あの子はね、わたくしの大切な宝物なの
門をくぐった馬車が、乾いた音を立てて馬車寄せに止まる。扉が完全に開くよりも早く、レイモンドは地面に飛び降りた。
ハリントン伯爵邸を包む空気は、驚くほど静謐だった。美しく整えられた庭園、塵一つ落ちていない大理石の玄関。だが、そこには人の生活の温もりなど微塵もなく、あまりにも空虚だった。
「侯爵閣下!? 困ります、本日は旦那様も不在で……お約束のないご訪問は!」
「――どけ、邪魔だ」
立ち塞がろうとした使用人を、レイモンドは一瞥で黙らせる。普段の彼ならば、家格に見合った礼節を重んじた。だが、今の彼にはそんな余裕はなかった。
イシュらと共にホールへ足を踏み入れると、高い天井から吊るされたシャンデリアが、無機質な輝きで彼らを迎えた。
「侯爵閣下、どうか落ち着いてください! なぜ、このような真似を……!」
「なぜ、だと? そんなこと、お前たちが一番よくわかっているんじゃないのか! ソフィアがここに来ているだろう!」
「!? ソフィアお嬢様が? そんなはずは……」
「――チッ。お前たちでは話にならん。今すぐフェリクスを連れてこい!」
「フェリクス様は、今朝出掛けてからまだお戻りになっておらず……」
「なら家主に話を聞く。伯爵はいないと言ったな、では、夫人はどこだ! 今すぐ案内しろ!」
「そ、そんな……、あっ」
狼狽える使用人たちから情報を得るのは時間の無駄だと判断し、レイモンドは中央階段を上がり始めた。
かつて独身貴族を謳歌していた頃、嫌というほどこの手の屋敷に出入りしてきた。貴族の夫人がこの時間、どのような場所で、どのような顔をして「昼下がり」という名の虚飾を演じているかは、熟知している。
(三年前、結婚の挨拶に来たとき……あそこが一番、日当たりが良く自慢だと言っていたな)
屋敷の構造を脳内の図面に描き出し、サロンがあるはずの二階東翼へと進む。途中で、息を切らした老家令が駆け寄ってきた。
「お待ちください! このような無礼、閣下といえど――!」
家令の必死の形相こそが、ヴィクトリアの居場所を示す何よりの道標だった。レイモンドは「どけ」と低く一喝して家令の肩を押しのけると、廊下の最奥にある扉を目指した。
サロンの重厚な扉を蹴破らんばかりに押し開けると、そこには、窓からの柔らかな午後の光を浴びて、優雅に茶を嗜む一人の婦人がいた。
ヴィクトリア・ハリントン。ソフィアの母親であるその女性は、乱入者たちに動揺することもなく、ゆっくりとカップを置いた。
「あら。騒々しいと思えば、ウィンダム侯ではありませんか」
ヴィクトリアは微笑んだ。その表情はあまりにも冷静だった。焦るでもなく怒るでもない。聖母のように微笑むヴィクトリアに、レイモンドは低く問いかける。
「……ソフィアは、どこにいる」
だが、ヴィクトリアは困ったように眉を寄せるだけだった。何ひとつ知らないと言った様子で。
「何のことかしら。あの子なら、貴方の屋敷にいるのではなくて?」
「白々しいことを……! フェリクスがオルディナでソフィアを連れ去るのを、アリスが見ているんだ。その指示を、夫人――あなたがしたということも、既に知っている」
レイモンドが指し示したアリスは、ヴィクトリアと目が合った瞬間、ひっ、と短い悲鳴を上げてイシュの背後に隠れた。ヴィクトリアはその様子を、羽虫でも見るかのように見据え、冷淡な一瞥で切り捨てる。
「見間違いでしょう。フェリクスがそんな野蛮なことをするはずがありませんわ。あの子は今、公務で忙しい身。……それに、たとえわたくしが本当にそのような指示をしていたとして、それの何が問題だとおっしゃるの?」
「……何?」
「あなたたち、離縁するそうね。夫婦仲も上手くいっていなかったのでしょう。それなのに、この状況の何が不満なのかしら?」
「――!」
「ああ、もしかして、ご自分の名誉が落ちることを気にされているの? でしたら心配はいりませんわ。すべての責任はわたくしにある。あの子があなたの元に嫁ぎたいと言いだした時、こうなることを予見できなかった、わたくしが悪いのですから。――ウィンダム侯、この件において、あなたの不利になるようなことはございません。そもそも、離縁など珍しくも何ともないのですから」
レイモンドは絶句した。目の前の女は、本気で言っている。ソフィアとの離縁を、決められた事実であるように語っている。
(飲まれてはいけない……!)
