僕と一緒に行かないか?
同じ頃、首都の大通り。
ソフィアはアリスと共に馬車を降り、人々で賑わう通りを歩いていた。
石畳の両脇には洒落た店々が並び、陽光を受けてショーウィンドウのガラスがきらめいている。
二人が目指すのは、通りの奥に構える高級仕立て屋――《メゾン・ド・フローレ》だ。
七年前にイシュと出会って以来、四年間通い続けた店であり、三年前にイシュが帝国へ発つまで、幾度となく足を運んだ場所だった。
貴族御用達のその店は、豪奢なドレスや礼服を誂える作業場だけでなく、商談用の応接間や採寸室がいくつも備えられている。
かつてソフィアとイシュは、その奥の部屋を借りて親交を深めていた。
その場所に、今ソフィアが向かっている理由。
それは、昨日アリス宛てに届いた一通の手紙だ。
差出人の名は「リリー」。イシュの偽名である。
三年前、ソフィアがレイモンドと結婚し「サーラ・レーヴ」を立ち上げた際、ソフィアに代わってアリスがイシュと連絡を取ることになったのだが、男性名では周りが不審に思うだろうと、「リリー」というこの国定番の女性名を使うことに決まった。
そのリリーからの手紙に「直接会って話したいことがある。明日の正午、いつもの場所で待つ」 と書かれていたのだ。
街中を並んで歩きながら、アリスは不思議そうに首を傾げる。
「それにしても、いったいどんなご用事でしょうね? 先日に引き続き、直接お会いしたいだなんて。舞踏会でもお会いしたのでしょう? そのときは何も言われなかったのですか?」
「……いいえ、何も」
確かにソフィアは舞踏会でイシュと会ったが、兄フェリクスと対面してしまった動揺のせいで、まともに話をするどころではなかった。
だが、フェリクスと会ったことはアリスには内緒なので、その辺りを上手く説明することもできない。
ともかく、「いつもの場所で待つ」という短すぎる文面に、ソフィアは嫌な予感を覚えた。
こちらの都合を伺いもしない、用件の書かれていない手紙。こういうのは大抵、良くない話と相場が決まっている。
三年ぶりに店の扉をくぐると、すぐに店主の男性が現れ、恭しく頭を下げて奥へと案内してくれた。
通されたのは、かつて幾度となく利用した商談用の応接間だった。
中央のテーブルを挟み、三人掛けのソファが二つ。
その一方の真ん中に、すでにイシュが腰掛けていた。
背筋を伸ばし、落ち着いた微笑みを浮かべているが、その眼差しにはどこか翳りがある。
店主が退室すると、部屋には三人だけが残された。
ソフィアは胸にざわめきを覚えながら、反対側のソファに腰を下ろし、イシュと向き合う。
「……イシュ、今日はいったいどんな――」
「一昨日の夜は、無事に帰れた?」
刹那、ソフィアの言葉を遮るように、イシュが口を開いた。
唇は微笑んでいる。けれど、目は笑っていないように見えた。それに、いつもよりも微妙に声色が硬い。
「……どうして、そんなこと」
「閣下から、何か言われなかった?」
答えるよりも早く、質問が重なる。
――間違いない。今日のイシュは何かが変だ。それに……。
「イシュ。あなた、旦那様と話したの?」
今のイシュの質問は、レイモンドと何か問題が起きたことを示唆していた。
そうでなければ「何か言われなかったか」などと聞くはずがない。
けれど、イシュはまともに答えなかった。
「その様子だと、閣下は君に何も話していないみたいだ。……とするなら、僕の口からは言えないな」
「何よそれ、いったいどういうこと? 話を振ったのはあなたの方じゃない。それに、こんな風に呼び出すなんてあなたらしくないわ。この前急に会いにきたのもそうだけど……三年前の約束を忘れたわけじゃないでしょう?」
三年前、二人は極力会わないと取り決めた。
