ご自分の望む道を選んでください
夜風が、薄い寝衣の裾を撫でていく。
夜の静けさに包まれたバルコニーで、ソフィアは東の空を仰いでいた。灯りの落ちた街並みは暗闇に沈み、その向こうで星々が優しく瞬いている。
けれど、その穏やかな景色とは裏腹に、ソフィアの心はまるで嵐が吹き荒れるかのようだった。
――「イシュラで二年間を過ごしたら、今度こそ帝国に渡ればいい」
――「君の夢が途絶えたわけじゃない。ただ、少し先に伸びるだけだ」
昼間、イシュに告げられた言葉が、耳の奥で繰り返しこだまする。
――「一週間後に船が出る。もし僕と一緒に行く気があるなら、一週間後の正午、港で待っていてほしい」
そう言ったときの、イシュの切実な顔が、脳裏に焼きついて離れない。
(……わたし、イシュに気を遣わせてしまったんだわ)
イシュは言っていた。「君の傷は癒えていない。そんな君を、ひとりで帝国にはやれない」と。
つまり――自分が兄フェリクスとの過去を克服していれば、イシュは安心して自分とアリスを帝国に送り出せたはずなのだ。あんな顔をさせることなく。
(舞踏会の夜、わたしが甘えてしまったせいで、イシュを悩ませてしまったんだわ)
舞踏会の夜、兄と遭遇し、恐怖に押し潰されそうになり、イシュに縋ってしまった自分。
もしあの夜がなければ、イシュは余計な心配を背負うことなく、一人で祖国へ戻っていたはずだ。
そう思うと、自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。
(……あの夜を、最初からやり直せたらいいのに)
やり直したところで、兄の次の赴任先が帝国であることは変わらない。兄への恐怖心も消えはしないし、帝国で兄と遭遇すれば、それこそ全てが終わりだ。
店の経営どころではなくなるし、この国に連れ戻されて、一生家の監視下で生きることになるのは間違いない。
とはいえ現実的には、広い帝国で大使館勤めのフェリクスと出会う確率は限りなく低い。イシュもそう考えていたのだろう。
だが、舞踏会で兄と顔を合わせた自分の狼狽ぶりが、イシュの考えを変えてしまった。
「……ほんとに、わたしって何も変わってない。ずっと、あの頃の弱いわたしのまま……」
昼間、帰りの馬車の中で、アリスは言ってくれた。
「奥様がどこに行こうと、お供します」と。
舞踏会で兄と会ったことを隠していたことを咎めもせず、気にする素振りすら見せず、ただ「どこまでも着いていく」と。
その言葉に、どれだけ勇気づけられただろう。けれど同時に、それが辛くもあった。
(……アリスは帝国語は話せても、東大陸の言葉はわからない。異国に連れていくのは、あまりに酷じゃないかしら)
自分は大丈夫。イシュから東大陸の言葉を習い、言葉も文化もある程度は理解している。
けれどアリスは違う。言葉の通じない土地で彼女を苦労させることになるのは目に見えていた。
――答えは出ない。
それに、一番の問題は――。
ソフィアは振り返り、部屋の中へ視線を移した。
そこはもともと、三年で離縁する契約結婚のために整えられた、飾り気のない部屋だった。家具こそ一級品だが、華美な調度品は一つもない、無機質な部屋。
けれど今は違う。机の上も、棚の上も、壁際の小卓も、レイモンドからの贈り物で埋め尽くされている。
この三年間「良き夫婦」に見せるために贈られてきた品々。
そしてひと月前、「君が好きだ」と告げられてから、毎日のように贈られるようになった花や小箱や装飾品が、部屋を覆い尽くしていた。
その部屋を眺めていると、理由もなく胸が苦しくなる。
(一週間で決めなきゃいけないなんて……。契約はまだ一ヵ月残っているのよ。途中で投げ出すなんて、あまりに不誠実だわ。……それに……こんな話をしたら、きっと旦那様は……)
契約期間は残り一ヵ月。それが一週間に縮まるだけだ。
離縁することには変わりない。それなのに、どうしてこんなに心がざわつくのだろう。
胸の奥に重く沈む感情を振り払うように、ソフィアは再び夜空を仰いだ。
すると、そのとき。背後で扉が小さく軋む音がした。
振り向くと、アリスが盆を抱えて立っていた。湯気の立つカップから、甘い香りが漂ってくる。
「あなた、まだ起きていたの? 休んでいいって言ったのに」
眉を寄せるソフィアに、アリスは柔らかく微笑んだ。
