俺はお前の味方だ。何があってもな
「……少し話せるか? ……できれば、二人きりで」
兄オスカーの真剣な眼差しに、ソフィアは胸のざわめきを抑えながら、静かに頷いた。
本来ならば客間に通すべきところだが、人払いを望む兄の意図を汲み、ソフィアは彼を自室へと招き入れた。
部屋に入ると、オスカーはテーブルの上に無造作に置かれた布に目を留めた。銀灰色のシルクと、紫の刺繍糸がかかった刺繍枠を、どこか意味深な面持ちで見つめる。
「……刺繍、続けてたんだな。……綺麗な色だ、よくできてる。ウィンダム侯に渡すのか?」
「ええ、そのつもりよ。よかったら、お兄様にも何か差し上げましょうか?」
「え? いや、別にそんなつもりは――」
「遠慮しないで。完成品が沢山あるのよ」
確か引き出しに、刺繍を入れた男もののハンカチがあったはず。刺繍は趣味なので、贈る相手がいなくとも、ついつい作りすぎてしまうのだ。
ソフィアは紺色のハンカチを取り出し、オスカーに手渡した。灰色の糸でフクロウが刺繍されている。
オスカーはそれを受け取ると、「大事にする」と微笑んだ。
ソフィアは微笑みかえし、ティーセットを用意する。
「お口に合うといいのですけれど」と、湯気の立つ紅茶を差し出すと、オスカーは懐かしそうに目を細めた。
「ありがとう、ソフィ」
オスカーはカップを受け取り、一口含む。そうして、ほうっと息を吐いた。
「懐かしい味だな。安心する」
「ふふ、それは何よりですわ」
オスカーは尚も微笑んだが、その視線はどこか定まらず、落ち着きのない様子が見て取れる。
話をどう切り出すか悩んでいる顔だ。ソフィアは、自分から聞くことにした。
ソファの対面に腰を下ろし、本題を切り出す。
「それで、お兄様。お話というのは? アリスを同席させないということは、よほどのことなのでしょう?」
その問いに、オスカーはカップをソーサーに戻し、深く息を吸い込んだ。
「……実は昨日、荷物を取りに領地の屋敷へ寄ったんだ。そこで偶然、母さんと兄さんの会話を聞いてな」
オスカーの声は、いつになく低い。
ソフィアは不安を覚えながら、話に耳を傾ける。
「母さんが兄さんに言ってたんだ。〝お前を屋敷に連れてこい〟って」
「!」
「母さんはどうやら、お前がウィンダム侯と離縁するつもりだと踏んでいるようだった。それだけじゃない。離縁したあと、お前がイシュと共に帝国に行くつもりなのではと――そう言っていた」
「……なっ」
ソフィアは息を呑んだ。オスカーの口から飛び出した、兄と母親の名。そして、母親の予期せぬ言葉に、さぁっと全身の血の気が引いていく。
(どうして、お母様が離縁のことを知っているの? イシュとのことだって……)
イシュとの関係は誰にも話していないはずだ。少なくとも、ビジネスパートナーであることを知るのは、自分とアリス、そして、イシュ本人――あとはレイモンドに話しただけ。
実家とイシュはもともと顧客と商売人の関係なので、イシュのことを知っているのは当然だが、自分とイシュが友人であることは知らないはず。
それに、レイモンドとは円満な夫婦を演じ続けてきたのに。
「どうして、そんな話に……」
「俺にもわからない。でも、母さんは言っていた。『三年経っても子供ができないのだから、夫婦仲が冷え切っているのは明白だ』と。……ソフィ、お前、本当にウィンダム侯とうまくいっていないのか? イシュとお前は、いったいどういう関係だ? もしかして、深い仲だったのか?」
「――っ」
オスカーの瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。
彼は、ソフィアとレイモンドが契約結婚であることを知らない。イシュとの関係も知らない。
あくまで一般的な夫婦として、不仲ゆえに離縁を考えているのだと思っているのだ。そして、自分が本当はイシュと心を通わせているのかと、案じているのだ。
ソフィアは膝の上で拳を握りしめ、震える声で否定する。
「……違います。旦那様は、とてもお優しい方です。わたしによくしてくださいますし、不仲などという事実はございません。イシュのことも……彼とは、ただの友人です」
