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さっさと夫人のところに行け


 朝靄の残る倉庫には、押収された火薬や銃部品が山と積まれ、兵士たちが慌ただしく出入りしていた。

 徹夜明けのレイモンドは、帳簿と目録に目を走らせながら、作業の遅れに苛立ちを抑えきれず声を張り上げる。


「数量の照合に何時間かけるつもりだ! あと一時間で終わらせろ!」


 怒声に兵士たちは肩を震わせ、慌てて動き出す。


 ――この二日間、レイモンドは密輸事件の後処理に追われていた。

 初日は船の臨検(りんけん)から始まり、積み荷の押収と封印、押収品リストへの署名。それに、商人以外の関係者――船長や乗組員への初期尋問と調書の作成も。

 実務の多くは部下たちに任せつつも、供述の整合性を突き合わせ、最終的な確認と承認はすべて大尉であるレイモンドの役目だった。

 それに、帳簿に記された「アルマ商会」なる架空の名義について、情報部に調査を依頼する文書も作成しなければならない。

 それらは非常に骨の折れる作業で、通常、二日や三日で終わるものではなかった。


 それでも、レイモンドは手を止めるわけにはいかなかった。

 今日の夕刻には、次の任地である軍港ヴェルセリアに、ソフィアが到着する予定だからだ。


(彼女を一人にするわけには……。いや、そもそも、彼女は俺の元に来てくれるだろうか……)


 正午を過ぎ、執務机に戻ったレイモンドは、思い詰めた様子で報告書の清書に取りかかる。だが視線は文字を追いながらも、意識は別の場所に引き戻されていた。



 ――四日前、舞踏会の庭園で。

 月明かりの下、イシュ・ヴァーレンは臆することなく言い放った。


「どうか今すぐ、彼女と離縁していただけませんか」


 その声音は確固たる意志を帯びていた。

 あの一言で、レイモンドは悟ったのだ。ソフィアとイシュは、ただの知人ではないと。


 そのことを、レイモンドはエミリオに打ち明けた。

 二日前、海風が吹き抜ける甲板で、ソフィアがイシュの膝に頭を預けていたこと、そして「離縁しろ」と迫られたことを。

 するとエミリオはしばし黙り込み、やがて真剣な眼差しで言った。


「……実は俺も聞いちゃったんだよ。舞踏会の夜、イシュ・ヴァーレン卿が帝国を離れて祖国(イシュラ)に戻るって。それってさ、つまり……」

「!」


 その言葉の意味がわからないほど、レイモンドは鈍くなかった。

 イシュが祖国に戻る。そこに舞踏会の夜のイシュの言葉を重ねると、答えは一つ。――イシュは、ソフィアを祖国イシュラに連れて行くつもりなのだ。


 しかも、そんなレイモンドに追い打ちをかけるように、昨日、首都の屋敷から鷹便が届いた。

 その報告書に書かれていたのは〝ソフィアが仕立て屋でイシュと会っていた〟という信じられないものだった。


(やはり……俺の知らないところで、二人はずっと繋がっていた)


 疑念は確信に変わり、胸の奥で嫉妬と不安が膨れ上がる。


(ソフィアは本当に来てくれるのか? いや、律儀な彼女のことだ。契約を投げ出すような真似はしないだろう。だが……もしかしたら、既に彼女は……)


 信じたい気持ちと疑念が交互に押し寄せ、理性を削り取っていく。


(……駄目だ。考えれば考えるほど、焦りばかりが募る)


 ペンを握る手に力が入り、インクが紙に滲んだ。報告書の清書は終わらず、調書の整合性も取れていない。押収品の最終確認も残っている。

 だが頭にあるのはソフィアのことだけだった。一刻も早く仕事を片づけ、ヴェルセリアへ向かわねば――その焦燥だけが彼を突き動かしていた。


 そんなときだ。


「……おい、レイモンド」


 不意に声をかけられ、顔を上げると、目の前にエミリオが立っていた。


「! お前……いつの間に」

「言っとくけど、ちゃんとノックはしたからな?」


 呆れ顔で溜め息をつきながら、エミリオは書類の束を差し出してくる。


「ほら。押収品の最終チェック、終わったぞ。ついでに情報部に出す調査依頼書も作っておいた。後はお前がサインするだけだ」

「……何? 依頼書を?」


 書類を受け取りパラパラと中をめくると、几帳面な字が並んでいた。見慣れないが、筆跡は間違いなくエミリオのものだ。内容も問題ない。


「まさか……本当にお前が作ったのか? この書類を?」

「見りゃわかるだろ。俺だってこれぐらいできるんだよ。普段はやらないだけで」

「…………」


 それはつまり、これまでは手を抜いていたという意味だろうか?

 レイモンドが目を細めると、エミリオはすかさず言葉を継ぐ。


「そんなことより、さっさと夫人のところに行けよ。押収品の移送は俺がやっとくから。今から出れば、日が落ちる前には着けるだろ」

「……は? いや、だが、まだ報告書の清書が……それに目を通していない調書も」

「いいから行けって。調書のチェックは副官の俺でもできる。報告書の清書もだ。お前、何のために俺がわざわざこんな面倒な役を買ってでたと思ってるんだよ」

「!」

「それにな、お前、ただでさえ顔が恐いのに、今日は輪をかけて恐いんだよ。皆が委縮してるの、気づいてないのか? あいつらの作業がいつもより遅いのは、お前の眉間の皺のせいだ」

「……っ」


 容赦ない指摘に、レイモンドは押し黙る。

 確かにその通りかもしれない。普段は手際の良い兵士たちが、昨日今日と妙に動きが鈍かったのは、自分の苛立ちが原因だったのだ。


 レイモンドは申し訳なさを覚えつつ、調査依頼書にサインを入れ、立ち上がる。


「悪い」

「いいって。今度酒でも奢ってくれよな」

「ああ」


(ソフィア……すぐに行く)


 レイモンドは軍馬に跨がり、ヴェルセリアへ向けて駆け出した。

 潮風が頬を打ち、胸の鼓動が早まっていく。


 ソフィアは来ているだろうか。――どんな話をされるだろうか。もしかしたら、今夜で終わりだと……イシュと共に行くと、そう告げられるかもしれない。

 それでも。



 やがて軍港に辿り着き、海辺に佇む屋敷に灯る明かりを目にする頃には、レイモンドの心は期待と恐怖で、今にも張り裂けそうだった。


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