そういうところが好きなんだ
レストランを出た二人は、辻馬車を拾い、街の北側にある丘を目指した。石畳の坂道を揺られながら登っていくにつれ、窓外の景色は赤茶の屋根の連なりから、果てしなく広がる海原へと移り変わっていく。
やがて馬車を降りると、そこはかつての砲台跡を利用した展望台だった。古びた石積みの壁が残る広場には、海から吹き上げる風が絶え間なく通り抜け、潮の匂いを運んでくる。
「少し風が出てきたな。寒くはないか?」
レイモンドが自然な動作で風上に立ち、ソフィアを庇うように背中を向けた。その背の広さと、気遣いの温かさに、ソフィアの胸はきゅっと痛んだ。
「平気です。とても良い眺めですわ」
眼下には、陽光を浴びてきらめく軍港が広がっていた。大小さまざまな艦船が停泊し、白い帆が風を孕んで揺れている。水平線は緩やかな弧を描き、空の蒼と海の群青が溶け合う光景は、息を呑むほど美しかった。
けれど、ソフィアの心は景色どころではなかった。レストランの前で「尋ねたいことがある」と切り出した問い。それを、まだ口にできていなかったからだ。
レイモンドはソフィアを急かすことなく、ただ黙って隣で海を眺めている。
その横顔を見上げ、ソフィアは意を決して口を開いた。
「あの……旦那様」
「ん?」
「先ほどの……質問のことなのですが」
「ああ。俺に聞きたいことがあると言っていたな」
レイモンドがゆっくりと視線を落とす。その瞳は、眼前に広がる海のように深く澄んだ碧を湛え、心の奥まで見透かされているように感じられた。
「旦那様はおっしゃいましたよね。わたくしが『心を開いてくれて嬉しい』と」
「ああ、言ったな」
「それに、その……わたくしの瞳の色が好きだと」
自分で言っていて、顔から火が出そうだ。けれど、ここで退くわけにはいかない。
「教えてください。旦那様は……わたくしの、どこを好いてくださっているのですか?」
刹那、吹き抜ける風がソフィアのドレスの裾を大きく揺らした。
レイモンドは驚いたように目を見開き、それから少し照れたように視線を海へ戻す。
「……全部だ」
「え?」
風に紛れて消え入りそうなほど低い声だった。
「君の全てが好きだ。……だが、どうしても理由を挙げろと言うなら」
彼は言葉を探すように一度口を閉ざし、そして静かに続けた。
「君の、その誠実さだろうか」
「……誠実、ですか?」
予想外の言葉に、ソフィアは呆然とする。
――自分は、彼を欺いているというのに?
「ああ。君は、俺との結婚を契約だと割り切っていたはずだ。にも関わらず、君は俺を一度も軽んじなかった。俺の両親や親族、部下たちにまで、常に敬意を持って接してくれた」
レイモンドはそこで、少し遠い目をした。
「君も知っているだろうが、俺の家は物心ついたときから冷えきっていてな。父も母も人前では取り繕っていたが、互いに愛人を囲い、家庭を顧みることはなかった。そんな家庭だったから、弟たちともすっかり疎遠だ。俺は両親を軽蔑していたし、両親のようにはなるまいと思っていた。だが、気づけば俺自身、両親と同じような退廃的な生活を送っていたんだ。……そのせいで、過去に一度、婚約が破談になったこともある」
ソフィアはその事実を知っていた。結婚前にハリントン家が行った家柄調査で、レイモンドがかつて女性関係の醜聞で婚約を破棄されたことも報告されていたからだ。
だがそれは調査当時で三年以上が経過した過去の話であり、当時のレイモンドは『堅物』『女嫌い』と称されるほど変わっていたため、ソフィアは深く気に留めなかった。もちろん、それが正式な結婚相手となれば話が変わっていただろうが――。
「――だが、君と結婚してすべてが変わった。たとえ契約のための仮の姿だったとしても、君との生活には実家では決して得られなかった安らぎがあった。俺は、君の待つ屋敷に帰るのが楽しみになったんだ」
ソフィアは、その告白に息を詰めた。
レイモンドは一歩、ソフィアに近づく。その距離は、契約の境界線を越えているように思えた。
「君は誰が相手でも、決して逃げずに向き合おうとする。……俺は、君のそういうところが好きなんだ」
「――ッ」
ソフィアは息をすることさえ忘れそうになった。胸の奥底を強く揺さぶられた。『妻の役目』として演じていた振る舞いすら、彼は誠実さとして受け止め、愛してくれている。だが同時に、鋭い刃が心臓を貫くような痛みも走った。
(違う……旦那様は間違っているわ。わたしは、そんな風に褒めてもらえる人間じゃない)
自分が誠実であろうとしたのは報酬のためだ。すべては帝国へ行く資金集めのためだ。彼が愛しているのは、『完璧な妻』という仮面を被った自分であって、ありのままの自分ではない。兄フェリクスとも向き合えず、舞踏会では逃げ出したほどだ。
そんな自分の弱さを知ったら、レイモンドはどう思うのだろうか。きっと失望するに違いない。
「……わたくしには、よくわかりません。だって、すべては演技だったのですよ? 旦那様だって最初はそうでしたよね? わたくしと同じ、演技だったんですよね? もしそのときの旦那様が好きだと言われたら、旦那様はその言葉を信じられるのですか?」
堪えきれずに問いかける。するとレイモンドは「難しいことを聞く」と、困ったように微笑んだ。
「信じられるかと言われれば、正直微妙だな。だが、気づいたら好きになってしまっていたんだ。それ以上の理由が必要か?」
「……っ」
瞬間、心臓がどうしようもないほど締め付けられる。レイモンドの熱を帯びた眼差しが、優しい声が、痛くて辛かった。
ソフィアが何も答えられずにいると、レイモンドは気を遣ったのか、ソフィアの前に右手を差し出す。
「風が強くなってきたな。そろそろ屋敷に戻ろう」
「……はい」
ソフィアは一瞬迷ったが、小さく頷き、レイモンドの手のひらに右手を重ねた。
傾きかけた夕陽が二人の影を長く伸ばす。
ソフィアは結局答えを出せぬまま、繋がれた手の温もりを感じながら、レイモンドと共にゆっくりと丘を下っていった。