「なら、離縁するという話は嘘なんだな?」
オスカーが身を乗り出す。
「母さんの勘違いということでいいんだな? イシュと一緒に行くというのも……」
「…………」
ソフィアは言葉に詰まった。
――否定しなければ。全て母の勘違いだと言わなければ、そう思った。
どうして母に情報が洩れてしまったのかはわからない。けれど、オスカーを心配させるわけにはいかない。
だが、自分を純粋に心配してくれている兄に、簡単に嘘をつくこともできなかった。
レイモンドとの結婚は契約であり、その期日はあと三週間に迫っている。離縁する予定であることは、紛れもない事実。
それに、もともとイシュと共に帝国に行くということになっていたのも、紛れもない真実だ。
沈黙するソフィアを見て、オスカーは苦渋に満ちた顔をした。
妹の沈黙が何を意味するのか。聡明な彼には察しがついたのだろう。
「……そうか」
オスカーは短く呟き、背もたれに体を預けて天井を仰いだ。
重苦しい沈黙が流れる。
やがて、彼は再びソフィアに向き直り、諭すような、けれど力強い口調で言った。
「ソフィ。俺はお前の味方だ。何があってもな」
「お兄様……」
「もし閣下とうまくいっていないのなら、俺のところに来たっていい。あるいは、イシュと一緒に行きたいのなら、行けばいいさ」
オスカーはニカっと笑ってみせたが、その笑顔はどこか痛々しかった。
「母さんのことは俺が何とかしてやる。だからお前は、誰に気兼ねすることなく、好きなようにしていいんだぞ」
その言葉は、ソフィアが今一番欲しかった言葉であり、同時に、一番胸を締め付ける言葉でもあった。
兄は何も知らないまま、ただ妹の幸せを願ってくれている。自分が「契約結婚」という秘密を抱え、レイモンドやイシュ、そして兄に対しても不誠実なままでいるというのに。
ソフィアはこみ上げる涙を堪え、やっとのことで口角を持ち上げた。
「……ありがとう、お兄様」
その笑顔は、触れれば壊れてしまいそうなほど儚かったのだろう。
オスカーは一瞬顔を歪めたが、すぐに立ち上がり、ソフィアを強く抱きしめた。
「何かあったらすぐに知らせろ。真っ先に駆け付けるから」
――嘘だ、と思った。大陸の各地を飛び回る仕事をしているオスカーが、すぐに駆け付けてくれるはずがない。
けれど、その気持ちだけは絶対に本物だと悟ったソフィアは、兄の腕の中に顔をうずめ、こくりと小さく頷いた。
こうして、オスカーは屋敷を後にした。
屋敷の玄関先で、兄を乗せた馬車が坂道を下っていくのを、ソフィアはじっと見送っていた。遠ざかる馬蹄の音が、まるでカウントダウンのように響く。
「奥様……」
背後から、アリスがそっと近づいてきた。
その表情は不安に揺れている。
「オスカー様のお話って……何だったんですか? ただの再会、というわけではなさそうでしたが……」
ソフィアは馬車が見えなくなってもなお、視線を外さずに、小さな声で答えた。
「……どうやら、わたしが旦那様と離縁するという情報が、お母様に伝わったみたいなの」
「えっ!?」
「お母様が、フェリクスお兄様にそう言っていたらしいわ。『私を連れてきなさい』って」
「そ、そんな……。どうして……」
アリスは絶句し、青ざめた手で口元を覆った。
母が知っているということは、実家全体が動くということだ。そして、あのフェリクスが動くということでもある。
このままでは、イシュラへの逃避行すら危ういものになるかもしれない。
「これから、どうなさるのですか……?」
アリスの震える問いに、ソフィアは視線をゆっくりと海の方へと向けた。
丘の上から見下ろす港には、数多の船が停泊している。その向こうには、どこまでも続く水平線。
それは自由への道か、それとも――。
「どうしようかしら」
ソフィアは呟く。その声は風にさらわれ、誰にも届かない。
「でも……もう、あまり時間がないわ」
契約満了まで、あと三週間。
イシュラへ向かう船が出るまで、あと三日。
迫りくる決断の時を前に、ソフィアはただ、遠く霞む水平線を見つめ続けることしかできなかった。




