恋人同士ではありません
「……え? わたしがイシュを……愛している?」
「……なるほど。〝イシュ〟か。あの男も、君を馴れ馴れしく〝フィア〟と呼んでいた。……やはり、君はあの男と恋人関係というわけか」
「――ッ」
刹那、ソフィアは素っ頓狂な声を上げてしまいそうになった。
レイモンドの口から放たれた言葉が、あまりにも想定外だったからだ。
(確かに、わたしはイシュと共に帝国に渡る予定でいたわ。でもその理由は、わたしが彼を愛しているからじゃない。まして、恋人同士だなんて有り得ないわ)
彼に「外を歩こう」と誘われたときから――否、首都の仕立て屋でイシュから「閣下に何か言われなかった?」と尋ねられたあの瞬間から、ソフィアはずっと不安を抱えていた。
自分とイシュとの関係を、レイモンドに知られてしまったのではないか。だからレイモンドは、何も言わずに任務に発ったのではないか――そんな疑念が胸の奥に燻っていた。
そしてその不安は、「イシュとの関係を知っている」という言葉を聞いたとき、確信へと変わった。
レイモンドは、自分とイシュが「サーラ・レーヴ」に関わるビジネスパートナーであることや、契約結婚の満了後に帝国へ渡航する計画――その核心に触れてしまったのだと。
そして、それが何らかの形で実家に伝わることを、何よりも恐れた。
けれど、レイモンドが口にしたのは「恋人関係」で――あまりにも的外れな疑いに、ソフィアは驚きと同時に、拍子抜けするような安堵を覚えた。
「どうして、そのようなお考えに……? 彼とは、そういう関係ではありませんわ」
イシュに抱いているのは友情と信頼であり、決して恋情ではない。それはソフィア自身が一番よくわかっている。
だが、レイモンドの疑いの目は変わらない。
「ならば、なぜ舞踏会の夜に二人きりでいた? 仕立て屋で会っていたこともそうだ。そもそも、彼は俺と君の契約結婚のことを知っていたんだぞ。それについてはどう説明する?」
「!」
鋭い追及に、ソフィアはハッと目を見張る。
確かにレイモンドの言うとおりだ。
レイモンドの話では、彼はイシュから「今すぐ離縁しろ」と迫られている。実家のハリントン家にも伝えていない契約結婚の期日まで知っているイシュを、恋人だと誤解するのは当然のことだろう。
それでも、違うものは違うのだ。イシュとは恋人ではない。
だが、全てを明かすことはできなかった。
「彼……イシュは、学生の頃からの友人です。久しぶりに帝国に来たので、近況を話しただけですわ」
「友人だと? さすがにそれは無理があるだろう。俺との契約結婚の期日を知るあの男を、ただの友人だと信じられるほど、俺は鈍感じゃない」
「…………」
「ソフィア、正直に言ってくれ。俺は君を責めるつもりはない。ただ、君の心を知りたいんだ。俺の想いが、これ以上君を苦しめてしまってはいけないから」
「……苦しめる? それは、いったいどういう意味でしょうか」
「君は誠実で、正義感の強い女性だ。もし君が本心ではあの男と共に行きたいと思っているのに、俺との契約のせいでこの場に留まっているのだとしたら……それは俺が、君を苦しめていることになる」
「――!」
ソフィアは言葉を失ったまま、潮風に揺れる髪を押さえた。夜空の星々が瞬く暗闇の中で、レイモンドの真っすぐな眼差しが痛いほど胸に突き刺さる。
(どうして、この人はいつもこんなに真っすぐなの……? わたしは誠実なんかじゃない。何もかもが偽りで……今だって、あなたに隠し事をしているのよ? なのに……)
罪悪感が胸を締めつける。
――昔から、帝国で店を開くのが夢だった。服を作ることは、子どものころから自分に許された唯一の楽しみだったからだ。
アリスを始め、使用人たちの服を縫い、孤児院の子どもたちに新しい服を届ける。それを着た子どもたちの笑顔を見るのが何よりの幸福だった。
けれど、この国では貴族の女性が働くことは許されない。刺繍ならともかく、服を仕立てるという作業は、貴族夫人の道楽としても相応しくない。
