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少し話せるか? できれば、二人きりで


 翌日。

 朝の光が差し込むソフィアの私室は、まるで仕立屋の商談室の様相だった。

 テーブルの上はもちろん、ソファの背もたれや座面に至るまで、布地が積み上げられているのだ。厚手のコットン、実用的なリネン、そしてウール――。

 この軍港の街で手に入る、素朴だが丈夫そうな布の山を前に、アリスは引きつった笑みを浮かべていた。


「奥様。こんなに布をお買いになって、どうなさるおつもりなのですか? お店が開けそうな量ですよ」

「…………」

「イシュ様と一緒にイシュラへ向かわれる予定ではなかったのですか? あと四日で船に乗るというのに、この荷物。とてもトランクには入り切りませんけれど」


 アリスの指摘はもっともだった。ソフィアは言葉もなく、布の山を見つめて項垂れる。


 昨日の自分はどうかしていたのだ。首都の洗練された店では見かけない、軍港ならではの珍しい生地の数々。裁縫好きなソフィアは、その素朴だが力強い風合いに魅了され、何を作ろうかと想像を膨らませるうちに、つい夢中になって買い込んでしまったのだ。


「言わないで、アリス。わたしも今、同じことを思っていたの……」

「あら。自覚がおありでしたか」

「ええ……。昨日は少し、浮かれていたみたい」


 ソフィアが照れくさそうに認めると、アリスはやれやれと肩をすくめた。

 ふと、ソフィアの視線が、積み上げられた布の一つに留まる。素朴な布の山の中で唯一、異彩を放つ美しい光沢――シルバーグレーの上質なシルクだ。


 ――ソフィアは、昨日訪れた裁縫店の、女性店員の言葉を思い出す。


『これですか? ある商家の奥方の注文で仕入れたのですが、急にキャンセルされてしまって。こんな上等な品、うちみたいな店じゃ他に買い手もつかないし、どうしようかなと』


 店員の困り顔を見て、ソフィアは迷わず買い取った。別にボランティアというわけではない。実際に布は良質で、価格も適正。買わない理由がなかった。

 その滑らかな生地を見ていると、昨日のレイモンドの言葉が蘇る。


 ――「あのハンカチ、俺がもらってもいいだろうか?」

 ――「君の瞳の色と同じ、澄んだ紫だった。俺はあれが欲しい」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 三年間の結婚生活の中で、ソフィアは何度もレイモンドに刺繍入りの品を贈ってきた。ハンカチはもちろん、ネクタイや小物にも、家門の紋章をはじめ、鳥や馬などの動物などを縫い込んで渡してきた。


