さようなら、お母様
サロンの扉を開けたソフィアが最初に抱いた感情は、純粋な困惑だった。
(……旦那様が、どうして……?)
目の前では、母ヴィクトリアとレイモンドが、目に見えぬ刃を交わすような緊張感で対峙していた。それだけではない。アリスとイシュまでもが、この息詰まる空間に居合わせている。
「――お嬢様! ご無事だったのですね……!」
アリスが弾かれたように駆け寄ろうとして――不自然に立ち止まった。ソフィアのすぐ隣に立つフェリクスの存在に気づいたのだ。
「……フェリクス様」
アリスの顔が青ざめる。部屋の空気が、一気に尖った。
レイモンドも、イシュも、それぞれに表情を強張らせ、隠しきれない憤りをその瞳に湛えている。だが、ソフィアは彼らに声をかけるよりも早く、母ヴィクトリアと真っ向から向かい合った。
愛する者たちと言葉を交わすのは、後でいい。今は、この目の前にある「呪い」を断ち切るのが先だ。
「……お母様、大変ご無沙汰しております」
ソフィアは流れるような動作で、完璧に美しい礼を取った。
その所作には、長年彼女を縛り付けてきた母への恐怖は、もはや微塵も混じっていない。他人行儀な挨拶を投げつける娘に対し、ヴィクトリアは、子供を慈しむような純真無垢な笑みを浮かべた。
「ああ、ソフィア! わたくしの可愛い娘! さあ、こちらにいらっしゃい」
一点の曇りもない、聖母のような微笑み。歓喜に満ちた声。
母なる大地のように、彼女は娘を抱きしめようと、優雅に両腕を広げる。
――だが、ヴィクトリアが見ているのはソフィアという「個」ではない。彼女の脳内にだけ存在する「自分の最高傑作」という幻想だ。ソフィアはそれを、嫌というほど知っていた。
だから、ソフィアは一歩も動かなかった。
「……お母様。一つ、お伺いしたいことがございます」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「わたくしと旦那様の『離縁』の件について。……お母様は、どのようにお知りになったのですか?」
どうしても、母の口から聞かなければならなかった。
先ほど小屋を出る前、兄が苦しげに告げた言葉が脳裏に蘇る。
『母上は、ウィンダム邸に何人か、自身の駒を潜ませている。お前と夫の不仲も、その駒から得た情報だろう』
それを聞いた時、ソフィアの胸を支配したのは、悲しみよりも凄烈な怒りだった。
兄への暴力的な躾。過剰な束縛。これまで「愛情の裏返し」だと信じ込もうとしてきた僅かな信頼が、その一言で木っ端微塵に砕け散った。
「……答えてください、お母様。なぜ、わたしと旦那様が離縁すると?」
憤りで声が震えそうになるのを、ソフィアはにこりと湛えた笑みで押し殺す。
ヴィクトリアは、まるでお気に入りのおもちゃを眺める少女のように、愛らしく小首を傾げた。
「あら、そんなこと? 貴女はわたくしの娘、母はいつだって娘の幸せを願っているものよ。貴女が道を間違えないように、わたくしが守ってあげるのは当然だわ」
「……つまり、ウィンダム家に母の手駒を潜ませていたと、認めるのですね」
「いやだわ、手駒だなんて。あの子たちはわたくしの可愛いひばり。貴女ったら、この三年ですっかり口が悪くなってしまったのね。やっぱり軍人になんて嫁がせるんじゃなかったわ」
ソフィアは、心臓が凍りつくのを感じた。
三年間。自由を感じ、夢を抱き、レイモンドと過ごしてきたあの日々。それは契約結婚という嘘から始まったものだったが、それでもソフィアにとっては紛れもない「真実」だった。
だが、そのささやかな日常すら、母の手のひらの上だった。何より、母は娘の夫であるレイモンドにすら内緒で、屋敷にスパイを送り込んでいた。
そして、それすらも「愛」だと、母は心から信じて疑わない。その歪んだ愛情が、何よりも恐ろしかった。
隣に立つレイモンドを視界の端に捉えれば、彼は今すぐにでも剣を抜き放ちそうなほど、激しい怒りに肩を震わせている。
それでも、彼が剣を抜かずに堪えているのは、ソフィアのためだ。ヴィクトリアが妻の母親であるという、その一点のために。
彼の優しさが、ソフィアの胸を突き動かす。
(……さようなら、お母様)
本当は、どこかで期待していた。
母が謝ってくれるのではないか。許しを乞うてくれるのではないか。
だが、その淡い期待は今、完全に瓦解した。
ソフィアは、誰もが息を呑むほどの鮮やかな笑みを、その顔に張り付ける。
「守る……? 違いますわ。貴女が守りたかったのは、わたしじゃない。自分の都合のいいように動く、ただの人形よ」
「……何ですって?」
ヴィクトリアの美しい眉が、僅かに震えた。
「わたしはもう、貴女の元には戻りません。それは、ここにいるお兄様も同じです。……わたしが何も気づいていないとお思いでしたか? お母様がお兄様を打ち、心を壊し、それを『教育』と呼んで自分を正当化していたこと。……わたしは、全部知っていたわ」
刹那、ヴィクトリアの顔から、すべての感情が抜け落ちた。
無機質で、底の知れない空虚。
だがソフィアは止まらない。責め立てるように、その空虚に向かって一歩踏み出した。
「知っていながら、わたしはずっと見て見ぬふりをしてきた。お母様に愛されていたかったから。自分が打たれるのが怖かったから。わたしのこれまでの人生は、お兄様の犠牲の上に成り立っていた『偽物』だったの。でも、それは貴女も同じよ、お母様。あなたの目に映っているわたしは偽物、本当のわたしじゃないわ」
「……ソフィア。貴女、さっきから何を言っているの?」
ヴィクトリアの手の中で、扇がミシミシと不吉な音を立てる。
「お母様に教えてあげるわ。わたし、今仕事をしているの。イシュと一緒に、服飾ブランドを経営しているのよ。『サーラ・レーヴ』――お母様も、一度くらいは聞いたことがあるでしょう?」
「――!」
「わたしはね、そのブランドを展開するために、イシュと共に帝国に渡るつもりでいたの。そのための『結婚』だった。旦那様は家督を継ぐための、わたしは資金を手に入れるための、三年契約のね。……つまり、離縁は最初から決まっていたこと。お母様の想像は、何もかも間違いだってことよ!」
ソフィアは母を睨みつけた。
母との決別。そして、兄を地獄に置き去りにした、臆病な自分自身を消し去るために。
「これまで育ててくださった恩は感じています。ですが、もう二度と、わたくしはお母様の言いなりにはなりません。貴女の『愛』という名の牢獄には、死んでも戻りませんわ」
「……、……黙りなさい」
ヴィクトリアの瞳から、光が完全に消えた。
流れるような動作で扇を振り上げ――殺意すら孕んだ鋭さで、ソフィアに向けて振り下ろす。
「――ッ、ソフィア!」
レイモンドの罵声が耳をつんざく。彼が剣を抜こうとした、その刹那。
それよりも早く、厳しい叱責の声がサロンに響き渡った。
「やめろッ! ヴィクトリア!」
その声に、ヴィクトリアの動きがピタリと止まった。
振り向いた先。開かれた扉の向こうに、ソフィアの父――ハリントン伯爵が、これまでに見たこともない険しい顔つきで立っていた。




