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少し、お時間をいただけますか?


 午後一時を迎える頃。

 ヴェルセリアの街は活気に満ちていた。中心通りには暮らしを彩る様々な店が立ち並び、多くの人々が行き交っている。


 パン屋から漂う香ばしい匂い。菓子屋の店先には色とりどりの砂糖菓子が並び、幼い子どもたちが母親に手を引かれて嬉しそうに覗き込んでいた。雑貨屋には日用品が所狭しと積まれ、アクセサリー店の小さなガラスケースには、庶民向けながらも愛らしい髪飾りやブレスレットが並んでいる。


 首都や交易港の華やかな店とは違うが、素朴で温かな雰囲気に、ソフィアは目を奪われた。派手さはないが、ここには人々の生活が息づいている。


「活気があって、いい街です」

「そうだろう? 首都のような華やかさはないが、この雰囲気を俺も存外気に入っている」


 隣を歩くレイモンドの声はとても穏やかだった。

 ソフィアはその横顔を見て、少し意外に思う。これまでレイモンドが扱ってきたものや、彼から贈られてきたものは、どれも王室御用達の高級品ばかりだったからだ。

 屋敷の家具やカーテン、食器類に至るまで一流品で揃えられ、身につけるスーツや靴、ネクタイピンも値の張るものばかり。お金の使い方も派手――というより無頓着で、生粋の貴族育ちだと思っていたし、軍人としての収入も多く、お金は有り余っている。

 だから、素朴なこの街の雰囲気を好むというのはレイモンドらしくないなと思った。


 レイモンドは通りを指し示しながら、街の全体像を説明してくれる。


「南側は船員や職人たちの暮らす地区だ。造船所や倉庫が並んでいる。東へ行けば市場通り。朝から晩まで人が集まり、オルディナ港から運ばれてきた食料品が並ぶ生活の要だな。学校と教会は中央の広場の奥にあって、この街の子どもたちは全員そこに通うんだ。北の丘に見えるあれは古い砲台跡で、今は見張り台として使われている。展望台もあるから、時間があれば後で案内しよう」


 その言葉に、ソフィアはレイモンドが、本当にこの街を気に入っているのだと感じた。


 思えば、貴族の妻や子どもたちはほとんど任地に同行しない。良い学校も高級店もなく、軍人の夫は船に乗れば何日も帰ってこないのが常だからだ。街に住むのは、大尉以上の軍人(しかも彼らは愛人を囲い込むのが常)か、貴族出身ではない家族持ちの軍人たちばかり。


 高価なドレスを仕立てられるような店はない――それはソフィアも常識として知っていた。だからもっと堅苦しい街だと思っていたし、首都で付き合う貴族女性たちは軍港を毛嫌いして悪口ばかり言っていた。


(やっぱり、自分の目で見てみなければ何もわからないのね。聞いていた話と全然違うわ。活気があって、温かい街……)


 ふと、通りの一角に目が留まった。ガラスの向こう、棚には巻かれた布地やレースの束が幾重にも並び、色とりどりの光沢が重なり合っている。

 ソフィアは思わず足を止め、視線を吸い寄せられるように店先を見つめた。


「入ってみるか?」


 レイモンドが声をかける。


「よろしいのですか?」

「もちろんだ」


 レイモンドが微笑んだのを合図に、二人は店の中へと入った。



 店内は決して広くはないが、棚には外から見えたとおり、色とりどりの布や糸、リボンが整然と並んでいた。高級な布地はないものの、丈夫で扱いやすそうなものが多い。壁際には既製品のレースやリボンも吊るされていて、ソフィアは興味を惹かれた。

 首都の店では貴族や中産階級の客が多いため、既製品よりも手編みの品が主流だ。けれど、帝国では既製品の質が上がり、年々人気を高めているとイシュが言っていたことを思い出す。


(サーラ・レーヴも、いずれはこうした既製品を視野に入れなければならないかもしれないわ)


 そんなことを考えながら、ソフィアは棚に並ぶ布地の一枚に目を留めた。鮮やかな橙色――光にかざすと濁りがなく、綿布なのに発色が澄んでいる。


「これ、とても綺麗な色ね。染料は……コチニールを使っているのかしら? それにしてはずいぶん値段が手ごろだわ」


 呟いたソフィアの声に店員が微笑み、首を振った。


「ありがとうございます、奥様。けれど、ここにはそんな高級品はありませんわ。この布は、玉ねぎの皮とクルミの殻を使っているんです。組み合わせるとこのような色になるんですよ」

「まぁ! 玉ねぎの皮を染料にするのは知っていたけれど、クルミの殻でこれほど鮮やかな橙になるの? 知らなかったわ」


 ソフィアは驚きと感心を隠せず、布を光に透かしてじっと見入る。首都で見慣れた高級染料とは違う、日常の工夫から生まれた色合い――それが新鮮で、心を惹かれた。


 さらに壁際のレースに目をやる。既製の機械編みだが、端の処理が丁寧で、洗っても崩れにくそうだった。


「このレース、耳の処理がきれいね」

「レース自体は機械編みですが、耳の処理だけは手で行っているんです。軍港の方は洗いに強いものを好まれるので」

「なるほど。確かにこれなら、何度洗っても端がほどけないわ。こうして工夫しているのね……」


 店員とのやり取りに夢中になり、声が自然と弾んでいた。――気づけば、少し大人げなくはしゃいでしまっていた。



 それから買い物を終え、店を出た二人は再び並んで歩き出す。と途端に、レイモンドが愉快そうに声を上げた。


「――にしても、随分な量だったな。預かってもらえることになって良かった」


 ソフィアはかあっと顔を赤く染め、思わず両手で顔を覆う。


「……申し訳ありません。つい夢中になってしまって」



 ――つい先ほどまで、ソフィアは品定めに没頭していた。その時間は一時間にも及んだほどだ。

 そうして会計を済ませたところで、ソフィアはようやく気がついた。とても一人では抱えきれないほどの品を選んでしまっていたことに。


(え? 今からこれを持って歩くの……?)