お互いの関係を秘匿するため。そしてまた、ソフィアがイシュの手を借りて帝国に移住することを隠すために、やり取りはアリスを介しての手紙に留めようと決めたのだ。
それなのに、先日のアポなし訪問に始まり、今日に至っては強引な呼び出し。
ソフィアの知るイシュならば、決して取り得ない方法ばかりだ。
「ねえ、イシュ。何があったの? わざわざこの国に来たのは、仕事が理由なだけじゃないわよね? こんな風に呼び出したんだもの……こちらが本題ではないの?」
「…………」
はっきりとした声で問うと、イシュはかすかに目を細めた。
その瞳には、ソフィアでなければ気づけないほどの、小さな葛藤が揺れている。
イシュは諦めたように息を吐いた。
「……君に隠し事はできないみたいだ。――そうだよ、君の言うとおり。僕は君に会いにきたんだ。この先のことついて、どうしても伝えないといけないことがあったから」
いつにも増して真剣なイシュの声。
しかも内容は「この先のこと」について。
ソフィアはごくりと息を呑む。
「実は僕、来月から二年間、祖国に戻らなきゃいけなくなってね。父からの命令で、帝国を離れないといけないんだ。だから――君を、帝国には連れていけない」
「…………え?」
刹那、ソフィアは目を見開いた。
あまりにも予想外の内容だったからだ。
そもそも、数日前にイシュが屋敷を訪れたとき、そんなことは一言も言わなかった。それが今になって急にそんな話をするなんて、おかしいではないか。
「ちょっと待ってイシュ。だってあなた、この前はそんなこと……。それに、わたしはあなたがいなくたって平気よ? 帝国語も話せるし、アリスも一緒だもの。そもそも、あちらに行った後のことまであなたを頼るつもりは――」
確かにイシュがいれば心強い。店の経営について、頼りにするつもりでなかったと言えば嘘になる。
けれどイシュでなければ駄目ということはないし、「サーラ・レーヴ」には既存顧客もいる。資金も潤沢で、多少のことでは店は潰れない。
ソフィアはそう主張する。
だがイシュは苦しそうに顔を歪め、小さく首を振った。
「確かに、店については君の言うとおりだろう。でも駄目なんだ、フィア」
「駄目って、何が――」
慎重に尋ねると、イシュは数秒沈黙し、静かにこう言った。
「帝国なんだよ。君の兄、フェリクス・ハリントン卿の次の赴任先が」
「…………え?」
「僕も悩んだんだ。一月前、君の兄が帝国に来るって知って、どうするべきか。君は知っているのだろうかと、随分考えた。もう六年も前のことだし、君は忘れているかもしれない。気にしていないかもしれない。それなら、僕がいなくても大丈夫だろうって。……でも、あまりにプライベートなことだから、手紙で聞くのは憚られた。だから、直接顔を見て伝えようと」
「……っ」
イシュの顔が、罪悪感に歪む。
「ごめんね、フィア。僕、ハリントン卿が舞踏会に出席することを知っていたんだ。でも、君に言わなかった。君は彼の家族だから、ハリントン卿が出席することを知らないはずはないと思ったんだ。その上で、君は気にしていないのかと思っていた。――でも、違った。舞踏会の夜、君の反応を見て思い知ったよ。……君の傷は癒えていない。そんな君を、ひとりで帝国にはやれないって」
「……イシュ」
思い詰めた顔で俯いて、イシュは瞼を固く閉じる。
「だけど、この国に残しておきたくもない。イシュラは遠い。陸路と海路を合わせて一ヵ月の道のりだ。鷹便もそうそう飛ばせない。手紙のやり取りだけでも一苦労だ。だから、僕は考えた」
「……考えたって、何を?」
イシュは何を伝えようとしているのか――わからないまま尋ねると、イシュは深く息を吐きだして、ゆっくりと顔を上げた。
「僕と一緒に行かないか? イシュラに、着いてきてほしい」