 それらは初め、ただの儀礼的なものだった。契約結婚であることを周りに悟られないために、仲の良い夫婦を演じるための小道具――少なくともソフィアはそう思ってきた。


 花や香水や宝石を贈ってくるレイモンドに、ソフィアは刺繍入りの小物を贈る。

 刺繍とは、熟練者でもハンカチ一枚に数時間を要するもの。つまり、手間のかかる愛情の証だ。

 だが、刺繍含め裁縫全般が得意なソフィアには何の苦でもなく、むしろ楽しい作業だった。そのかいあって、誰一人として二人の仲を疑う者はいなかった。

 ソフィアの刺繍入りの小物を嬉しそうに受け取るレイモンドの態度も、その要因だったかもしれない。


 ――だが、ソフィアはそんなレイモンドの態度を、ずっと演技だと思っていた。

 贈ったハンカチを肌身離さず持ち歩いているのも、よくできた「契約夫」としての演技なのだと。


 けれど、そうではなかった。レイモンドはきっと、心から喜んで、刺繍入りのハンカチを身につけてくれているのだ。

 それを昨日改めて悟らされ、ソフィアは急に申し訳なく思ったのだ。


 彼が望むなら、今の自分にできる精一杯のものを贈りたい。たとえ四日後にこの家を出ることになったとしても、感謝と謝罪の代わりになるものを。


 ソフィアは銀灰色のシルクを手に取った。

 昨晩刺していたハンカチは女性用の花柄だった。彼に贈るなら、もっと彼に似合うものがいい。

 だが、所望された紫色(すみれ)の花は、少々女性的すぎる気がする。紫で、もっと男性らしい図案はないだろうか。


「アリス、紫で男性らしいもの……何かいい案はないかしら?」

「そうですね……葡萄の房などはいかがです? でも、それは以前ネクタイに刺しましたね」

「そうだったわ。じゃあ、盾や剣のモチーフは?」

「旦那様はお好きでしょうけれど……この繊細なシルクに合わせるには、少し無骨すぎませんか? 生地の光沢と合わない気がします」


 アリスと共に布を広げながら思案する。

 ふと、窓の外を横切る鳥の影が目に入った。レイモンドは鷹狩りを嗜み、屋敷でも鷹を飼っている。


「……では、紫の羽根はどう? 軽やかだけれど、デザインを工夫すれば力強さもでると思うの」

「それならよさそうです! 旦那様は鷹を飼っていらっしゃいますし、ウィンダム家の家紋は鷹と盾ですから丁度いいと思います」

「ではそれで決まりね」


 ソフィアは頷き、紫の刺繍糸を手に取った。

 アイテムは、この銀灰色のシルクを使ったクラバットにしよう。首元を飾る装飾品なら、軍服の下にも身につけられる。

 羽根の刺繍なら、男性らしさと優雅さを兼ね備え、レイモンドに似合うはずだ。


 こうしてソフィアは刺繍を始めた。

 レイモンドは今日、朝から夕方まで仕事で不在だ。時間はたっぷりある。

 静かな屋敷に、針が布をすべる微かな音だけが響く。

 一針、一針、紫の糸が銀の布に根を張っていく。無心で針を動かしていると、不思議と心が凪いでいった。


 だが、午後二時を過ぎたころ、その静寂が不意に破られた。

 控えめなノックの後、部屋に入ってきたメイドが、困惑した様子で告げたのだ。


「奥様、お客様がお見えです」

「お客様?」


 ソフィアは針を止め、隣でレース編みをしていたアリスと共に顔を上げた。

 今日は来客の予定などないはずだ。そもそも、この軍港の街にソフィアの知人などいない。


「どなた?」

「はい……それが、オスカー・ハリントン卿と名乗られました」


 ソフィアは目を見開いた。

 オスカー。それはソフィアの二番目の兄の名前だ。


「お兄様が……?」


 三歳年上の次兄オスカーは、幼い頃からソフィアの良き理解者だった。

 庭を駆け回り、一緒に木登りをした記憶。七年前、酒に酔ったフェリクスに襲われたとき、フェリクスの顔面を殴り飛ばし、力ずくで止めてくれたのはオスカーだった。

 けれど彼は実家と折り合いが悪く、ソフィアがレイモンドと結婚したのと同時に家を出ていたはずだ。最後に会ったのは、レイモンドとの結婚式。つまり、来客が本当にオスカーなら、会うのは三年ぶりということになる。


(どうして、オスカーお兄様がここに……)


 実家にも、オスカーにも、自分がこの屋敷(ヴェルセリア)にいることは伝えていない。

 不思議に思いながら、ソフィアはアリスを伴ってホールへと降りた。



 吹き抜けのエントランスホールに、その人物はいた。

 ソフィアと同じローズブラウンの髪に、アメジストのような紫の瞳。長身で、人好きのする活発な顔立ち。三年前と少しも変わらない、懐かしい兄の姿がそこにあった。


「ソフィ!」


 階段を降りてきたソフィアに気づくと、オスカーはパッと表情を明るくし、大きく両手を広げた。

 その仕草を見た瞬間、ソフィアの胸に熱いものが込み上げる。迷うことなく階段を駆け下り、広げられた兄の腕の中に飛び込んだ。


「オスカーお兄様……!」

「久しぶりだな、ソフィ! 元気だったか?」

「ええ! お兄様もお元気そうで何よりですわ」


 力強く、けれど優しい兄の抱擁に、ソフィアは張り詰めていた心が解けていくのを感じた。

 しばらく抱擁され、ようやく体を離す。オスカーは愛おしそうにソフィアの頭をポンと叩いた。


「急に来て悪いな。――アリスも元気そうで何よりだ。いつも、妹が世話になっている」

「礼には及びません。こちらこそ、(ノア)がお世話になっております。学費を負担していただいて、感謝の言葉もございません」

「いや、世話をしてもらってるのは俺の方だ。俺が留守にしている間、あいつは屋敷の管理や資料の整理を完璧にこなしてくれる。冗談抜きで助かってるんだ」


 気取らない、昔と変わらぬ砕けた口調。ソフィアは涙を滲ませながら微笑む。


 オスカーは数年前から博物学協会に所属し、遺跡発掘や調査のために世界中を飛び回る探検家として活動している。貴族社会の窮屈さを嫌う彼らしい生き方だったが、一年の大半を旅先で過ごすため、オスカーが屋敷を離れている間は、アリスの弟であるノアが留守を守っているのだ。

 もともとあまり身体が丈夫ではないアリスの弟・ノアにとって、住み込みで学費の支援を受けながら屋敷の管理を任される環境は、願ってもないものだった。


「会えて嬉しいです。お兄様ったら、全然こちらにお戻りにならないのですもの」


 再会の喜びを噛み締める。だが、ふと冷静になると疑問が首をもたげた。


「でも、どうして急に? それに、わたしがここにいることは誰に聞いたのですか? もしかして、ノアから?」


 ソフィアはてっきり、アリスが手紙で弟のノアに居場所を教え、そこからオスカーに伝わったのだと思った。ちらりと視線を送るが、アリスは困惑した顔で「私じゃありません」とばかりに小さく首を横に振っている。


(アリスからではないとしたら、いったい誰から?)


 ソフィアが再びオスカーを見上げると、兄の顔が曇っていることに気づいた。

 オスカーは周囲に控えている使用人たちの様子をそっと伺うと、声を潜めてソフィアに一歩近づく。


「それなんだが……」


 オスカーの深い紫色(アメジスト)の瞳が、真剣な光を宿してソフィアを見つめた。


「少し話せるか? ……できれば、二人きりで」


 兄の纏う空気が、一瞬にして張り詰めたものに変わる。

 瞬間、これはただの再会ではないのだと――ソフィアの胸に、一抹の不安がよぎった。


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