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君は、あの男を愛しているのか?



 軍港の沖に停泊する艦影が、夕闇に溶けていく。

 初夏の潮風に頬を打たれながら、馬上のレイモンドは視線を前へと注いだ。海沿いの丘の上に、小さな屋敷がひっそりと佇んでいる。


 本来、軍人は官舎に住むのが常だ。だが大尉以上の将校や既婚者には外部住居が許されており、レイモンドもその例に倣っていた。軍港ヴェルセリアにはウィンダム家の別邸があるものの、そこは海軍大佐である父が愛人を囲って暮らす場所。息子として足を踏み入れる気には到底なれない。

 ゆえに彼は、街外れの丘に建つこの屋敷を友人から借り受け、任地での仮住まいとしていた。


 二階の窓に、柔らかな灯りがともっているのが目に入る。かつて客室だった部屋だ。


(……ソフィアだ)


 確信が胸を打つ。

 使用人には、あの部屋をソフィアの寝室に整えるよう、前もって指示を与えていた。つまり、灯りの主は彼女以外に考えられない。

 胸の奥で何かが弾け、気持ちが早まる。レイモンドは馬を門前に乗りつけ、近くの使用人に手綱を押しつけた。


「――だ、旦那様……!? お帰りなさいませ!」

「挨拶はいい。馬を預かれ」


 言い捨てるや否や、返事を待たずに玄関へ駆け込む。

 数ヵ月ぶりの主人の帰宅に、玄関ホールにいた使用人たちが慌てて頭を下げた。


「お帰りなさいませ、旦那様!」


 だがレイモンドはそれに答えず、一言だけ投げる。


「ソフィアは部屋だな?」

「――は? はい、お言い付けどおり客室を――」


 最後まで聞かず、階段を駆け上がり、廊下を一気に抜け、客室だった部屋の扉を押し開ける。

 するとそこには、窓際の小さなテーブルに腰掛け、薄明かりの中で静かに佇むソフィアの姿があった。


 窓の外では沈みきった夕陽の残光が海面を朱に染め、波のきらめきが壁に揺れて映っている。その光に照らされた横顔は、儚げでありながら、目を逸らせぬほど鮮烈に美しかった。


「……ソフィア」


 安堵のあまり、数秒、言葉を失い立ち尽くす。

 ノックを忘れたせいか、ソフィアは驚いたように振り向いたが、すぐに立ち上がり、にこりと微笑んだ。いつもと変わらぬ、柔らかな笑顔で。


「おかえりなさいませ、旦那様。本日もお仕事、お疲れ様でございます」

「……っ」


 その笑みに、レイモンドの胸がかあっと熱くなる。

 胸の奥に溜め込んでいた不安が、潮騒(しおさい)に溶けるようにほどけていった。


(……来て、くれたのか)


 イシュと共に去ってしまうのではないかという恐怖は、今も胸の奥に燻っている。だがそれ以上に、今この瞬間、彼女が自分の目の前にいるという事実が、何よりも嬉しかった。


「……よかった。もう……会えないかと」


 思わず零れた言葉に、ソフィアは小さく瞬きをする。


「それは、どういう……」


 刹那、レイモンドは我に返った。

 ソフィアは舞踏会の夜に交わされたやり取り――イシュが「今すぐ離縁しろ」と迫ったことを知らない。ましてや、首都の屋敷で彼女を監視させていたことなど知るはずもない。自分の態度は、彼女にとって不可解に映るだろう。


(――だが、取り繕っている暇はない。俺にはもう、一ヵ月しか残されていないんだ)


 本当は、舞踏会のことも監視のことも口にするつもりはなかった。打ち明ければ、彼女は離れてしまうかもしれない。秘密を知ったなら、もう隠す必要はないと、すぐにでもイシュの元へ行ってしまうかもしれない。

