているわ……。地位も名誉も、守るべき家も捨てて、いったい何が残るというの。狂っている……あなたも、娘も、何もかも狂っているわ……!」


「……いや、狂っているのは我々の方だ、ヴィクトリア」


 ハリントン伯爵が、重く、断腸の思いを込めた声で割り込んだ。

 彼はレイモンドの覚悟を、一人の男としてのけじめを真っ向から受け止め、深く、静かに頷いた。


「ウィンダム侯。……君の言う通りだ。自分の撒いた種は、自分で刈り取らねばならない。君がそこまで覚悟を決めているのなら、私が言うことは何もない。……イシュ。君もだ。ソフィアを私の手の届かない、光ある場所へ連れて行ってくれたことに……心から感謝する」


 伯爵はそう言うと、傍らに立つ二人の息子――フェリクスとオスカーに向き直った。その瞳には、かつてないほど厳しい、しかし確かな「父」としての光が宿っていた。


「フェリクス、オスカー。……今夜は長くなるぞ。我が家がいかにして壊れたか。そして、いかにして修復すべきか。……腹を割って、朝まで話し合わねば」


 フェリクスは、覚悟を決めた顔で「はい、父上」と短く答えた。オスカーもまた、「ああ」と小さく頷く。


「……何を……。何を言っているの?  あなたたち、わたくしを置いて、何を勝手に……! わたくしが、わたくしがこの家を支えてきたのに!!」


 ヴィクトリアが再び絶叫しようとした。だが、伯爵は彼女の顔を見ることすらなく、背後に控えていた屈強な男性使用人たちに、冷徹な視線を投げた。


「連れて行け。夫人を自室へ。……私が許可するまで、一歩も部屋から出さぬように」


「離しなさい!  離して!  使用人風情がわたくしに触れるなんて……! あなた! あなたぁ!!」


 数人の使用人に両腕を掴まれ、引きずられるようにしてサロンを連れ出されるヴィクトリア。その喚き声が廊下の向こうへ遠ざかる中、伯爵はソフィアに歩み寄った。


「……ソフィア。今まで、本当にすまなかった」


 それは、父の初めて見る、弱々しく、しかしどこまでも慈愛に満ちた微笑みだった。


「離縁のことも、仕事のことも……すべてお前の好きにしなさい。お前が掴み取った自由だ。……ただし、これからのことは、閣下とよく話し合って決めるんだ。いいな?」


 父の言葉に、ソフィアの瞳から熱いものが溢れ出した。

 ずっと求めていた、たった一言の「許し」が、夕闇に染まる部屋に響いた。


「……閣下。ソフィアは、もう我が家の娘ではありません。どうか、連れて帰ってやってください」


 伯爵はレイモンドに深く頭を下げ、息子たちと共に、さらに暗い議論が待つ奥の間へと消えていった。


 重厚な扉が閉まり、サロンに静寂が戻る。

 残されたのは、レイモンドとソフィア、そしてイシュと、泣き崩れるアリスの四人だけだった。


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