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街を案内したい


 翌朝、軍港ヴェルセリアの丘の上の屋敷の二階、かつて客室だった部屋の窓辺に、ソフィアは腰を下ろしていた。

 窓の外には、朝の光を受けて白く砕ける波がきらめき、港に並ぶ艦船のマストが遠くに林立している。潮風は丘を越えて部屋に流れ込み、かすかな塩の匂いと帆を打つ風の音が、静かな室内に溶け込んでいた。


 ソフィアは潮の香りに満ちた部屋で、アリスと並んで刺繍をしていた。


 丸い刺繍枠に張られた白いレースのハンカチに、絹糸がするすると吸い込まれていく。針先が描く軌跡に沿って、下書きの輪郭が少しずつ花の形を帯びて浮かび上がる。縫い込んでいるのは、彼女が最も得意とする()()()の花――母に最初に教わった刺繍だ。


(……はぁ。わたしったら何をしているのかしら。精神統一のために刺繍なんて……)

 

 ソフィアは針を進めながら、昨夜の自分の言葉を悔いていた。

 レイモンドに「イシュとは恋人ではない」と言ってしまったこと。手を握られ、それを拒まなかったこと。


 そもそも、自分はどうしてイシュとの関係を否定してしまったのだろう。現実的に考えて、イシュと共に行く以外に道は残されていない。それを思えば、イシュとの関係は曖昧にしておく方が賢明だったはずだ。むしろ、イシュとの関係を疑われた時点で「離縁を望む」と伝えるべきだったのではないか。

 なのに、口から出たのは正反対の言葉で――どうしてあんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからない。


交易港(オルディナ)から船が出るまであと五日。わたしはどうしたらいいの……?)


 窓の外で白波が砕ける音が、心のざわめきと重なる。


 イシュと行くのが最も無難だと頭では理解していた。だが、東大陸の言語に不自由なアリスを連れて行くのは気が重い。かといって置いていくわけにはいかないし、イシュの誘いを断れば、少なくともあと二年はこの国で過ごさなければならなくなる。

 どちらにせよ、ひと月足らずでレイモンドと離縁することは決まっているのだから、イシュと行くにしても、行かないにしても、一刻も早く事を進めなければならない。

 それなのに、自分はレイモンドに隠し事をしたまま、こうして呑気に刺繍をしている。

 

 そんなとき、傍らで糸を整えていたアリスが口を開いた。


「にしても、昨夜は本当に驚きましたよ。夕食のお手伝いをしていたら、旦那様と奥様が手を繋いで散歩なさっているんですもの。わたしはてっきり、イシュ様と一緒に行かれるものだと思っていたのに……。考えを変えられたのですか?」


 ソフィアの肩が小さく震える。


「昨夜のことは触れないで。……自分でもどうしてああなったのか、わからないんだから」


 昨夜、夜の波打ち際で……気づいたときには手を握られていた。しかも、嫌だと思わなかった。――舞踏会の夜、兄に腕を掴まれたときはあんなに恐ろしかったのに。


(旦那様の手は……大きくて、逞しくて……なのに、とても優しかった)


 思い出した途端、頬が熱を帯びる。


(――やだ。わたしったら、なんてことを……)


 ソフィアはふるふると首を振り、再び視線を布に落とした。

 アリスは声を潜めて続ける。


「でもまさか、イシュ様と仕立て屋でお会いしたことが知られてしまうなんて。この状況で旦那様と離縁して東大陸(イシュラ)へ渡られたら、旦那様は間違いなくイシュ様――ヴァーレン商会を真っ先に疑うのでは? 恋人ではないと言っても、契約結婚のことをご存じでだと知られてしまったわけですし……居場所が第三者に知られる可能性も考えなければなりません」


 ソフィアは黙って頷いた。確かにその通りだ。

 五日後、この状況のままイシュに付いて行くことになれば、レイモンドは必ずイシュを疑うだろう。サーラ・レーヴとの関係は知られていないが、イシュが仕事のパートナーだと伝えてしまったのだから。


(こんなことになったのは、全部自分のせい。それはわかっているけれど、本当に頭が痛いわ)


 それでも針を進めるうちに、心は次第に刺繍へと没入していった。

 やがて二時間ほどが過ぎ、花弁が完成に近づいた間際、ソフィアはふと呟く。


「……やっぱりここは、もっと淡い色の方がいいかしら。――アリス、()()を取ってくれる?」


 だが、少しして差し出されたのは()()の糸だった。アリスにしては珍しい間違いだ。ソフィアは針を止め、首を傾げる。


「それは藍色よ。藤色はもっと紫が柔らかい――、……っ!」


 けれど、顔を上げた瞬間、視界に映り込んだのはレイモンドの姿で。

 ソフィアは一瞬にして蒼ざめる。


「……だ、旦那様っ!?」


 声が裏返り、慌てて立ち上がった。


「申し訳ありません! てっきりアリスだと思って……。大変失礼いたしました」


 いつから部屋にいたのだろう。ノックはしたのだろうか。――いや、レイモンドのことだ。きっとしたに違いない。自分が気づかなかっただけだ。

 つまり、自分はレイモンドに挨拶すらせずに、作業をしていたことになる。しかも――部屋にいるはずのアリスの姿はない。


 ソフィアが顔を赤くしたり青くしたりしていると、レイモンドは「ふっ」と吹き出した。


「驚かせたか。一応声はかけたんだが……」

「すっ、すみません。集中すると周りの声が聞こえなくて……」

「いや、俺の方こそすまなかった。それにしても、君の刺繍はいつ見ても見事だな」

「……ありがとうございます」


 どうやらレイモンドは少しも気にしていない様子だ。ソフィアはほっと胸を撫でおろす。


「ところで、旦那様はどうしてお屋敷に? この時間はお仕事のはずでは……」


 レイモンドは今朝、九時前には出掛けたはず。帰りは夕刻と聞いていた。

 それもあって、ソフィアはレイモンドが部屋にいる可能性を少しも考えなかったのだ。


 おずおずと尋ねると、レイモンドは穏やかに笑う。


「休みをもらってきたんだ」

「休み……ですか?」

「ああ。せっかく君が任地に来てくれたんだ。軍港は初めてだろう? 街を案内したいと思ってな」

「!」


 なるほど。確かに一理ある。

 隣の港(オルディナ)は商業港のため何度か訪れたことがあるが、軍港(ヴェルセリア)は初めてだ。

 どのようなところか、単純に興味がある。


「首都やオルディナ港と比べれば限りなく地味だがな。ひと月とはいえ、ここに住むんだ。知っておいて損はないだろう」


 ――ひと月。

 その言葉にツキンと胸が痛んだが、断る理由はない。ソフィアは刺繍をテーブルに置き、にこりと頷いた。


「……はい。では、よろしくお願いいたします、旦那様」


 刹那、レイモンドの瞳が柔らかく光を帯びる。

 その瞬間、ソフィアの胸に、昨夜と同じような温かさが広がっていった。


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