 それでも、真実を語らねばこれ以上先へは進めない。そう悟った瞬間――。


「……舞踏会の夜は、ご迷惑をおかけして……申し訳ありませんでした」


 ソフィアの口から出たのは、謝罪だった。

 その表情に、レイモンドの胸に罪悪感が溢れる。こんな顔をさせたいわけじゃない。謝ってほしいわけじゃない。


「いいや、謝らなければならないのは俺の方だ」

「……え? どうして、旦那様が謝るのですか?」

「それは……」


 今度こそ、向き合わねばならない。だが屋敷の中では誰に聞かれるかわからない。ソフィアとイシュの関係を万が一使用人に知られれば、取り返しのつかないことになる。


「……ここでは話しにくいんだ。少し、外に出ないか。歩きながら、ゆっくり話そう」

「!」


 ソフィアは一瞬、顔を強張らせた。何かを察したのだろう。

 けれど彼女は断ることなく、困ったような顔で、小さく頷くだけだった。




 屋敷を出た二人は、並んで坂道を下っていった。丘の上からは、軍港の街と港湾が一望できる。

 暮れなずむ海は群青に沈み、停泊する艦船の甲板には次々と灯がともり始めていた。遠くで鳴る汽笛が夜の訪れを告げ、潮の匂いは歩を進めるごとに濃くなる。寄せては返す波音が、足元から胸の奥へと響いてくるようだった。


 しばし、二人の間に言葉はなかった。互いに口を開こうとしながらも、声にならない。

 そんな気まずい沈黙の中、レイモンドは隣を歩くソフィアの横顔を、何度も盗み見た。彼女は今、何を思っているのか。イシュのことか、それとも――。


 こんな状況だというのに、不意に「手を繋ぎたい」と思ってしまう自分に気づき、内心で叱責する。だが抑えきれない。彼女がただ隣にいるだけで、胸が締めつけられてどうしようもなかった。



 やがて、星が瞬き始める空の下で、レイモンドは足を止めた。

 潮風が二人の間を吹き抜け、ソフィアのドレスの裾を揺らす。


「……実は、知っているんだ。君と、イシュ・ヴァーレン卿の関係を」

「……っ」


 刹那、ソフィアが息を呑むのがわかった。月明かりに照らされた横顔が翳りを帯びる。

 レイモンドは視線を逸らさず、低く続けた。


「舞踏会の夜、あの男に言われたんだ。『今すぐ君と離縁しろ』と」

「――!」


 堪らず、ソフィアの瞳が大きく見開く。海を見ていた彼女の顔が、ゆっくりとレイモンドを仰ぎ見た。


「彼が、旦那様にそんなことを……?」

「ああ。〝どうせ残りは一ヵ月。今すぐ離縁しても変わらないだろう。今すぐ別れるのが君のためだ〟と、そう言われた」

「…………」

「だが俺は受け入れられなくて……君を、使用人に見張らせたんだ。だから、君が仕立て屋で、あの男と会ったことも知っている」

「――っ」


 ソフィアの瞳が揺れる。悲しみか、怒りか、それとも別の感情か。

 レイモンドには判別できない。ただ、彼女を失望させたことだけは痛いほどわかった。


「……本当にすまないと思っている。だが、そんな真似をしてでも確かめずにはいられなかった。君とあの男との関係を……疑わずにはいられなかった」


 言葉にしたことで、ようやく自分の弱さを認められた気がした。

 レイモンドは深く息を吸い込み、夜空を仰ぐ。群青の空に、星がひとつ、またひとつと瞬きを増していく。


 その光を見上げながら、レイモンドはついに、恐れていた問いを口にした。


「答えてくれ、ソフィア。君は……あの男を愛しているのか?」


 問いかけた瞬間、胸を抉るような後悔が押し寄せる。聞かない方がよかったのではないか。だが、知らずに進むことはできない。

 レイモンドはソフィアの瞳を真っ直ぐに見据え、さらに問う。


「君は俺と別れた後――あの男のもとへ行くつもりなのか?」



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