お前に口を出す権利はない
「――ハッ!」
レイモンドは耳を疑った。
イシュの口から何の前触れもなく放たれた『契約結婚に関する話』に、驚かずにはいられなかった。
だがそれは、なぜイシュが契約結婚について知っているのかという疑問ではなかった。レイモンドは、ソフィアとイシュの関係に、薄々勘づいていたからだ。
「それは、挑発か?」
低く唸るレイモンドに、イシュは目を細める。
「そう取っていただいて構いません。閣下がこの方と今すぐ離縁してくださるならば、僕は喜んであなたの敵となりましょう。流石に首は差し出せませんが、相応の賠償金をお支払いしますよ」
「――!」
(この男……やはり、ソフィアの……)
腹の奥で怒りが煮えたぎると同時に、イシュについての調査報告書の内容が、レイモンドの脳裏を過ぎる。
四日前、イシュ・ヴァーレンについて調査を執事に命じ、昨夜受け取った報告書。
そこには、イシュ・ヴァーレンの生い立ちや現況、七年前に初めてこの地を訪れていたことなどが書かれていた。
当時、まだこの国でのヴァーレン商会の立ち位置はそれほど強くなかったが、イシュの手腕により、たった二年で商会の地位を確立させたと。
その後、西大陸全土に独自の流通網を築き、帝国支部へ移ったこと。
その報告書の中には、ソフィアの名はどこにもなかった。
当然だ。レイモンドは、ヴァーレン商会とイシュについて調べるよう命じただけで、イシュとソフィアの関係を調べろとは一言も言っていないのだから。
だがそれでも、二人の関係に疑いを持つには十分だった。
イシュは二年もの間この国に滞在していた――特に、当時の商会の客の多くは貴族だった。となれば、ソフィアの実家と交流があっても不思議ではない。
さらに、服飾ブランド『サーラ・レーヴ』についての調査がほとんど空振りに終わったことも疑念を深める理由となった。
某ブランドについてわかったことは、設立年月日くらいなもの。
経営者も出資者も不明。唯一わかったことといえば、イシュが代理で代表を務めているという事実だけ。
ウィンダム侯爵家の情報網をもってしても掴めない――それを異常と言わずして、何と言うのか。
そんなブランドを、ソフィアはどのような伝手で知り、社交界に広めるに至ったのか。
イシュがブランドの代表を務めているということを考えれば、おのずと答えは導き出される。
ソフィアは他でもない、イシュのためにブランドを広めたのだと。
――実際は、ソフィアは自身のためにブランドを広めたのだが、サーラ・レーヴがソフィアのものであることを知らないレイモンドは、そのように結論づけた。
(やはり、俺の勘は正しかった。この男とソフィアの関係は――)
目の前で、イシュに膝枕されたまま、規則正しい寝息を立てるソフィア。
この状況やイシュの発言から、二人の関係性は明らかだ。――否、もしそうでなかったとしても、少なくとも二人は『契約結婚』の秘密を共有する仲であり、しかもイシュはソフィアに並々ならぬ感情を抱いている。
それだけは確実だった。
だが、だからといって今すぐ離縁などという提案を受け入れられるはずがない。
「ふざけるな……!」
レイモンドは怒りを露わにし、ソフィアを奪うように抱き上げる。
その腕は怒りに震えていたが、彼女を抱く手つきは驚くほど丁寧だった。
「お前がソフィアとどのような関係かは知らないが、これは俺たちの契約だ。お前に口を出す権利はない」
威圧する声に、けれどイシュは少しもひるまない。
「つまり、ぎりぎりまで離縁するつもりはないと……そう仰るのですね?」
「愚問だな」
挑戦的に自分を見上げる眼差しに、殺意にも近い感情が沸き上がる。
もしソフィアを抱えていなければ、迷わず殴り飛ばしていただろう。
だが今、腕の中にはソフィアがいる。
(ソフィアに、血を見せるわけにはいかない)
必死に自制して、レイモンドはイシュに背を向ける。
「これ以上話しても時間の無駄だ」
ソフィアを腕に抱き締め、その場を去ろうとした。
けれどその背を、イシュの声が引き止める。
「僕はフィアのために言っているんです。――私情ではなく」
ピタリと、レイモンドの足が止まった。
「……フィア、だと?」
イシュの口から飛び出た聞き慣れぬソフィアの愛称に、今度こそレイモンドの全身から殺気が迸る。
――どの口が、と、そう思った。
ゆるりと振り返ったレイモンドの眼差しは鋭く、夜気を震わせる。
「俺が帯剣していなくて幸運だったな。そうでなければ、お前は二度と人前に出られない姿になっていただろう」
「……なるほど。いかにも軍人らしい野蛮な脅しですね。だとしても僕は――」
「構わない、だったか? 大層な愛だな。ならば俺からもひとつ言わせてもらう。貴様、国に妻子があるだろう。それも二人も。一夫多妻だか何だか知らないが、そのような身の上でよくも彼女を求められるものだ。恥を知れ」
「!」
すると、これには流石のイシュも驚いた様子を見せた。
瞼を細めて押し黙るイシュに、レイモンドは冷えた視線を投げかける。
「何を驚くことがある。お前はとうに気付いていたはずだ。俺がお前を探っていることを。だからこんな形で俺を挑発することにした――違うか?」
「…………」
「お前が大商会の跡取りであろうと、俺にとっては何の関係もない。今後もこの国で商売を続けたくば、俺を敵には回さぬことだ」
レイモンドはそう言い捨てると、それ以上何も言おうとしないイシュを置き去りに、今度こそ庭園を後にした。