レイモンドは、馬車でのイシュの言葉を思い出した。
『夫人はとても狡猾だ。会話を巧みに操り、自分の望む方向に誘導する力に長けている。感情的になったら彼女の思う壺だ。隙を見せないように、気をつけるんだ』
イシュは商売人として夫人と長らく接してきた経験から、そう語っていた。彼女の資質こそが、ハリントン家の名声を支えているのだと。
レイモンドが背後に立つイシュに視線を送ると、イシュも同じことを考えていたのか、静かに目配せを返してきた。
レイモンドは、話を逸らされないようにと、肺の息をすべて吐き出した。
「確かに、夫人のおっしゃることは理解できます。けれど、彼女はまだ私の妻だ。このような形で連れて行かれては困ります」
レイモンドは極めて冷静に言葉を紡いだ。今話すべきなのは将来の離縁のことではない。
確かめなければならないのは、ソフィアがどこにいるのか、無事でいるのかどうか。ヴィクトリアが話を逸らそうとする罠に、乗るわけにはいかない。
すると、ヴィクトリアは僅かに瞼を震わせ、気分を害した様子を見せた。彼女は椅子から立ち上がり、滑らかな足取りでレイモンドに近づく。
彼女の手がレイモンドの腕にそっと触れた。その指先は、驚くほど冷たかった。
向けられた瞳は、心の内側まで凍りつかせるような無機質な拒絶を湛えている。
「あの子はね、わたくしの大切な宝物なの。ずっと、この腕の中で守り育ててきた。……貴方との結婚も、あの子の将来を思えばこそ。なのに、貴方はあの子を愛さず、商人風情と親しくさせて……」
ヴィクトリアの視線が、初めてイシュに向けられた。そこには激しい嫌悪と、歪んだ被害妄想が渦巻いている。
「貴方があの子をないがしろにするから、あの子は迷ってしまったのよ。母親であるわたくしには分かります。今、あの子に必要なのは静養ですわ。……当然、そこにあなたはいない」
「……、……静養、だと?」
レイモンドの口から呻きが漏れた。
彼女の脳内では、フェリクスによる拉致が「冷酷な夫から娘を救い出した、勇敢な兄の物語」に書き換えられている。
だが、レイモンドは知っていた。フェリクスがかつてソフィアを襲ったことを。そして、ヴィクトリアだけがその事実を知らないことを。
(知らないから、こんなことが言えるんだ……。フェリクスに連れ去られたソフィアが、今どれほど恐ろしい思いをしているのか。そもそも、フェリクスを追い込んだのはお前じゃないか!)
ソフィアのトラウマの根源が、他ならぬ目の前の母親にある。その憤りで胸が張り裂けそうになるが、ソフィアがフェリクスを庇おうとした心を知っているからこそ、それを口に出すことはできない。
どうしたら、この女に話が通じるのか。彼女の世界では、彼女の解釈こそが絶対の法なのだ。
「……だとしても、私には彼女と話す権利があります。彼女の無事を、確かめさせてください。……私は、彼女を愛しているのです」
レイモンドは苦し紛れに、けれど真実を訴えた。
だが、ヴィクトリアは瞬き一つせず、ただ憐れむような笑みを深めるだけだった。
「最初にお伝えしたわ。あの子はここにはいないって」
「――なっ」
「でも、もしかしたら、二人で仲良く過ごしているかもしれないわね。フェリクスは、妹思いのいい子だったから」
「……!」
その微笑みは、冷酷なまでに強固だった。
自分が正しいことをしていると確信している彼女に、何を言っても無駄に思えた。
(駄目だ。話が通じない。こいつは――まともじゃない)
レイモンドは戦慄した。ソフィアも、兄たちも、こんな女に支配されてきたのか。
自分がいくら「愛している」と伝えても、ソフィアが最後まで心を許さなかった理由。それも無理からぬことだったのだと、彼はようやく理解した。
だが、レイモンドが絶望に沈みかけた、その時だった。
廊下から、一点の迷いもない足音が近づいてくる。
そうして、扉が開き現れたのは――フェリクスに伴われ、毅然とした面持ちでこちらを見据える、ソフィアの姿だった。