だからソフィアは契約結婚の報酬を利用し、帝国に移住しようと考えた。
帝国には色々な素性の人間がいる。貴族の身分を捨て、商売を営んでいる者も珍しくない。この窮屈な国を出て自分の力で道を切り開いてみたい。贅沢かもしれないが、それが自分の人生だと信じていた。
けれど、その考えが甘いものだったことを、この数日で痛感した。
イシュの助けがなければ帝国に渡ることすら叶わない。フェリクスとの過去を乗り越えることもできず、イシュには心配をかけるばかり。挙句には「共にイシュラへ」と誘われても即答できなかった。――理由は、レイモンドにどう説明すればいいかわからなかったから。
結局、自分は誰にも嫌われたくないのだ。レイモンドにも、イシュにも、良い顔をしたいだけ。だから心が迷う。
(旦那様はこんなにも真っすぐに、わたしに向き合ってくださるのに……)
――ああ、どうして自分はこんなにも臆病で、卑怯なのだろう。どうして彼は、こんなわたしを「好き」だと言ってくれるのだろう。三年の間の何もかもが偽りだと知りながら、どうして……。
結局、ソフィアは答えられなかった。
レイモンドが納得する答えも、自分の本心も伝えられず、ただ黙って立ち尽くす。
そんなソフィアを見て、レイモンドはふっと瞼を伏せた。
「……すまない。君を困らせるつもりじゃなかった。――風が出てきたな。そろそろ戻ろう」
背を向けて歩き出す。その背中は見たこともないほど寂しげで、ソフィアの胸はズキンと痛んだ。
(……何か、言わなきゃ。このままじゃ、旦那様が……)
彼をこれ以上傷つけたくない。イシュとの関係を誤解されたままは嫌だ。
そんな思いが膨れ上がり、ソフィアは声を絞り出す。
「――待ってください」
その声にレイモンドは足を止めた。振り返った彼の表情は、暗闇に溶けてはっきりしない。
それでも、ソフィアはレイモンドを見据える。
「確かに旦那様のおっしゃるとおり……本当は、ただの友人じゃありません。……イシュとは、その……仕事のパートナーで……」
「……仕事?」
意外だったのだろう。レイモンドの声には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
「契約のことがあって、詳しい内容は申し上げられませんの。でも……これだけは確かです。彼とは決して、恋人同士ではありません」
「!」
「だから……旦那様のお気持ちが、わたしを苦しめるなんてことは……」
言葉を紡ぎながらも、ソフィアは自分でも気持ちが定まらないのを感じていた。胸の奥で罪悪感と恐れがせめぎ合い、言葉は途切れ途切れになる。
そんな彼女の様子を見て、レイモンドはゆっくりと歩み寄った。石畳を踏みしめる足音が近づき、やがて目の前に立ち止まる。
「……本当だな?」
低い声がしたと同時に、大きな手がソフィアの手を包み込んだ。固く温かな掌が、逃げ場を与えないように握りしめる。
ソフィアは息を呑んだ。驚きのあまり思わず手を引っこめようとしたが、レイモンドの力は強く、びくともしない。
「本当に、恋人ではないんだな?」
「……はい」
「異性として、慕う気持ちもないと?」
「ええ、ありません」
か細い声で、それでも確かに答える。
するとレイモンドは、至近距離でソフィアを見下ろした。
「……わかった。その言葉を信じよう」
刹那、レイモンドの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。それはぎこちなくも安堵に満ちており――ソフィアはどうしようもなく、胸を締め付けられる心地がした。
それから二人は、互いに言葉を交わさぬまま、丘の上へと続く小径を並んで歩き出した。
夜風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音が響く。足元の石畳は冷たく固い。けれど、繋いだ手の温もりは、屋敷に戻るまで一瞬たりとも離れることはなかった。