「奥様が悩んでいるときに、私だけ眠ってなんていられません」
差し出されたカップを見つめ、ソフィアは小さく息を呑む。
「どうぞ、ホットココアです。昔はよく、飲まれていましたよね」
「……そうね。……でも――」
「いいじゃないですか。このお屋敷の主は奥様です。何人たりとも、奥様のなさることを止められる者はおりません。――あ、一人だけいらっしゃいましたね、旦那様が。でも、旦那様は奥様がココアを飲むことを、咎めるような方ではないと思います」
「…………」
〝咎めるような方ではない〟――その言葉に、ソフィアはきゅっと唇を結んだ。
確かにアリスの言うとおりだ。レイモンドは母のように、〝虫歯になるから〟という理由で、ココアを禁止することはないだろう。
ソフィアはおずおずとカップを受け取り、小さく礼を言った。
「ありがとう。いただくわね」
「はい、奥様」
アリスはそのまま隣に立ち、ソフィアと共に夜空を見上げる。
そして、不意に口を開いた。
「……覚えていらっしゃいますか? 私が、お嬢様に拾っていただいたばかりの頃のこと」
「……え?」
不意の言葉に、ソフィアは両目を瞬いた。
急にどうしたのだろう。アリスに〝お嬢様〟と呼ばれるのは、三年ぶりだ。
戸惑うソフィアをよそに、アリスは濃紺の空の彼方を見つめ、懐かしげに目を細める。
「私、お嬢様に拾っていただくまで、花売りしかしたことがなくて……文字も読めず、家事もろくにできませんでした。屋敷に迎えていただいても、役立たずで、ここにいていいんだろうかって、迷惑なんじゃないかって、いつも怯えていて……。でもそんな私に、お嬢様は笑って言ってくださったんです。『誰だって最初は上手くいかないものよ。わたしだって、掃除や洗濯、お料理はできないわ。やったことないんだもの』って」
「…………」
「でも、『読み書きとお裁縫なら教えてあげる』って。私ができるようになるまで、根気よく教えてくださいました。初めて弟のズボンを自分で縫ったとき、仕上がりは正直あまりいいとは言えなかったけど、弟は凄く喜んでくれて……。私、本当に嬉しかったんです」
確かに、そんなこともあった。
あの頃の自分は、母の厳しい教育方針のもとで、ピアノや刺繍といった「貴族の子女らしいこと」ばかりを仕込まれ、乗馬や外遊びは一切許されなかった。
だからこそ、自分にできることといえば刺繍くらい。その刺繍を発展させて、母の目を盗んでは針子の真似事をしていた。布を解き、縫い直し、小さな袋や裾上げを試すのがひそかな楽しみだったのだ。
――これなら、アリスに教えられる。もし彼女がいつか独り立ちすることになったとしても、裁縫ができれば食べていくのに困らない。そう思って針を手渡した日のことを、ソフィアははっきりと思い出していた。
「私は、お嬢様のお側にいられて幸せです。だから、私、お嬢様にも幸せになってほしい。どうか、ご自分の望む道を選んでください」
「……アリス」
胸の奥が熱くなる。アリスの言葉は、慰めではなく、願いそのものだった。
「ねぇ、お嬢様? お嬢様が今、一番望まれていることは何ですか? お嬢様はどうしたいですか? イシュ様はああおっしゃっておりましたし、私も、フェリクス様のおられる帝国に渡ることは反対です。でも、選択肢は他にも沢山あるはずです。例えば……あと二年、このままここで過ごすとか」
「……!」
ソフィアは息を呑んだ。
確かに、その選択肢を考えなかったと言えば嘘になる。
この国の貴族社会や慣習は好きになれないが、この屋敷での生活は決して悪いものではなかった。
最初は面倒だったヴィンダム家との親戚づきあいも、今ではすっかり慣れたものだ。使用人も自分を慕ってくれているし、貴婦人方との関係も良好だ。
――だが、やはり残るのはいけない気がする。
もし離縁を二年後に伸ばしたいと言ったら、レイモンドは喜んで受け入れてくれるだろう。だが、それは彼の好意を利用することになる。いらぬ期待を抱かせてしまう。
それは、契約満了までの残り一ヵ月を一週間に縮める以上に、不誠実なことに思えた。
「…………」
(やっぱり、イシュと一緒に行くしかない。……そう思ってるのに、どうしてこんなに胸が苦しいの)
夜風が頬を撫でる。
ソフィアはカップを両手で包み込みながら、胸の奥に芽生えた初めての感情を、まだ何一つ消化できずにいた。