 いつもは裁縫店が目的地だったため、買ったらすぐに帰宅していた。だが今日は違う。それに、いつもなら一緒に荷物を持ってくれるアリスもおらず、この私物をレイモンドに運んでもらうのは気が憚られた。


 だが後悔が胸をよぎった瞬間、レイモンドが店員に声をかけてくれた。「後で使用人に取りに来させる。それまで預かってもらえないか?」と。

 店員は快く応じ、包みは奥へ運ばれていった。



「屋敷まで運んでもらうこともできたんだがな」

「いえ、さすがにそれはお店の方に申し訳ないです。家族経営のようでしたし……」

「……君はときどき、本当に貴族らしくないことを言うな。まぁ、そういうところもいいんだが」

「……え?」


 予想外の言葉に、ソフィアはぎくりとした。〝貴族らしくないところがいい〟――とはどういう意味だろう。もしや商売人としての裏の顔が出てしまったのだろうか。

 ソフィアレイモンドの横顔を呆然と見つめる。


 しかしレイモンドはそ知らぬ顔で、優しく視線を落とした。


「それに俺は、君の新たな一面を見れて嬉しいんだ。俺に少しは心を開いてくれたのかと」

「……!」


 ソフィアはごくりと息を呑む。〝心を開く〟――その言葉に困惑した。


(わたしが、旦那様に心を開いている……?)


 そんな気は少しもなかった。しかし言われてみると、確かにレイモンドの言う通りかもしれない。

 以前の自分ならレイモンドと一緒に裁縫店へ入ることはなかったはずだ。レイモンドの好みに合わせた店を選び、ましてや先ほどの様に、夢中で定員とやり取りをする姿など見せなかっただろう。

 なのに今日は、アリスといるときのようにはしゃいでしまった。それを「心を許す」と言わずして何というのだろうか。


(わたしったら、どうしちゃったの? ……こんなの、おかしいわ)


 思考の渦に呑み込まれながら歩いていると、レイモンドが思い出したように口を開く。


「そう言えば、君が屋敷でしていた刺繍は、誰かへの贈り物か?」

「……え?」


 これまた予想外の問いだ。

 ソフィアは一瞬返答に詰まったが、すぐに小さく首を振る。


「いいえ……特にそのような予定はありませんけれど」


 すると、レイモンドは期待を込めた眼差しでソフィアを見つめた。


「なら、あのハンカチ、俺がもらってもいいだろうか?」


 ソフィアは目を瞬く。


「えっと……もちろんかまいませんけれど、女性ものですわよ? 旦那様が持つには少々可愛いらしすぎるかと。それに、ハンカチなら今までに何枚も……」

「そうだな。君からもらった刺繍入りの小物は、すべて俺の大切な宝物だ。だが今日君が刺していた花は〝すみれ〟――君の瞳の色と同じ、澄んだ紫だった。俺はあれが欲しい」

「!」


 刹那、ソフィアはぴたりと足を止めた。こんなに人の往来の多い場所で、突然そんなことを言うなんて――再び茫然とし、一拍遅れて、羞恥心に顔を赤く染める。

 だがレイモンドは他意のない顔で、不思議そうに首を傾げるだけ。


「ソフィア、どうした? 何か気になる店でもあったのか?」

「……っ」

(まさか無自覚なの? ……旦那様って、こんな人だったかしら)


 どう返せばいいのかわからず、ソフィアは必死に言葉を絞り出す。


「い……いえ、何でもありませんわ」

「そうか? 入りたい店があれば遠慮せず言うといい。……ああ、だがそろそろ昼食の時間だな。他を回る前に腹ごしらえといこう。一本奥の通りに美味い店が――」



 その後、二人はレストランに入ったが、ソフィアは食事の間じゅう、ほとんど上の空だった。


 劇的な出来事があったわけでもない。ただ瞳の色を褒められただけ――それだけなのに、どうしてこんなにも頬が熱いのだろう。


 胸の奥に小さな灯りがともる。と同時に、不安が広がった。


(旦那様はわたしのどこが良くて、こんなことを言うのかしら……。正直、好かれる理由が少しもわからない。……聞いたら教えてくれるかしら? ――でも聞いてどうするの? あとひと月足らずで離縁するのに、知ったところで何の意味もないじゃない)


 とはいえ、このままでは何も決められない。心が前へ進めない。

 きちんと向き合わない限り、このモヤモヤが晴れることはないのだろう。



 レストランを出て、通りで馬車を捕まえようとしているレイモンドの背に、ソフィアは声をかけた。


「あの――旦那様」

「どうした?」

「わたし……旦那様にお尋ねしたいことがあるのです。少し、お時間をいただけますか?」


 改めて問いかけると、レイモンドは驚いたように目を見開いた。だがすぐに頬を緩め、穏やかに答える。


「ああ、もちろんだ。君のためなら、いくらでも」


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