これが、"契約妻"の言うことか?
――翌朝。
寝室を出たレイモンドは、ダイニングに向かうため一人廊下を歩いていた。
窓の外に目を向ければ、そこには雲一つない青空が広がっている。
けれどそれに反し、レイモンドの心はどんよりと曇っていた。
(……一睡もできなかった)
昨夜。レイモンドはベッドの中で必死に考えた。
どうしたらソフィアを引き留められるだろう。どうしたら好きになってもらえるのだろうかと。
けれど一晩中考えても、明確な答えは出なかった。
花も、菓子も、宝石も――レイモンドはこの三年間、幾度となくソフィアに贈ってきた。
最初は"仲の良い夫婦"を演じるための小道具にしか過ぎなかったが、いつしかそれは、レイモンドなりの愛情の形に変わっていった。
そしてそれを、ソフィアはいつだって笑顔で受け取ってくれた。
『このお花、とてもいい香りですね。居間に飾らせていただきます』
『外国のお菓子ですか? ――んっ、想像よりずっと甘い! 旦那様もおひとついかがですか? 美味しいですよ』
『まぁ、このような高価な宝石を……。……嬉しいです。着けてみてもいいですか?』
――喜んでいると思っていた。想いは伝わっているのだと信じていた。
けれど、ソフィアは契約通り、離縁を申し出た。それも、何の未練もないような顔で。
そんな彼女に、今までと同じようなことをしたところで、気持ちを変えられるとは思えなかった。
かといって、離縁を申し出られたこの状況で、素直に『契約期間の無期限延長』を願い出ればどうなるか。まして『好き』などと言ったら、彼女は今すぐ屋敷を出て行ってしまうかもしれない。
そう考え始めたら、すっかり眠れなくなってしまったのだ。
(昨夜ほど、寝室が別で良かったと思ったことはないな)
白い結婚なのだから当然と言えば当然だが、二人の寝室は別である。
二人が契約結婚であることを知らない使用人たちには、その理由を、『レイモンドの生活が軍務の都合で不規則な為』と伝えてあるが、もし寝室が一緒だったら、気まずいどころの話ではなかった。
レイモンドはダイニングの扉の前に立つと、一度大きく深呼吸する。
中にはソフィアと使用人たちがいるはずだ。普段通りにしなければ。
扉を開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。
自分より先に席につき、こちらに微笑みを向けるソフィア。礼儀正しい使用人たち。
食卓に並ぶのは、軍人のレイモンドのために料理人が腕を振るった、ボリューミーな朝食だ。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、ソフィア。昨夜はよく眠れたか?」
「ええ、とても。旦那様も……」
言いかけて、ソフィアは言葉を止めた。
椅子に腰かけたレイモンドの顔をじっと見つめ、心配そうに顔を曇らせる。
「もしかして、どこか具合がお悪いのでは? 顔色がよくないように見えますけれど……」
「――!」
レイモンドは息を呑んだ。
(どうして、気付いた……?)
その声音も、表情も、何もかもが完璧だった。
今のソフィアは、夫の体調を心から気遣う妻――それ以外の何者でもない。
しかも、ソフィアのこういった言動は、これが初めてのことではなかった。
だからこそレイモンドは、ソフィアも自分のことが好きなのではと思い込んだのだ。
(これが、"契約妻"の言うことか? 使用人の誰一人として気付かない俺の不調を、彼女だけが――。なのに、それが全て演技だったと……?)
レイモンドは、テーブルの上の拳をぐっと握りしめる。
「いや……大丈夫だ、問題ない」
「……ならいいのですが。あまり無理はなさらないでくださいね? ただでさえ働き詰めなのですから」
――尚も自分を気遣うような、ソフィアの視線。
そんなソフィアの態度に、レイモンドの胸はズキンと痛んだ。




